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後輩書記とセンパイ会計、 墨絵の雨情に挑む


 開架中学一年、生徒会所属、有能なる書記のふみちゃんは、時代が違えば日本の水墨画の祖である高僧、如拙の説法に顔を連ねる人にだってなれただろう。ふみちゃんは小学生時代、校内写生大会で、愛用の毛筆一本で見事な水墨画を描き、県のコンクールに学校代表で出品され、有名な水彩画家の審査員から特別賞をもらうほどの上級者だったらしい。
 ふみちゃんの話によれば、水墨画は鎌倉時代に禅とともに日本に伝わったものと言われるが、古くは奈良時代の頃から墨一色で描かれた絵画はあり、平安時代以降は仏像や曼荼羅などを伝承するために墨絵が多く描かれたそうだ。
 一方、自分の毛筆の手入れもできず墨で固くしてしまっている一年先輩の生徒会所属、平凡なる会計の僕は、およそ吊り合わないほどの書画知らずで、数学が得意な理屈屋で、筆をほぐすお湯のせいで曇った眼鏡のレンズを丁寧に拭く程度だった。
 ふみちゃんは、消しゴム大の固形の墨を硯(すずり)で黙々とすって水に解かしている。その横で、僕は何の気もなく墨汁を硯に注ぎ、水で薄めていた。僕が書道道具を出したのは小学校の授業以来数年ぶりで、お湯で筆を洗っているが、なかなかゴワゴワがなくならない。
 今日のふみちゃんは長い黒髪を右側に寄せてひとつリボンで結んでいる。それと、肩を丸々出した山吹色のタンクトップと、丈の短いデニムパンツだ。書道の格好にしてはやけに露出度が高い。かがんでいると、このままクラウチングスタートで駆け出しそうだ。
「ふみちゃん、今日は両側結びじゃないんだね。気分を変えたの?」
 本当はそれよりも肌の露出が気になる。
「数井センパイ、違います。雨の日はうまくまとまらなくて、こうなりました」
 朝から雨だった。女の子の髪はそんなもんなんだろうか。
 六月二十八日、今日は『雨の特異日』で、偶然とは思われないほど高い確率で雨になる日らしい。気象現象に少し詳しい銀河さんがそう話し、雨の降りしきる窓の外を眺めながらつぶやいた。
「――雨の日は、飾らないほうがいいのよ」
 銀河さんは、生徒会長である屋城世界さんの姉で、大学生だった。大学でボランティアサークルにも入っているそうで、介護ホームで水墨画を楽しむ会をやるので、描き方を覚えたいと考えたらしい。で、弟の世界さんが生徒会室でふみちゃんに「水墨画とか描けるか?」と聞いたところ、即座に快諾して、世界さんの家でふみちゃんから水墨画を教わる会が開かれることになった。
 ちなみに、ふみちゃんは黄緑の傘とオレンジの水玉レインコートと赤い長靴でここに来た。絵本から飛び出てきたようなカラフルさだった。脱いだレインコートは玄関に干してある。

