見出し画像

【東京地下迷宮街】虎を諭す居酒屋【短編小説】

 東京の地下には、《何か》がある――。

 延々と続く下り階段を降りると、提灯の灯りが私を迎えた。
 地下街だ。
 古ぼけたコンクリートの壁が途切れ、通路の左右に提灯をぶら下げた店が並んでいる。
 酒と、焼いた肉のにおいが漂っていた。
 空っぽの胃袋には、かなり堪える。何処かで食わせて貰えないかと思ったものの、何処の店も満席だった。

 灯りはぼんやりとした提灯のみで、地下街は薄暗かった。
 客はみんな、フードや帽子を目深にかぶっていて、お互いに身を寄せながらぼそぼそと喋っている。
 奇妙な通りだなと思った。いつもならば、足早に通り過ぎるところだった。
 だが、ひどく惹かれた。私の居場所は、ここなのではないかと。
 提灯の淡い光に導かれながら、私は空席を探して通路を歩く。

 やがて、視界が開けた。天井が無くなったのだ。
 石を積み上げた急な階段が上と下に伸び、遥か頭上は天井が覆っている。どうやら、吹き抜けになっているらしい。
 上下に続く階段にも、提灯をぶら下げた店が所狭しと並んでいた。
「一体、どこまで続いているんだ……」
 身を乗り出して見てみると、提灯の光は、ずっと下まで続いていた。底の方に行くにつれ、光は闇に吸い込まれていった。
「そりゃあ、地獄まで続いているのさ」
 背後から声が聞こえた。振り返ると、小さな居酒屋があった。
 カウンターの向こうで、店主が焼き鳥を焼いている。それはよく見る光景だったが、何故か、店主は紙袋を被っていた。
「地獄まで? 穏やかじゃないですね」
 カウンター席が一つ空いていたので、私は導かれるように席についた。すると店主は、丁度焼けた串焼きを皿の上に置いて、私の前に出してくれた。
「食いな」
「えっと、おいくらですか……」
「俺の奢りだ」
 紙袋にあいた二つの穴から、店主の威圧にも似た視線を感じた。
「ご馳走様です」と私は店主の厚意を受け取ることにした。
「虎になられた時、空腹だと敵わないからな」
「虎……」
 中島敦の「山月記」が頭を過ぎる。焼き鳥に伸ばした手が止まった。
「私は、虎になってしまうのでしょうか」
 自分の口から出たのは、ひどく乾いた声だった。店主は、「さあな」とぶっきらぼうに言った。
「だが、虎になりそうな奴がここに来る」
 店主はそう言って、私の席に飲み物を出してくれた。酒ではなく、緑茶だった。
「私は、もう虎になってしまったのかも」
「どうした」

 店主に問われると、私は堰を切るように話し始めた。
 私はある会社で、ちょっとした立場にいる人間だ。入社早々に手掛けたプロジェクトが非常に評価され、異例の昇進を果たしたのだ。
 周囲は私を褒めたたえた。私はすっかり、天狗になっていた。
 だが、何年経っても、それ以上の功績を残せなかった。
 そして、つい数日前、後輩が上司になってしまった。
「私の部下だった後輩が、今度は私に指示する立場になったんです。その時の屈辱と言ったら……。危うく、後輩をこの手で――」
 私は自らの手のひらを見つめる。ごつごつした指の、皺が無数に刻まれた手だった。
「やっちまったのか?」
「いいえ……。踏みとどまりました」
 私は頭を振った。「これからは逆の立場ですねー」と、暢気に階段を下りる後輩の背中を押そうとしたが、触れる寸前で我に返った。
「後輩を階段から突き落とそうとした時、自分の中の人喰い虎の存在に気付いたんです」

 後輩は悪くない。彼は優秀だったし、自分の部下だった時も聞き分けが良かった。
 だが、彼の下につくということは、私のプライドが許せなかった。
「きっと、私は後輩を見下していたんです。その後輩だけじゃない。他の人間も。虎になりそうな人間がここに来るというのなら、確かにその通りだと思います」
 そして、階段をひたすら下りると地獄に繋がっているというのも、納得がいく。
「一度は踏みとどまったものの、私の中の人喰い虎はずっと暴れています。いずれ、私は過ちを犯し、人生も奈落に落ちるでしょう」
「……そうかい」
 店主は、いつの間にか手を止めて聞いていた。
 中島敦の「山月記」は、秀才であり自信家である李徴が、自尊心を傷つけられて人喰い虎になる話である。李徴には、虎になっても尚、話を聞いてくれた旧友袁傪がいたが、仕事ばかりしていて交遊を怠っていた私に、袁傪のような旧友はいない。
「虎になった李徴は、結局のところ、人間には戻れませんでした。私も、恐らく……」

