呪いは資本主義の妖怪ということか?
『近代の呪い』渡辺京二(平凡社新書)
著者は『逝きし世の面影』という名著と言われる本があるが、とりあえずこの辺の新書でもということに。近代化によって置き去りにされてしまったかつての自然に即した共同体社会。産業革命によって自然は破壊され、西洋の資本主義で一元化した世界経済になるわでそれを豊かさに対する呪いと言っているが、歴史を戻せということではなく、それを少し見直そうという話。その中でフランス革命がブルジョア革命ではなく国家主義社会をなってしまった歴史について解説するのは、大仏次郎の歴史本から学ぼうというもの。大仏次郎賞後の大学の講演記録。
この著者の名前を知ったのは石牟礼道子『西南役伝説』を読んだ時に解説かあとがきを書いてイたのだと思う。記憶が確かではないのだが、この本の中で石牟礼道子『西南役伝説』のことに触れているの近代化によって昔からの自然とともにあった共同体社会が人工的な資本主義社会となって自然を破壊していく。
その一つに国民国家主義があり、かつての日本人はせいぜい身の回りことだけを考えていたに過ぎなかった。それが教育の名で国民国家主義として豊かさを目指すためには戦争も必要だという議論になってくる。それは日本の知識人が主にインテリゲンチャとされる西洋の先進国に学んだ者が今の社会では頭打ちでありながら、いまだに世界経済大国の夢を見続けている。それは民衆から出てきた知識ではなく、日本という土地に沿った生活のために学んだ生きる知恵というもは自然と一体となった思考だったのだ。
西洋の知識は頭から学んだもので理想論とするが、インテリゲンチャとされるネーション(国民国家の思想)というものは国という権力者の管理社会(理想論としても)に委ねるもので、自然よりも人為的なシステムを優先する。それが国家間の領土争いや自然破壊に繋がりやがて人の心も破壊していくという。
つまり市民社会というものは利己的な国家の為の思想であって、ナショナリズムによる戦争は避けられないというような。また近代の分かれ目がナポレンオン登場の市民社会であるというのは、先に読んだ柄谷行人『マルクスその可能性の中心』とも繋がる話だった。
ただ歴史を逆方向に戻せということではなく、豊かさや人権問題など学ぶべきものものあったのだから、国家権力委ねない共同体のあり方を模索していくという試みだろうか?
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