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最終話 後輩書記とセンパイ会計、 不死の跳躍に挑む




豊かな人生を送るための秘訣、
それは、終わりより多くの始まりを持つこと。
(デーブ・ウェインバウム)




 開架中学三年、生徒会卒業、万能なる元生徒会長の屋城世界さんは、時代が違えば『天へ昇る永遠の階段』とも言われる古代エジプトのピラミッドを建造するほどの王になっていただろう。世界さんは小学生時代、ピラミッドの研究書を読み、いかにあの巨大建造物が作られたか、それを統治する王の力はどういうものだったかを考察し、小学校の卒業文集に記すほどの猛者だったらしい。ピラミッドという言葉は、実はエジプト語でなくギリシャ語で、元々あの建造物は、「上昇」を意味する「メル」という言葉で呼ばれていたらしく、古代エジプト人のイメージする「魂」は鳥だったそうだ。魂は飛んでいくものであり、天へ昇り、太陽とともに地平線に沈み、東の空からまた生まれる。その転生の思想に少年時代の世界さんは強く魅了され、自分もいつか歴史に永く刻まれることをしなければならない、と奮い立ったそうだ。
 そんな世界さんの開架中学最後の日を見送る――新しい穏健なる生徒会長の英淋さんと、続投の有能なる書記のふみちゃんと、お世話係り続投の平凡なる会計の僕は、生徒会活動費の残りを使い、足りない分は三人でお金を少しずつ出し合って、世界さんの重厚な黒い机の上を花で飾った。世界さんが好きな赤いバラの花や、彩りの美しい白い花やかすみ草を華やかに盛る。これは英淋さんの発案で、もちろん世界さん本人には内緒だった。
 入って来るなり、世界さんは笑った。
「お前ら、一日早いぞ。俺だってまだ卒業の気分じゃないのに」
 三月十七日――卒業式の前日。四人は卒業式のリハーサルで集まった。ただ、リハーサルというのは名目に過ぎなかった。僕たちは先生たちに内緒でお菓子やジュースを持ち込み、最後の『世界さんお疲れさまパーティ』を開いたのだ。卒業式の当日は学校が午前中だけで、みんな慌ただしい。英淋さんは夏休みの終わり頃から通っている進学塾があるらしいし、それなら前日にリハーサルの名目で世界さんを囲もう、ということになった。もちろん世界さん本人にはずっと内緒だった。
 いざ、テーブルに並んだお菓子とジュースを見て、世界さんはまったく迷うことなくお誕生席に座った。
 そして、世界さんは部屋中を見渡した。生徒会室には、僕たち開架中学生徒会のこれまでの活動写真がたくさん貼ってあったのだ。三人が携帯カメラで撮っていたものをいろいろ集め、僕が家でプリントし、三人して蛍光ペンでメッセージを書き添えて、ドアの裏や壁にペタペタ貼ったのだった。
 ちなみに、打ち合わせで、僕はクラッカーを鳴らそうと提案したが、英淋さんが「大きい音は恐いからダメ」と止めた。静かな送別会の始まりだが、これもいいなと思う。
 英淋さんは紅茶のシフォンケーキを手作りで焼いてきて、世界さんの前でケーキの箱を開けた。シナモンの香りがふわっと立ち、上には世界地図の絵が描かれたクッキーが載っていて、世界さんは早速食べたそうに見入った。
「英淋、自分で焼いたのか?」
「うん、本を読んで作ったの。味見はちゃんとしてきたよ」
「すごいな。これはいつでも食べたいくらいだ」
 世界さんが「もう食べていいのか?」という顔でフォークを持つので、英淋さんは嬉しそうに照れ笑いを浮かべながらナイフで切り分けた。本当にお店のデザートで出せるような立派なケーキだ。英淋さんは家で何度か練習して、試作品は全部弟たちに食べてもらったと言っていたので、ここにあるのは英淋さんの努力の結晶なのだ。僕は世界さんが誇らしく、後輩として羨ましかった。
 その世界さんは、明日が最後だ。世界さんの行く高校は、自転車で行けるくらいの距離だけど、中学生と高校生だと心の距離は遠くなるに違いない。世界さんは高校の陸上部でさらに練習を積んで活躍するだろうし、高校の大会とかに出たら全国へ遠征することもあるらしい。間違いなく遠い世界へ行ってしまう。もう、先輩と後輩の距離ではない。……と、ふいに鼻をすする声がするので見ると、英淋さんがケーキを取り分けながら、少し涙ぐんでいた。