「いや」
 店主は私の言葉を遮った。
「お前さんはまだ、虎になっていないだろう。暴れる虎を、ちゃんと押さえつけたんだ」
「でも!」
 私は思わず声を荒らげた。だが、周囲に人がいるのを思い出し、声と肩を落とす。
「でも、人喰い虎は今でも私の中で暴れている……。臆病な自尊心と、尊大な羞恥心が私自身を食い破りそうになっているんです。それに、切磋琢磨しなかった怠惰のせいで、私は自身の若い頃を越えられなかった……」
 自分自身に力が足りないのだと痛感していた。お前が怠けていたのだと自らを責める心が、自らの内側に爪を立てていた。
「どうだろうな」
 店主は、深い溜息を吐きながら言った。
「お前さんが本当に、成功の上で胡坐をかいてサボっていたかは分からない。だが、そうとも限らないぞ」
「どういう、ことです……」
「成功っていうのは、運もあるんだ。たまたまタイミングが良くて、他の要素がお前さんに味方をして、成功を収めた可能性もある」
「それじゃあ、私は不相応な成功を収めたってことですか? 自らを買いかぶっていたということですか?」
 私は詰め寄りそうになる。だが、店主は飽くまでも静かに応えた。
「運を味方につけるのも実力のうちだ。木船を漕ぎ手だけで進めるのは大変だ。帆を張って、風を味方につけて進むだろう?」
「では、たまたま風が思うように吹いたから……」
「脆い木船や粗末な帆では、風に耐えられない。お前さんは、風を受け止めるだけの力はあったってことさ。そこは確実に、お前さんの実力じゃないか?」
 成功の美酒に酔いしれて、周囲に醜態をさらすものもいる。そういう人間の周りからはすぐに人がいなくなるが、そうではなかった。数年間、ちゃんと人の上に立てたのだということを、店主は私に教えてくれた。
「お前さんがやれることは、人喰い虎を説得することだな。自分は自らの最大の理解者にもなれる。お前さんが、自分の袁傪になるといい」
「私が、袁傪に……」
 変わり果てた姿になった李徴の正体を言い当て、本心を聞き出した袁傪になれるだろうか。

「寧ろ、あなたが袁傪では……?」
 私は、店主を見つめる。
 店主もまた、紙袋ごしに私を見つめていた。ぽっかり開いた二つの穴の向こうに見える目は、井戸水のように素朴で、澄んでいると思った。
 だが、店主はさっさと視線を手元に戻す。
「よせよ。俺は初対面だ。それに――」
「それに?」
「俺も、虎になった人間だからな。そういう奴が、この地下街に逃げ込むんだ」
 私は、店の天井からぶら下がった裸電球の光が、うっすらと紙袋を透けさせていることに気付いた。
「……!」
 紙袋に浮かび上がったシルエットに、思わず口を噤む。
 そこにあったのは、人の頭ではなかった。二本の太い角のようなものが伸び、紙袋を支えていた。開けた口にも、ずらりと牙が生えていた。
 虎というより、もっと別の異形に見えた。
「どうした?」
 中身が見えていることに気付いていないのか、店主は私に問う。
「何でもないです」と私は目をそらし、すっかり冷えた焼き鳥を口にした。
 ほどよい焼き加減で、とても柔らかかった。歯を立てれば肉汁が溢れ出し、肉についた塩味と絡まって、とても旨味があった。じっくりと咀嚼して飲み込めば、空っぽだった胃が、喜びで満たされるのを感じた。
「どうだ? うまいだろう」
「美味しいです……」
 自然と、涙が視界を滲ませた。すっかり、涙声になっていた。
「心がささくれ立った時は、美味いものを食べるといい。そうすると、頭が働くようになる。虎だって、少しは大人しくなっただろう?」
 私は、こくこくと頷いた。喋れなかったのは、焼き鳥を頬張っていたからだ。

