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廃棄物ひびわれ花さき拾う人
『あんのこと』の映画館のポスターを撮ったもの。硝子の反射で使い物にならないと思ったが、アニエス・ヴェルダ『落穂拾い』を観て、なんか似ていると思ったのだ。しかし彼女は何も拾わない。社会から捨てられたのは同じなのか?
その前にU-NEXTの一ヶ月無料キャンペーンのメールが来ていたので、ふたたび契約したのは、Amazon Primeでは面白そうな映画が無かったから。家で暇こいているなら映画を観るのもいいと思った。映画館で上映されたが見逃している映画もあった。
『ミセス・ノイズィ』という映画を観た。
「騒音おばさん」というニュースにもなった有罪になったおばさんの映画だ。何か興味を惹かれて覚えていたのは、布団たたきと共に流される音楽がヒップホップやノイズ系だったからかもしれない。この映画を観て昔はこういうノイズみたいなうるさいオバサンはあっちこっちにいたような気がするが今は生存できないのだろうか?ネット炎上というのは、つくづく恐ろしいと感じる映画だった。
そんな映画とは対極なのか?アニエス・ヴェルダ『冬の旅』も観たが途中で劇場で観たことを思い出した。感想もnoteに書いていた。
その後にFilmarksのレビューを読んで『落穂拾い』を観た。
アニエス・ヴェルダの映画手法が「落穂拾い」的であり、「落穂拾い」に共感的だった。かつては絵にもなった人々だが現在ではホームレスの人々かと問題提起した映画だ。「落穂拾い」は聖書でも、フランスの法律でも認められいる権利だという。そうした我楽苦多を集めて芸術にする人もいる。現在の世捨て人なのか?日本でも俳人とかこのスタイルの人がいて最近憧れているのだが。西行とか芭蕉とか。
『ミセス・ノイズィ』でも農家の手伝いでキュウリの収穫で規格外の曲がったものは今では廃棄処分にしているというシーンが出てきた。食料難の時代にあるもう一つの食料廃棄の事実。『冬の旅』はそうした者の映画だった。
アニエス・ヴェルダが狭い集合住宅に住むおばさんだったら、騒音おばさんのようになっていたかもしれないと思った。
ル・クレジオ『ブルターニュの歌』はまだ「落穂拾い」が観られた時代だろうか?共同の井戸があり、誰もが使っていい井戸水だった。それが管理され汚染されているから使用禁止になり、そうした井戸水は水道水に変わる。『渇水』という映画も、社会から排除されるものの映画だったと思い出した。
今日は『ナチ刑法175条』を見に行こうかと思っている。
今日の一句。
廃棄物ヒビ割れ花咲き拾う人 宿仮
「落穂拾い」の句。今日の一首。
廃棄物
ヒビ割れ花咲き
捨てられて
我楽苦多は
再活用する
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