「おい、英淋。泣くな。一日早いぞ」
 直球で泣くなと言う世界さん。うつむいた英淋さんは、手が震えていて、途中まで切ったケーキが倒れそうだった。
「あ、僕がやるよ。世界さんの隣りに座って」
「――数井センパイ、私が代わります」
 ふみちゃんが英淋さんからやさしくナイフを受け取り、世界さんの皿から順に一切れずつ置いていく。世界地図のクッキーは、もちろん世界さんの皿に添えられた。その間、僕は戸棚からフォークを四本出して並べた。
 英淋さんは、力が抜けたようにイスに腰かける。すると、世界さんが英淋さんの肩をなぐさめながら、ポケットから変わった物を取り出した。
 見たことがない海の生き物の写真だった。これは……クラゲだろうか? 体は透明で白いが、体内にほんのり赤い色がついている。
「不死の存在は――実在する」
 唐突だった。何を言い出したのかと思った。
 とりあえず僕とふみちゃんも座り、ジュースをコップに注いだ。世界さんは好きな炭酸系のスプライトを。英淋さんには紅茶を、ふみちゃんにはお茶をつぎ、僕は――今日は世界さんと同じスプライトにした。
「これは『ベニクラゲ』という小さなクラゲだ。赤い消化器官が透けて見えるのが名前の由来だ」
 世界さんが語りはじめ、みんなに見えるようテーブルの真ん中に写真を動かした。
「これが……不死なんですか?」
 尋ねると、世界さんはまずはケーキをほおばった。僕たちも続いて口に運ぶ。これは美味しい。素直に美味しいの一言しか出ない。ふんわりしっとりしていて甘みもほどよくて、文句なしに美味しかった。
「英淋、ありがとう。最高にうまいぞ」
 世界さんは満面の笑みを浮かべ、心の底から上機嫌な声で英淋さんに感謝した。
 目に潤みを溜めていた英淋さんは、上品な刺繍のハンカチで涙をふき、「うん、良かった」と微笑み返した。もう何だか今日はこれだけで胸がいっぱいになる。英淋さんがどれだけ深く長く世界さんを慕ってきたか、言葉にならないほどだった。
 世界地図のクッキーを見て、世界さんはハハハと楽しそうに笑う。小麦色の部分が海で、ココア色の部分が大陸でできている。どうやって五大陸を作ったんだろう、と不思議に見ていると、世界さんが英淋さんに同じことを聞いた。何だか思考が一緒で面白かった。
「白い生地とココアの生地をちぎってくっつけ合わせてね、世界地図になるように押したの」
「押すのか?」
「うん、サランラップを巻いて、ギュッとね。まな板の上で」
 英淋さんがまな板で押す動作をしてくれたが、クッキーの作り方を知らない世界さんも僕もピンと来なかった。でも、生地を押してこんな上手に世界地図ができるなんて手先が器用だなぁ、と感心する。クッキーは、僕たちの分もカバンから出てきたけれど、それは世界地図の模様でなく普通の小麦とココアの二色だった。
 世界さんだけ――特別なのだ。英淋さんのおもてなしだ。
「悪いな」
「いえ、とんでもないです。主役ですから」
 世界さんは香ばしい世界地図クッキーをパクッと一口で食べ終えると、「世界を食った気分だ。甘いところばかりでなく……それがまた感慨深い」と感想を言った。
 英淋さんは焦って「苦かった?」と聞いた。でも、世界さんは首を横に振る。試しに僕もクッキーをつまんでみると、確かにココア味のほうは少し甘さが足りず苦かった。けれど、世界さんの言う「甘いところばかりでなく」という言葉が気に入って、何も言わなかった。ふみちゃんは黙々とシフォンケーキを少しずつ細かくして食べている。口が小さいのだ。
 世界さんはケーキも完食した。
「クラゲの話をしよう」
 英淋さんが世界さんのおかわりをもう一切れ取り分ける間に、世界さんは続きを語り出した。
「不死を追い求めた人間の歴史は長い。昔、中華全土を初めて統一した秦の始皇帝は、不老不死を求めて、家来を日本に送ったそうだ。また、かぐや姫は時の帝(みかど)に不老不死の薬を与え、月に帰った伝説がある。あるいは、人魚の肉を食べれば不老不死になるという伝承も残っている。けれど、それは夢の夢だと思われていた」
