芸人短歌より短歌批評が面白い
『短歌研究 2024年2月号』
今年から短歌雑誌を読んでいるのだが『短歌研究』がいいところは「作品季評」があるところか。文芸誌には『群像』に月間合同批評があったのだが、最近読んだら無くなっていた。合同批評はそれぞれの歌論があるのでそれを突き合わせていく面白さ。例えば、今月号だったら佐佐木幸綱という重鎮と大辻隆弘と今野寿美という中堅では短歌観が違う。そういうところで現代短歌の新作を読んでいく。勉強になります。特集はお笑い芸人と短歌。あと作品では初谷むいの作品が奇抜で目を白黒させたけど、けっこう好きかもと思ってしまった。
初谷むい「うたぱに」
頭が痛い短歌の登場だった。もう初谷むいは説明不要だった。
定形に収まらない独自なリズムだった。ただ短歌の形式が「恋歌」にあるとするならばけっこう共感力が高いのかもしれない。おじさんは共感しにくいけど。おじさんでこういう言葉に翻弄されるのもありかな。短歌プレイとか?
リフレインさせているから、短詩的ではある。短歌と呼べるかは疑問だが。彼女はそういうスタイルを超越しているのかもしれない。若者に共感しそうな詩だとは思う。
けっこう笑ってしまうけど、坂本九の歌で「涙くんさよなら」という歌がおじさんを共感させる。懐メロ的なファンタジーさがその辺にあるのかな。
このへんで段々と共感してくる自分が怖い。これが初谷むいのマジカルパワーワードか?
「ぽみゃ ぽみゃ」のオノマトペは折口信夫『死者の書』を感じさせる。なんか凄いのか、こけおどしなのかよくわからない。ただ彼女はマイペースの人なんだろうな。こんな歌を短歌誌に発表するぐらいだから。
前半のカワイさを最後の「くるしい」で締める。キラーワードだ。これはオタク系は参ってしまうかもしれない。
だんだんとファンに成っていきそうな気持ちがしてしまう。
このへんは穂村弘系なのか俵万智系なのか掴みどころがないが共感してしまうかもしれない。彼女のコトバはお花畑であると本人は自覚してやっているのだ。「夢の終わりのクラクション」このへんの言葉は痺れる。
【特集「芸人の短歌がアツい」】
短歌と芸人のコラボ。アイドルとのコラボとか、短歌界も生き残りに必死なのかもしれない。芸人というのが苦手だった。今の笑いが好きじゃないのかもしれない。昔の権力者をパロディにするような芸人がいなくなった。若手のお笑い芸人のコントはまず見ないし、TVのバラエティ番組がそもそも好きじゃなかった。
今回のこの企画。最初にコントを見るようにQRコードが出ていてそのYou Tubeを観てから、芸人が短歌を詠む仕掛けになっているのだ。コントを観てないと短歌はよくわからないかもしれない。歌人としては東直子がプロデュースという感じの歌会形式。
やっぱ歌人だけあって東直子は上手い。短歌だけでも意味がわかるし、魅力的な短歌になっている。「ふわふわの光」が東直子語かな。「心・技・体」というコントの言葉を拾って、もっとも重要なのは「ここに」がリフレインされた「ここにおります」。地下アイドルオタクのコントなのだが、女性ファンに絡んでくるキモ男のコントを爽やかに伝えている。東直子の短歌になっている。
これは上手いと思うが説明を聞かないとわからない。短歌が独立してないのだ。ライブ会場なんかでトラブルが起きてSNSのファンサイトに連絡が入ることがあるのだそうだ。そういうことは全然知らないから、これは単なるライブの入場案内かと思っていた。コントを踏まえて「出禁」なのだった。
これも東直子の短歌として独立している。「やさしさが」「空にとけます」はコントではないのだが、その前のリフレインの詩形とともにメルヘン短歌になっている。
水野葵以という人は歌人だった(お笑いの人かと思った)。それで目の付けどころが斬新だったのか。内輪ネタすぎるのかもしれない。俳句の句会と同じイメージだった。挨拶句みたいな。
芸人と短歌の解説の三点。
ゴウヒデキ「芸人と短歌の通底―面白さを支えるもの」
三点。
1、スキルについて。観察力。
2、技法について。ツッコミ、ずらし、見立て
3、姿勢について。アウトプットしていくこと。
批評
『短歌研究』にしたのは批評があるかなと思ったからだ。他の雑誌ではヨイショばかりで、シビアの批評がないような。そんな中で一押しは平岡直子「短歌にサボり方を教える」に注目した。平岡直子はアイロニー系で文芸評論家で言えば斎藤美奈子というような感じか?
自身の短歌本『起きれない朝のための短歌入門』の寺井龍哉の批評に対して読まずに批評するな!と管巻いている(これはオーバーな表現か?)。私は読んでいるから正々堂々と批評できるかな?
たぶん、木下龍也『天才による凡人のための短歌教室』と榊原絃『推し短歌入門』と同列にされたのが気に食わないのか?それらは今風の短歌で商売するための詠み・読みなのだが、平岡直子はベクトルが違う。批評性ということを言っているのだ。それは「短歌ブーム」と言われる短歌のコピーライト化。広告としての経済に回していくような短歌であり、その一つにXでの宣伝の仕方とか、SNSが東日本大震災で日本に広がるとそれに便乗するように「インフラ」として短歌のセールスを伸ばしていく。
平岡直子はむしろそうした短歌からこぼれ落ちた短歌に希望を見出す。それは批評性ということだろうか?短歌が「役に立つ」ものであるという目論見。そうした中で日本人の心性が一つにまとまっていくこと。例えば佐佐木幸綱・三枝昂之「百年の視点」で短歌が持つ「ハレの歌」という習性は戦時の軍国主義に利用されたものだった。その裏に日常性としての「ケの歌」があるのだが。サボりとしての役立たずの短歌こそ必要なのかもしれない。
書評では川野里子『ウォーターリリー』が気になった。モネの睡蓮的な短歌かと思わせるような相田奈緒の批評。
それと『短歌研究』には「作品季評」があるのだ。佐佐木幸綱(重鎮)と大辻隆弘、今野寿美の中堅どころが雑誌の短歌の合同批評をする。これは読み方の勉強になると思った。短歌が載っているのもいい。永井祐「いろんな移動手段」は現代短歌の第一人者。よくわからないと正直に告白する佐佐木幸綱が面白いけど、私より理解していた。こういう合同選評は文芸誌からは消えたので貴重だ(ヨイショ記事にそぐわないからか?)。
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