お花畑小説ですが、お花畑の描写が素晴らしい
『ポールとヴィルジニー』ジャック=アンリ・ベルナルダン・ド サン=ピエール (著), 鈴木 雅生 (翻訳) (光文社古典新訳文庫)
インド洋に浮かぶ絶海の孤島で、美しい自然と慈母たちに囲まれ心優しく育った幼なじみのポールとヴィルジニー。思春期を迎え、互いに愛の感情が芽生えた矢先、二人は無情にも引き離され……。19世紀フランスで一世を風靡し、かのナポレオンも愛読した幼なじみの悲恋の物語。
ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』を読んで『ポールとヴィルジニー』の影響もあると知って読んでみた。『恐るべき子供たち』は都会っ子で両親も死んでしまった。『ポールとヴィルジニー』は植民地の島で片親(母)と奴隷の召使いに育てられた違いがある。ただ『恐るべき子供たち』の姉の夢に現れるのが『ポールとヴィルジニー』的な自然の楽園だった。そこでは弟が死んでしまうのだが。この小説では母親の夢に二人の幸福が現れるのは、福音主義だろうか?
コクトーの子供たちは都市への反逆児としての子供だが、サン=ピエールの子供たちはルソーの自然主義からきている。ただ自然が育んだ子供たちがそのまま安楽な生活が出来るのではなく、フランスの慣習に従わざる得ない運命を背負うのだ(ヴィルジニーはフランスへ教育の為に出される)。
ポールとヴィルジニーを引き離したのが、子供のまま二人が無作為に子供を産んだら悲劇になるという親の心配だった。そこに自然状態でおけない親の倫理があるのだ。それはキリスト教の福音主義だろうか?
二人が離されたときにポールの相談役(サン=ピエールの分身だと思われる独身男)とポールとの対話がルソーの啓蒙主義を伝えているように思える。当時のフランスの拝金主義と理念なき精神は、純粋な少年は貴族には上がれない腐敗した政治状況があった。若い男は金持ちになってしか結婚できない。それは腐敗した社会の中で生きていくことだった。徳のない社会。
彼らの生活が成り立っているのも、実は奴隷を雇える金のおかげなのだ。ポールがインドで戦争になって軍人になり殊勲を上げるという考えも否定していた。これはちょっと不思議なのだが、この男が退役軍人だったとすれば戦争の悲惨さを知っているのだろう。彼が薦めるのは文筆家としての生活。
しかし、ヴィルジニーの悲劇は本を読みすぎて狂人扱いとされたこと。もともと彼女の安泰は金持ちの男と結婚することに運命づけられていたから、それを拒否することは破滅を意味した。
お花畑小説と言えばそうなのである。ただこの小説の最大の長所は、お花畑と言える自然描写にあるのだった。そこに馴染めない二人の純愛物語はフランスによって引き裂かれた。植民地の島の幸福も彼らのものではなかった。その悲劇の中で救いを求めるのなら現世の不幸は来世によっ実を結ぶという福音主義だろうか。双子座の神話で二人を喩えていたので、その悲劇を倣った小説でもある。母親に現れた夢のお告げは、子供たちの悲劇を納得させたのだろう。
それと対象的な大叔母(ヴェルジニーの悲劇の原因)の孤独死はフランス社会の置かれた状況だ。独身男は孤独に生き彼らの物語を語った。
実際に著者であるサン=ピエールはナポレオン(皇帝)に大絶賛されて勲章を得たのだからこのおじさんだけが幸福者だった。
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