 すでにクラゲの話ではなかった。それと、みかどと言われると、自分の下の名前を呼ばれたようでドキリとする。もちろん、僕はそんな高位な人間ではない。
 世界さんは自由のままに続ける。
「ベニクラゲの体長は一センチに満たない。だが、こいつは老化が進むと、体の組織が『若返り』現象を起こすんだ。生命の循環を知るための無限の可能性を秘めている。俺はそう思う」
 若返り……その言葉は一瞬聞くと、世界さんらしくない響きで、おとぎ話とか、もしくは化粧品や健康食品の宣伝文句みたいに聞こえた。けれども、世界さんが卒業式前日に意味のないことを話すわけがない。
 生命の――循環。
 時間が進めば、生物はやがて自然と衰弱してしまう。けれど、時間の流れに逆らう存在がいる。その神秘がこの透明な生き物に宿っているのだろうか。
「はい。屋城くん、どうぞ」
 英淋さんが世界さんにスプライトを注ぐ。さっき泣いたのが嘘みたいに落ち着いていた。世界さんのたった一言で、英淋さんの心は青空や花畑みたいに明るく塗り替わってしまったのかな。本当に不思議で、すごいことだった。
 世界さんは「クラゲでなく、生徒会のことも話そう」と区切りを付けた。僕たちは息を飲む。……もうあとどれくらいの時間、この部屋に世界さんはいるだろうか。このまま言いたいことを言い切ったら、さっと部屋を出て行きそうなさびしさと、それくらいのほうが世界さんらしいという頼もしさと、相反する気持ちがぶつかっていた。
 世界さんは――人差し指を一本立てる。
「広い世界から見れば、ここは一センチ程度の小さな部屋だ」
 四人入ればいっぱいの、小さな場所だった。世界さんが大きな黒の革張りのイスを使ってるから狭いのもあるが。でも、それは何も不満はない。世界さんは背もたれに身を預け、腕を組み、壁に貼られた無数の写真を眺めた。
「しかし、この生徒会室は――永遠に変わらない。新しい息吹が、きっと無限に生まれる」
 世界さんはふふっと笑った。思い出し笑いかな。
「前に話したことがあったかな。俺の姉さんも元々ここの生徒会長で、当時は生徒会室の決まった場所がなかったらしいが、異議を唱えてこの部屋を獲得したらしい。そして、俺たちが受け継いでいる」
 僕たちの飲み物やお菓子をつまむ手はすっかり止まっていた。
 世界さんの言葉は淡々と続く。
「この部屋は――学校の心臓だ。俺はそう思ってる。ここから学校中へ血を流し、ここにまた血が帰ってくる。四人は、四つの弁に分かれた心臓だ。この四人だったから、これだけ熱く血の通った中学時代を送ることができた」
 世界さんは、壁中の写真を隅から隅まで見渡していた。まるで網膜に焼きつけるように。この部屋に刻まれたかけがえのない記憶を心ゆくまで見つめていた。
「生きる自由は、つながる想いで受け継がれる。死ぬことはないんだな」
 死ぬことはない、と口の中で繰り返した。
「――そうですね」
 僕は静かに頷く。それだけだった。英淋さんもふみちゃんも聞き入っている。何か口を挟んだら世界さんの言葉が移り変わってしまうような気がしたのだ。ここに集まったのは、この部屋で世界さんと話し合ってきたさまざまな足跡を、じっくりと噛み締めてもらうことだった。
 死ぬことはない――ともう一度、言い聞かせるようにつぶやいた。世界さんは、ふうっと熱い息を吐いた。英淋さんの目を見つめる。
「明日、それを気持ちよく仕上げよう。だから、安心しろ。今日はまだお別れじゃない」
 そのまっすぐな言葉は、英淋さんの胸をまたぐっと我慢させた。
「うん」
 英淋さんは唇を嚙み、瞳をつぶった。何かを必死で押しつぶしているようにも見えた。世界さん本人を前にして砕け散りそうな心を保つ限界点なんだと思う。
「明日は……屋城くんに向かって、精いっぱい読むよ」
 英淋さんは在校生答辞の代表に選ばれていた。何度も何度も書き直して、やっと昨日原稿ができた! と今朝言っていた。ケーキを作ったり、クッキーを焼いたり、原稿を書き直したり。すべて一人の人のために。
「気持ちよく送ってあげるからね」
 嘘だ。そんなはずはない。世界さんと離れたくなくて、もっと一緒にいたいはずだ。僕だってそうだ。ふみちゃんだってそうだ。でも、英淋さんは見送る立場として精いっぱい強がった。立場なんか関係ないよ。今はこの四人なのに。こんなとき……大人になる必要なんかないのに。
