パルチザンとしてのパレスチナ(文化帝国主義に反抗して)
『パレスチナとは何か』エドワード・W.サイード 著 , 島 弘之 訳 , ジャン・モア 写真 (岩波現代文庫)
エドワード・サイードのドキュメンタリー『エドワード・サイード OUT OF PLACE』を観たときある公演でサイードを紹介するのに、パレスチナの専門家ではなく「オリエンタリズム」の専門家と紹介していたのが引っかかった。
それは他者としての視線に、例えばここで取り扱う写真は、ジャン・モアというスイスの写真家がパレスチナと呼ばれる人々を撮った写真である。それは内側というよりも外側から、最初の結婚式の写真が好例だと思うのだが、被写体の視線はどこか不審げに気まずさの中にある写真なのだが、その気まずさをサイードは物語っていく。
例えば逆の写真を我々はよく見るのだが、結婚式の写真でもパーティ会場の部屋で親戚一同に紛れ込みながら、料理を振る舞われる親しげなルポルタージュ。先日紹介した古居みずえ『ガーダ 女たちのパレスチナ』は疑似家族的なルポルタージュであった(この本も映画を先に見て関連本として読んだのだが)。
そうした映画や本とは決定的な違いは、サイードが外部からの視線を意識させるからだった。それは『オリエンタリズム』が外部から曝された中心からの批評書だということである。そこにあるのは「文化帝国主義」という一つの中心を持った物語に他ならいのだ。
例えばパレスチナをアラブのユダヤ人と評する人もいるという話だが、サイードはユダヤ人のディアスポラとパレスチナのエグザイル(亡命者という意味は「ディスポラ」と似たようなものだが、明確に言葉を分けるために使用する)は違うと主張する。それは生まれ故郷に墓を建てられなかったサイードのことかもしれなかった。
『エドワード・サイード OUT OF PLACE』でサイードが住んでいたというパレスチナの住居はマルティン・ブーバーの住居になったという、その家庭(過程)はユダヤ人のシオニズムに追い出されたという形だったのだ。サイードがシオニズムを敵と見なすのはそんなところかもしれない。ちなみにサイードはユダヤ人を一つの中心(シオニズム)とは見ておらず、ユダヤ人の中にも様々な人がいて、それがイスラエルという国家に集められたときでも、彼らの出身地(出自)は多様性であり、そのことが国家としてまとまらないと主張するのだが。
サイードの対シオニストはイスラエルに向けられるよりも、アメリカというその文化帝国主義に向けられているのだ。それは画一化させる文化思想の中心から逃れるための「オリエンタリズム」からの反撃、大江健三郎の周縁性を結びつけたのも中央集権に対する周縁の物語としてであったのだ。
他者の視線に曝された写真からサイードがパレスチナを語ることは、まさにそのように周縁的に生きなければならない生業、それはノマドとしてのパレスチナのあり方なのかもしれない。彼らの抵抗運動は文化としてパルチザンの戦いであり、それは中心からのテロリズムという視線から別の物語があるのであり、その多様性の姿こそがパレスチナなのだ。
例えば同じ家族でも息子世代はアメリカ人としてパレスチナとは関係のない生活をしているという。それでもサイードの奥さん(彼女はパレスチナではなくヨルダン人)はパレスチナの食事を振る舞うそうなのだ。そうした文化を伝えていくことがパレスチナのあり方としてサイードが中心とは別の物語を語ろうとしていることではなかったのか?サイードの奥さんがヨルダン人というのもかなり重要なことになるのは、「後記 ベイルート陥落」で語られることになる。
例えばサイードがパレスチナのキリスト教徒であるというのもパレスチナのイスラムとは違い、むしろ亡命ユダヤ人との親交を重ねてもいるのだ。それはサイードの音楽的趣味でバレンボイムとの協力でユダヤ・パレスチナ隔たり無く(理念としてかもしれない)調和させていくことの音楽プロジェクトを立ち上げていたりしているのだった。