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シン・短歌レッス48

今日の一句

まだ全然早いがあじさいの蕾。そういえば『源氏物語』にはあじさいは出てこなかったような。七変化とか言われる花だから従順だった当時の女性にはなりにくかったのか?後であじさいの短歌も作ってみたい。とりあえず一句。

七変化変わるのは、いま。生きるため

川柳か俳句かわからんが句読点付き。
行分けしたほうがいいかな。短詩だけど。

七変化
変わるのは、いま。
生きるため

模範短歌十首

今日は現代短歌に戻って『角川 短歌 新春号』から。誰にするか迷う。好きな歌人だな。

かえらばや  穂村弘

尾や耳や鼻挟まれて泣いている動物たちが電車のドアに
僕たちに「痛い」「痛い」と叫ばせるオモチャあったアメリカンクラッカー
手品売り場のお兄さんからウインクをされたら六十歳になっていた
「愛敬」がちらばっている犀星を中心とした人物相関図
日本一ほほべに濃い街らしい 橋の上にはくるくると風
手裏剣を打ちたいという人の手を引っ張って「かがやき」に間に合った
はくとって白兎ですかと気がつけば大辻さんと江戸さんがうんうん
赤ちゃんの豹の命を救おうと云われて挽いた夜の珈琲
「奥様は魔女」の中ではハロウィンが万聖節と訳されていた

『角川 短歌2023年1月号』

穂村弘の短歌はわかりやすさだよな。それでいて最初の入りが衝撃的で動物が虐待されているのかと思ったら、結句に「電車のドアに」。人間だった。
「アメリカンクラッカー」がすぐに思い出せなくて。クリスマスの時にパン!と鳴らす「クラッカー」かと思ったが、「あった」「あった」。睾丸のような玉二つを紐に繋いでぶち当てるだけの代物。無心にやっていたよな。「痛い」という思い出はなかったけど。これが痛いとなるのはかなり下手なんでは?そうか、その延長線上にヌンチャクがあったんだ。「中国式クラッカー」。クラッカーを漢字にすると破壊棒か?
六十歳になっていたも面白いな。穂村弘も六十歳。

ブルース・リー中国式の破壊棒敵を倒さず我らを叩く

犀星は室生犀星だろうか?「愛敬」と「敬う」という方の漢字をつかっているから当時の詩人たちはそういう関係があったのか?犀星というと萩原朔太郎とか白州とか。室生犀星『我が愛する詩人の伝記』を思い出す。

他にも芥川龍之介とかも交流があったと何かの本に出てきたな。最近読みたいと思ったのは富岡多恵子『室生犀星』。繋がりが想像できなかった。

これはどこか想像するのが楽しい(それを狙っている)。愛敬ある街だから渋谷はパス。吉祥寺とか。イメージとして。横浜でもいいけど。ツンツンしてそう。橋からだと宇治とか(『源氏物語』のイメージ)?

橋姫はくるくるパラソル日傘ですほほべに紅く誰を待つのや

「手裏剣」の歌も架空の場所「かがやき」なんだろうな。すでに消滅した彼岸。幼い頃かもしれないし、江戸時代かもしれない。

砂に埋もれた錆びたナイフを放擲す彼岸のむこう那須与一まで

「大辻さん」が「大江さん」に空目。次の「江戸さん」の錯覚だろうか?多分歌人仲間なんだろうな?大辻隆弘と江戸雪。歌会なのかな?「白兎」は「いなばの白兎」か「はくと」と読ませるのは何だろう?「スーパー白兎」かも。
「豹は」「黒豹」か?「夜の珈琲」が味わい深い。
こういう細かいことはキリスト者ではないからわからないがグーグルによると「ハロウィン」の後が「万聖節」でキリスト教の行事なのだ。その前の「ハロウィン」はケルト神話の祭りで邪教といいうことだ。つまり魔女は「万聖節」と言ってはいけない。キリスト教の門下に下ったのか!ということだろうか?
総題の「かえらばや」は帰っていくことかと思ったら変わらなきゃという意味があるのかもしれない。一つ謎が解けた!室生犀星の「小景異情」という詩の最後が「遠きみやこにかへらばや」だった。


川柳レッスン

模範十句は今日も『時実新子 川柳の学校』。早速。

何だ何だと大きな月が昇りくる
長い堀だな長い女の一生だな
人形の首まうしろをみてしまう
人形の かの人形の 熱き乳房
沼に待つ者ら等しくうすみどり
盗み読みされた手紙の血しぶきよ
猫のいる景色の中へ戻れそう
熱の子のこんなに赤い唇(くち)の色
ののしりの果ての身重ね 昼の闇
野の佛明日も昨日もありませぬ
(野の仏いつからここにおわします)

『時実新子 川柳の学校』

「何だ何だ」のリフレイン。初句は7音なのだが7音はいいような。この句は「あそび心」だという。大きな月に驚いている作者と月から見られている小さな作者。
「長い堀」から「紫禁城」を連想したのはちょうどTVで見たからだった。愛人として囲われて皇帝を待つ長い時間とか。堀が立派になるほど「長い女の一生」なのかと。「長い堀(のような)」という直喩だという。隠喩にも思えるけど。「ような」「ごとく」を使わない直喩か?

この説明は隠喩だった。どっちでも比喩だということだ。

「人形」があたかも「まうしろ」向いたように感じてしまう怖さだろうか?助詞の使い方だった。説明的にしないということだ。

人形の首まうしろを見てしまう
人形の首まうしろをみてしまう
人形の首だからまうしろをみてしまう

三番目は説明だから駄目だと思うが、一番目はいいんではないかい。意志的な力を感じる。二番めは人が憑依してしてしまい怖い句だよな。
川柳がいいのは一時空けが使えるからな。俳句だと文句いいそうな人がいて。川柳ですといえば通じるか?自由律でもいいんだろうけど。川柳と自由律の違いも研究せねば。自由律は対象を詠むのか?だとするとこの句も自由律と言ってもいいかもしれない。これは擬人化で人を詠んでいるという発想。でも俳句にも擬人化はあるよな。ますますわからん!
次の句も風景に溶け込んで「うすみどり」なら俳句と言っていいような。季語がないけど。川柳は色に例えるのが多いという例。
川柳では「殺す」「刺す」など物騒な強い言葉が飛び交う。それは詩言葉で強い印象を訴えるということらしい。そればっかでは逆効果ではと思ってしまうが。注意するのは「差別用語」だという。これ難しいんだよな。まあ、公共の場では使わないことに越したことはないが。
「戻れそう」が推量で答えを出さない。問いかけでもあるので、他者を必要とするからだろうか?俳句は断定(きっぱり言い切る)と思っていたが。だから傲慢になる。
「熱の子」が「熱を出した自分の子」の省略だという。ただ流行の省略語は避けたいというスマホとか駄目なんか?ケータイもよくあるような気がするが。
「ののしりの果て」がいいと思ったが、ここは「の」の韻律だった。大抵「の」にすればなんとかなる?
()は類想句。同じ作者が類想句を詠むことはあるという。「野の佛」が1959年、「野の仏」が1964年。発想が同じだで句が似てしまう場合は先輩に譲ること。これは「類句」というらしい。まあ類想句の判断は初心者はわからんふりをしていればいいのではと思ってしまう。無意識的なものが出てしまう場合もあるから。指摘された知らんかったと謝ればいい。それで怒る人とは句会なんかしないほうがいい。

映画短歌

『レスラー』

「いいもん」と外人レスラー
庇った日
ブッチャーの血は聖水のごと

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