 けれども、世界さんは素直に喜んだ。この人は全部――僕たちの気持ちは受け止めているんだろうな。きっと一番純粋なんだ。
「これだけ温かく囲んでもらえて、俺は迷いなく羽ばたけるよ」
 当然と思っていたけれど、やっぱり先を見ていた。そうだよ。世界さんは。世界さんはそれでいいんだ。まったく、まったく。まったく。そうだ、そうそう。もっと大きな道を走っていくんだ。いいんだ。いいんだ。行くんだ。
 行ってしまうんだ。ここからさ。ここから。
 ここから……。
「おい、数井、何でお前が泣くんだよ。よせって。馬鹿だな」
 世界さんにこづかれた。ずっと我慢していた涙が溢れ出てしまったことが悔しくて、顔がぐわっと歪んだ。眼鏡でも表情を隠しきれない。呼吸が荒いのが自分でもわかる。すると、今までずっと静かにしていたふみちゃんが不意に僕のそばにイスを動かし、あたたかく腕に触れた。
「数井センパイ、お願いがあります。自転車で私をたまに連れてってください」
「ん? んんっ?」
 詰まりかけの鼻で聞き返す。ふみちゃんが何を言ってるかよくわからない。
「屋城センパイの出る大会の応援ですよ」
 ははは。ふみ、お前はずるいよ。どうしてそんなにちゃんと受け入れてるんだ。この先のことを楽しみにしてるんだ。わかってるけど、そんなのおかしいよ。
「ふみすけ、陸上を見るのは好きか?」
 世界さんは走り幅飛びのエースだった。県大会の好成績が注目され、県内の全国レベルの強豪校から合格をもらい、陸上部の監督も激励に来たらしい。誇らしかった。僕だって気持ちよく送り出したい。それなのに心でもがく僕の腕をふみちゃんは握ったまま、世界さんを見つめた。
「屋城センパイにもお願いです。絶対に、誰よりも遠くまで跳躍してください。もし負けちゃったら、つまらないので数井センパイと帰ります。帰り道、不機嫌になります。自転車の後ろから頭を叩いてケンカします」
「はっ? えっ、お前、何を言ってるんだ?!」
 僕は横を向いて顔をしかめた。思い切り目が合う。あどけなくニコッと笑いかけられた。腕を解く気配もなかった。世界さんは苦笑する。
「参ったな。俺はお前らの仲まで責任を持つのか。まあ、そう言われたら、全力で跳ぶしかないな」
 まっすぐな道を全力で助走して、しなやかに踏み切り、跳躍する。そうだ、この人はそれが生き様なんだ。今だって、これからも――そしてもっと大きくなっても。
「数井センパイ、一緒に聞きましたね。英淋センパイも」
「えっ、あ、うん。でも、わたしの応援は……陸上部のベンチかもしれないよ?」
「へっ? んっ?」
 僕はだんだん自分だけが置き去りな気がしていた。そう言えば、どうしてふみちゃんは僕だけに応援について来てと言っているのか、何となく今わかった。英淋さんは約束したんだ。追いかけて、ちゃんと追いつくって。
 世界さんは明るい笑い声で話を割った。
「英淋、それは高校に受かってからだろ。ちゃんとこっちへ跳んで来い」
「うんっ」
 結局――すべてふみちゃんがきれいにまとめてしまった。僕の涙ぐんだ瞬間もあっさり流れてしまった。まあ、これ以上湿っぽいと世界さんが困ってしまうのもわかっていた。この人はあくまでも船に帆を張り、明日、新しい海に出て行くのだ。帆を湿らせたり、羅針盤を曇らせたり、それは見送る僕たちのすべきことじゃない。
 英淋さんは旅立つその船を追う。それなら、僕は。
「僕は、違う道で、世界さんを――超えます」
 胸を張って言い切った。
 すると、世界さんは一瞬目を丸くし、しかし、すぐさま深く頷いた。
「ありがとう……本当に、いい目標だ。それでこそ、後輩だ、このやろう」
 世界さんの瞳が少し赤くなった。今、初めて世界さんから「後輩だ」と言われた気がした。珍しく世界さんの唇が震えている。少しうつむいて――楽しそうに笑っていた。やがて、鼻をすする音が小さく聞こえた。英淋さんもふみちゃんも、それに気づいていた。
 やがて、世界さんは顔をゆっくり起こす。
「数井、一個言ってやる」
 落ち着いた晴れやかな顔だった。
「はい」
「お前の船に、ふみすけを乗せて行ってやれ」
 まっ――まさかそんなことを、ここで世界さんに言われるとは思わなかった。
