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現代の巫女が呼び醒ますツェランという精霊(ゴースト)

『パウル・ツェランと中国の天使』

コロナ禍のベルリン。若き研究者のパトリックはカフェで、ツェランを愛読する謎めいた中国系の男性に出会う。
〝死のフーガ〟〝糸の太陽たち〟〝子午線〟……2人は想像力を駆使しながらツェランの詩の世界に接近していく。
世界文学の旗手とツェラン研究の第一人者による「注釈付き翻訳小説」。

日本人作家だと思っていた多和田葉子がドイツ語で書いた作品が翻訳されるという。文学の越境もここまで来ているのだった。日本文学どうのこうのなんて彼女の前ではどうでもいいのかもしれない。だがはたしてそうでもなさそうなのは、やはり多和田葉子の母語としての日本語、それも漢字が随分と影響を与えているようなのである。そのへんの解説は翻訳者の関口裕昭に詳しい。一つは漢字が表意文字であるからその形から言葉を発想する仕組みが多和田葉子の中にあるような。

なぜ、多和田葉子がツェランか?それは多和田葉子がドイツ語で書いているから。多和田はドイツ語をツェランの詩から学んだという。日本に留学してくる人が漫画で日本語を学ぶとか、そういうパターンだと思う。

ツェランのドイツ詩は、もともとユダヤ人でありドイツ語が母語であるツェランの中では分裂しているのだ。それはアウシュヴィッツで家族や仲間を殺されたのもあるだろう。ツェランの中ではドイツ語を使う時、嫌でもそのことを思い出さなきゃならない。だからその詩はアウシュヴィッツをイメージする言葉で溢れている。

一見するとそんなツェランの言葉と戯れているような小説かと思う。ただそこに日本語の詩ではそういう文化があるので、例えば本歌取りというような形を借りて別の歌にしていくような。そもそも漢字を仮名文字にして、詩歌や作文に変えていったのが日本の詩歌の伝統にあるのでその延長線だと思えば驚くようなことはないのかもしれない。ツェラン研究者(むしろ読者という方が近い)がツェランの言葉に囚われながらも中国人のマスター(なんの達人だろうか?彼は天使だということなのだが)と出会い二人でツェランの言葉を浄化して歌にしていくというような。

多和田葉子の言葉使い師の才能は、呪術性にあるのだが、例えば手の甲を眺めて指の間に目があるとか、そういう「寄生獣」の呪術にかけられると自分の手がミギーなのか、と思ってしまうほどのインパクトがある。ゲンコツで握ると目を閉じるとか。身体性とコトバの成り立ちとか、ユダヤ教の経典「カバラ」とかそのへんのことも興味深いところがある。そこはカフカにも繋がってくる。

これも多和田葉子の呪術性なのだろうと思う。多和田葉子のコトバに対しての呪術性は、古代(万葉)の巫女のようだ。

多和田葉子はツェランでドイツ語に興味を持ち覚えて、ドイツ語作家になった。その恩返しという作品か?ツェランのドイツ語に対してユダヤ人としての引き裂かれた想いがツェランのドイツ詩には出てくる。ツェランの研究者(読者というべきか)がツェランの足跡を辿りながら中国人のマイスター(天使とされる)と出会って、ツェランの詩を歌に変えていく。それはツェランの詩の冒涜か?コトバは生ものとして多和田葉子の遊戯性の中で生きている。それは漢字をひらがなにした日本の遊戯性の中に生きてきた作家だからかもしれない。

またツェラン研究者だという翻訳者の関口裕昭の翻訳を超えてのツェランの詩の解説も良かった(かなりの注と解説が書かれて、読書の補助線になる。特にツェランの詩論『子午線』の紹介は、この作品のキーポイントだ)。ツェランの詩が読みたくなる。


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