 店主が何であっても構わない。ここが地獄の入り口でも構わない。
 私はただ無心で、一本の焼き鳥を貪った。
「――ご馳走様でした」
 すっかりお茶を飲み干し、焼き鳥も串だけになっていた。自然と財布を取り出していたが、店主の異様に大きな手がそれを制止した。
「いいよ」
「でも」
「お前さんがここの住民にならないなら、それが俺にとっての幸いだ。だが、暴れる虎に怯えてここの住民になるっていうのなら、代金を払ってくれ」
「いえ……」
 自然と、心の中の人喰い虎は静かになっていた。
 いなくなったわけではない。まだ、目と爪を光らせているが、心の中でぐるぐると歩き回るだけで、暴れる気配はなかった。
「帰ります」
「それがいい。お前さんの居場所は、こんな薄暗い地下じゃない。お天道さんの下だ」
 店主は、安心したように言った。
 いつの間にか、店にいた客はこちらを見つめていた。だが、帰る旨を伝えたら、興味が無くなったように視線をそらした。
「でも、ここも悪いところじゃないと思うんです」
「どうしてそう思うんだ?」
 私は立ち上がり、店主に頭を下げた。
「あなたが、私の心に袁傪を置いてくれたから」
「よせやい」
 店主は照れるように顔をそむけた。
「自分の中の虎を抑えられたのは、お前さんの実力だ。俺の話なんて聞かないで、そのまま虎になって飛び出しちまったやつだっている」
「そう……なんですか?」
「そういうのが、底の方で溜まっているのさ」
 店主は、この話は終わりと言わんばかりに言い切った。
 私はもう一度頭を下げると、「ご馳走様でした」と言い残して踵を返す。店主は、「おう」とだけ言って、再び肉を串に刺し、金網の上で焼き始めた。 

 私は振り向かず、奈落にも向かわず、階段をひたすら上った。
 ぶら下がった提灯が、ゆらゆらと揺れている。私を、地上に導いてくれているように見えた。
 途中で、ふと、後輩のことを思い出す。
 彼は二人っきりの時に、「組織上は俺の方が上になっちゃいましたけど、今まで通り呼び捨てでいいんで」と困ったように笑っていた。彼は相変わらず、私のことは「さん」付けだった。
 彼が今までと変わらぬ態度だったのも、もしかしたら、私が彼と積み上げたもののお陰だったのかもしれない。勿論、彼自身が出来た人間だったからというのもあるだろうが。
 そんな後輩に、手を下さなくて良かった。あの時、虎を押し込めることが出来て良かった。
 私は虎になりそうになるほど矮小な人間だったが、虎を御することも出来る人間なのだ。そこは、自分を評価してやろう。
 そして、再び風が吹くチャンスを逃さないように目を光らせながら、自分という船を改良していこう。帆を大きくすれば風を沢山受けられるし、支柱を太くし、船を頑丈にすればバラバラにならなくなる。

 気付いた時には、私はメトロの駅構内にいた。
 見慣れたお洒落な地下街の中で、立ち尽くしていた。
 私は慌てて、人の流れに乗りながら地下街を出る。夢でも見ていたのだろうか。
「いや、違うな」
 口の中に、あの焼き鳥の旨味が残っている。頭も、やけにすっきりしていた。
 続いているのは決して楽な道ではない。進むのをやめたら、あっという間に周囲に追い抜かされてしまう。
 だから、私は進み続けよう。
 地下から出ると、夜空に浮かんだ満月が私を迎えてくれた。
 あの幻想的な地下街の光に比べると眩しく、私を否応なしに現実に引き戻す。
「もう少し、頑張るか」
 私は、誰に言うでもなくそう呟いて、帰路へとつく。
 近所で焼き鳥でも買って帰ろう。ノンアルコールビールのつまみにしながら、しょうもなさ過ぎて笑えるバラエティー番組を見て、明日からまた頑張ろう。
 心の中で、私の決意に応えるように、虎が一声吼えて茂みの中へと消えて行った。

よろしければご支援頂けますと幸いです! 資料代などの活動費用とさせて頂きます!