 ふみちゃんも口に手を当てて驚いている。僕は慌てる。英淋さんは静かに見守っていた。今日もまた世界さんが唐突に提案し、ふみちゃんが驚き、僕が戸惑い、英淋さんはなりゆきを見守る……それは今まで、もう何回もこの部屋で、この四人で繰り返してきた光景だった。
 部屋の空気の変化を感じ、世界さんは意外そうな顔をして言い直した。
「ん? 自転車の後ろに乗せるんだから、一緒だろ?」
 この人の尺度はおかしかった。なのに、なぜか不思議と間違っていない気もした。ふみちゃんと目を見合う。
「――ふみちゃん、一緒かな?」
「数井センパイ、違います。でも、最終的には……一緒です」
 まあ、そうなのかもしれない。信頼し合うというのは、時間をかけて同じことを繰り返し、いつか永遠の循環をつくり出す、そういうことのような気もする。永遠という響きが浮かんだとき、ベニクラゲが頭の中をちらついたのはちょっと笑えるけれど、いつまでも死なないものはそんな単純なことで生まれるのかもしれない。
 最終的には一緒、というふみちゃんの言葉が何だか妙に面白かった。
「せっかくだから、僕も一個言います」
 すると、せっかくだから、という前置きの部分を英淋さんはクスクス笑った。今日くらい遠慮しなくていいのに、ということなんだろうか。まあ、いいや。
「何だ?」
「僕は世界さんと違う道を行きます。だから、世界さん、夢の先で、もう一度本気で出会いましょう」
 それはどこかわからない。自分でもまだ何も見えていない。だけど、この人とは――尊敬して止まないこの先輩とは、未来でまた真剣にいろんなことを語り合いたい。
「――わかった。数井三角、約束だ」
 僕のことをまるで盟友みたいにフルネームで呼び、二人で固く握手をした。英淋さんとふみちゃんの視線があって気恥ずかしさもあったけれど、一生に一度の、本当にこの日しかない思い出ができて、僕の心は溢れるほどに満たされた。
 ありがとう、世界さん。
 思い切り、前へ前へ、進んでほしい。
 いつか、もう一度、本気で出会うまで。

 場所を変え、体育館でリハーサルをした。イスはすべて整然と並び終わっている。
 中央の花道に赤いシートが敷かれていた。これも昔は普通のグレーだったが、生徒会長だった銀河さんの提案で赤いシートになったそうだ。窓に黒いカーテンがかかり、中央に赤いカーペットがあり、ステージに光沢ある紺の垂れ幕がされていると、まるでテレビで見た映画祭会場のようだが、制服で颯爽と歩く世界さんはよく似合った。
 僕はひとり二階の音響室に行き、照明を操作した。ここは世界さんのお楽しみ基地だったが、会長を引退した際に操作を教わったのだ。スポットライトの電源を入れる。
 これは世界さんが着任早々学校に提案したものらしい。演劇やショーで使うような、手で動かす大型のタイプだ。世界さんがお店に選びに行ったとき、中学校の体育館でここまで本格的なものは少ないよ、と言われたらしい。
 一階にいる三人がそれぞれの場に散った。世界さんは卒業生席へ座り、英淋さんは在校生席に座り、ふみちゃんは先生たちの席へ座った。
 配置に着くと、世界さんが僕に合図を出した。まず、ふみちゃんにスポットライトを当てる。ふみちゃんは小さいが、司会の先生役で、式次第みたいな紙を持っていた。
「在校生、送辞。二年生代表、花房、英淋」
「はいっ」
 英淋さんが立ち上がった。僕は打ち合わせ通り、英淋さんへスポットライトを移す。英淋さんはなぜか僕のほうに振り向き、笑顔で手を振った後――たぶん本番はしないと思うけれど、壇上へ向かった。スポットライトで追う。
 在校生代表は、正面を向き、強い光が目に入るとまぶしそうだったが、笑顔で僕に手を振った。いや、たぶん本番でしないと思うけれど。英淋さんは気持ちを落ち着かせ、まっすぐ世界さんに眼差しを定める。暗くて見えにくいが、世界さんは腕組みをして聞いているようだ。
 英淋さんは紙などを見ずに語り出した。
「わたしは……今日も、いつも通りの日だ、と自分に強く言い聞かせて、家を出てきました」
 思いがけない冒頭だった。映画のモノローグみたいに、まるでとんでもないことが起こるような始まりで、何を言い出すんだろう、と固唾を飲んだ。