 ここは、世界さんの広い家にあるお客様用の和室だ。カチャッとドアが開く。
「姉さん、半紙と文鎮、買って来たぞ」
 世界さんが買い出しから戻ってきた。世界さんはすごい名前だが、性別は男だ。陸上部のエースで、走り幅跳びで県大会に行くほどのスポーツマンである。姉の銀河さんは当然女性だが、子供の頃から名前でよく逆の性別に間違えられたらしい。世界さんは細身ながら筋肉がガッチリしていて、よく日焼けしており、女性らしさはまったくない。一方、銀河さんはショートの巻き髪で女性らしく、肩紐のない夏服で、背中も肌がかなり出ている。
「文鎮を人数分買ったら結構重いですね」
 世界さんの後ろから、女子副会長の英淋さんも入ってきた。一緒に買い出しに行ったのだ。英淋さんは僕と同じ学年だが、留学経験があるので一歳年上である。留学先で日本文化に詳しくなったらしく、今日の水墨画教室も喜んで参加した。英淋さんはおっとりした物腰で、少し歩き疲れたようにすっと部屋の隅に座った。あれ、描く気はないのだろうか。
「ふみすけ、待たせて悪かったな。これでいいか?」
 世界さんはふみちゃんを『ふみすけ』と呼ぶ。すると、ふみちゃんはまるで子犬みたいに買い物袋のそばへ小走りに寄った。
「はい、屋城センパイ、合ってます!」
 ようやく道具が揃って満足げな笑顔だ。銀河さんは立ちあがり、
「よーし、じゃあ、ふみすけちゃん、始めよっか。今日はひとつよろしくお願いします!」
 なぜか準備運動みたいにストレッチを始めた。いや、水墨画なのだけど。そして、僕はようやくほぐれた筆をお湯から出し、新聞紙で水分をふき取った。ガサガサと音が鳴る。世界さんも自分の場所に座って筆を構えた。そして、英淋さんはクスクス笑うと、みんなの麦茶を入れてくると言ってキッチンへ行った。何かちょっと世界さんの家に慣れてる気がする。
 ふみちゃんは半紙を適当に分けて、ちょこちょこと配って回った。背は小さいけれど、先生っぽく胸を張る。
「では、手始めに縁起のいい『松』から描きましょう」
 ――いきなり言われても、描き方がわかるわけがない。松って木だよな。とりあえず幹とか枝を描けばいいのかな。ふみちゃんは水を得た魚のように、筆を得て朗々と言った。
「まず富士山を描いてください」
 ……どっちだ。松を描くのか。富士山を描くのか。手が止まる。
「ふみちゃん先生、どっちですか?」
 自分で言ってみて恥ずかしかった。
「数井センパイ、違います。ふみちゃん先生じゃないです」
 ふみちゃんも自分で言ってちょっと恥ずかしい表情だ。
「松の絵を描くとき、松だけを描いたら水墨画ではありません」と、例によって難解な説明が始まった。銀河さんは「えっ」と目を丸くして率直に驚くリアクションをしているが、その横で世界さんはいきなり羽のある馬だか牛だかわからないものを描き始めていた。それは松でも富士山でもない。世界さんが顔を上げる。
「ふみすけ、最終的に松を描けばいいんだよな?」
「はい、それでいいです」
 何の迷いもないふみちゃん先生。戸惑う銀河さん。
「えっ、そうなの? んー。ねぇ、ふみすけちゃん、富士山はどっち向きを描けばいいの?」
「思うがままに――です」
 ふみちゃん先生の教え方は意味不明だった。これは教えているうちに入るのか? すると、銀河さんは先生の言葉に従って思うがままに、いきなり上下逆さまの富士山を描きはじめた。いや待ってくれ、この姉弟の思考回路はどうなってるんだ。世界さんは羽のある馬か牛かわからない動物の横になぜか車輪とかも描き出した。一方、銀河さんはなぜか二個目の富士山を描いている。どっちも理解できないが、まだ何も描いてないのは僕だけだ。一応、最初は先生を頼るべきか?
「ふみちゃん、松から描けばいいんだね?」
「数井センパイ、違います。富士山から描いてください」
 にこやかにふんわりと否定された。僕は半紙の真ん中あたりに富士山を描き、山の中腹あたりに木を何本か生やしてみた。自分にあまり絵心がないのは知っていたが、やっぱりいまいち貧弱な絵だ。松ってどんな葉っぱだったかよく思い出せない。木に点点点と打ってみる。しかし、何かそれっぽくならない。途中で曲がったり、毛が生えてたりしただろうか?
「数井センパイ、教えるね」

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 急にふみちゃんが僕のすぐそばに来て、僕の筆を取り、体の下に潜りこんできた。サラサラの黒髪がすぐ鼻先に迫る。おっ、おっと、待ってくれ。まっ、待ってくれ。準備が。
「ど、どうするの?」
 話しかけるんじゃなかった。ふみちゃんがくるっと振り向く。ものすごい顔が近かった。息が当たりそうだ。僕が下手だから不機嫌かと思ったが、そんなことはなく優しい瞳で微笑んだ。
「センパイ、線のかすれは上手だよ」
「えっ、ああ。うん」
 どうやら僕はいま少し褒められたようだ。顔が赤くなる。
「富士山は遠景なの。で、松は近景。だからね、こうして欲しいんです」
 ふみちゃんが、僕の描いた松の斜め上あたりに新しい富士山の峰を描いた。墨の線の引き方が恐ろしく上手い。今日初めて水墨画をやった僕が見ても、普通の引き方ではないと思った。線に迷いがない。あっという間に立派な山の絵が現れた。
「一枚の絵に遠景と近景を入れるの。その間はぼんやりと空白にするの。そしたら距離ができるから、松の木はもっと大きく描いていいの」
 の、の、という語尾のつながりが不思議と心地良かった。ふみちゃん先生は、普段の話し方とは少し違った。そう言えば、いつもの難解な日本文化の説明を聞くのとは違う。すぐ目の前でふみちゃんが僕の半紙に美しい水墨画を描いていく。頭を動かす度に体が触れそうになる。かがんで夢中に描いているため手元が見えないが、しばらくして急に手が止まった。
「――数井センパイ、ごめんなさい」
「ん、どうした?」
 気まずそうな顔で身を起こす。
「先生が、描き過ぎちゃいました……」
 確かにいつの間にかだいぶ完成していた。松の葉は扇のように力強く外へ広がり、それがいくつも重なって豪華になっていた。ただし、僕が最初に描いた山や松の線はすっかりふみちゃんの絵に飲まれ、まったく跡影もなかった。
「なあ、ふみちゃん先生」
「違います。ふみちゃん先生じゃないです」
 さっき自分で『先生が描き過ぎた』って言ったじゃないか。まあ、いいか。
「松はさ、海岸とかにも生えてるけど、海の絵でもいいの?」
 僕はあえて聞いた。もう一枚、今度こそ自分で描くにしても、同じ風景は描かないつもりだ。周りを見れば、世界さんも銀河さんも当然富士山や松の木らしいのはあるが、ひたすら自由に描いている。世界さんのはもう怪獣大戦争か神々の最終決戦みたいになっていた。麦茶を持って来た英淋さんはお盆を置き、世界さんの水墨画を楽しそうに眺めている。一方、銀河さんは水面に映った二つの富士山を中心に描いているようだった。どっちも筆が早いなぁ。
 とにかく、お題を与えられてそのまま描くのが芸術じゃない、と僕は誰かに教わったことを思い出したのだ。僕の変な問いに、ふみちゃんはちょこんと座ったまま答える。
「海ですか。中国の水墨画は山や河をよく描きますけど、それは海が遠いんですよ。その分、日本は海が近いからそう思いますよね。水墨画では珍しいですけど、思うがままに――いいですよ」
「ふみちゃん」
「はい」
 今度はちゃんと返事が来た。

 午前中はそんな感じで終わり、銀河さんがキッチンに立ち、海老チャーハンをみんなに振る舞ってくれた。英淋さんも手伝いに加わり、玉子スープを作る担当になったようだ。
 ふみちゃんは意外にも包丁はほとんど握ったことがないらしく、料理しない三人でテレビをつけて待っていたが、世界さんが日課のランチ腹筋を始めたので、僕とふみちゃんでキッチンの様子を見に行った。ガスコンロが五個もあり、まるでレストランの厨房みたいだ。二人で目を丸くすると、銀河さんが炒めた海老を一個ずつくれた。熱々のプリプリで絶妙な塩加減だ。口の中でうまみが弾ける。
「数井センパイ、午後は海老を描いてください」
「え? 水墨画でか?」
 僕が首を傾げると、英淋さんが玉子スープをかき混ぜながら楽しそうに口を挟んだ。
「数井くん、有名な水墨画で、海老で鯛を捕まえるものがあったよ」
「それはことわざじゃないですか?」
「あれ? 瓢箪で駒を捕まえるんだっけ?」
 何かごちゃごちゃだ。英淋さんも自信がなさそうだが、僕も正直よくわからない。
「英淋センパイ、違います。如拙の描いた、瓢箪(ひょうたん)で鯰(なまず)を捕まえる水墨画ですよ」
「なまず? 何なのそれ。入るの?」
 中華鍋にご飯を入れながら、銀河さんも話に混ざってきた。雨の日の気分なんかお構いなしに、最大火力で中華鍋を豪快に振りはじめる。海老がたくさん入ったご飯が軽やかに宙を舞う。ふみちゃんは美味しそうなチャーハンを目で追いながら続けた。
「瓢鯰図って言うんですけど、足利将軍四代目の足利義持が如拙に描かせた禅の公案で」
「んー、話が長そうだね。ふみすけちゃん、それ食べながら聞こう」
 銀河さんはスパッと切って料理に集中した。英淋さんもスープの味見をして、僕たちにグーサインをぐいっと向けた。何だかマイペースな似た者同士の二人だ。それとも料理中だからか。ふみちゃんは話をさえぎられて弱り顔をするかと思ったが、喜びうずうずした表情でテーブルに戻って行った。まったく、こっちもこっちでマイペースだな。

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