「明日から、すべてが変わります。もう、先輩方のいる開架中学校ではありません。わたしは心細くて、さびしくて、胸が張り裂けそうです」
 ……英淋さんは間違いなく本音の言葉だと思う。
「それくらい先輩方は頼もしい存在でした。誇らしい存在でした。大きくて、親身で、朗らかで、わたしたち後輩のこんな弱音も、きっと笑って許してくださると思います。そうですよね。どうか、頷いてくださいね」
 僕はライトを手に持ちながら、胸が震えた。『頷いてください』の一言でなぜか不意に目頭が熱くなり、英淋さんが白い光の中で輝いて見えた。
「本日、開架中学校を旅立たれる卒業生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。在校生一同、心よりお祝い申し上げます」
 英淋さんは手を前に揃え、深々と頭を下げた。
「春の足音が近づくと、わたしは先輩方と出会った最初の日を思い出します。自分が新入生だったとき、期待を胸に抱いていた前日までが嘘みたいに、心細くて、さびしくて、胸がつぶれそうでした。ですが、迎え入れてくれた先輩方は開架中学校の温かさそのものでした。みんなで盛り上がり、歓迎してくれて、垣根がなくて、個性的で、自由で、本当に大きな存在でした。わたしは開架中学校が大好きになりました。お母さんが喜んでくれました。お父さんも喜んでくれました。自分のことが――とっても好きになりました」
 自然な笑顔、素直な声。英淋さんのつむぐ言葉は、今日の別れの日を全然待ってなんかいなかった僕の胸に、深く染み込んだ。
「今日まで、わたしたちはとても甘えん坊でした。大きな存在に頼り、心から甘えていました。先輩方についていけば安心でした。けれど、それは……今日この日を迎えて、違うと強く感じています。わたしたちは先輩方を見送ると同時に、自分自身が誰かに頼られる存在にならなければならないのだ、と思います」
 そうか。先輩たちを見送ったら、今度は自分がその存在に――なるんだ。英淋さんのスピーチは白い光を浴びて、朗々と続いた。
「わたしはこの場所に立ち、尊敬する先輩方を前にして、恥ずかしながら、全然かっこつけられません。本当は、今日の日が来るのが恐かった、自分がいます。これを言い終わった後どうしようと悩む自分がいます。けれども、その恐れを乗り越えて、『生きる楽しみ』や『生きる自由』を、次の春に入ってくる新しい後輩たちに伝える役目が迫っているのだと、強く感じます」
 再生。上昇。若返り、生まれ変わる生命の活動。
 世界さんが語った不死のクラゲ。たった一センチの大きな存在。それに秘められた――可能性。
「もし、これからの人生で、先輩方がふとした気まぐれで、開架中学校の日々を振り返ったとき、大切な晴れの卒業式で、生意気な言葉で見送った後輩たちがいたことを、どうか思い出してください。それが、あなた方に育てられた、後輩たちです。あなた方に憧れの眼差しをずっと向け続けた、後輩たちです。甘えん坊で、かわいい後輩です」
 ちょっと笑ってしまった。英淋さんは壇上で最高の笑顔を振りまいた。
「わたしたちは、先輩方のこれからのご活躍と輝かしい未来を、心からお祈りしています。それは未来から意味もなくやってくるものではありません。先輩方が自由を求め、奮起し団結して創り上げた大いなる歴史、大いなる歩みの先にあります。わたしたちは、それを疑いません。思い出深い時をともに過ごしたわたしたちが、その情熱をしっかりと受け継ぎます」
 情熱――赤い炎、それが受け継がれるこの日。
「名残は尽きませんが、いよいよお別れのときです。みなさん、さあ、向かうべきところへ、迷わず羽ばたいてください。明日へ思い切り跳んでください。皆さんが歩まれる新しい未来をとっても楽しみにして、在校生からの『贈る言葉』とさせていただきます」
 締めくくりに、日付と名前を言い、英淋さんはもう一度深くお辞儀をした。
 完璧だった。僕はこんなに堂々としたスピーチを聞いたことがなかった。送り出す人への敬意と感謝が詰まっていた。パチパチパチ、と一階で小さい拍手が起こり、それは小さいふみちゃん先生だった。
 世界さんは、二階からは表情が見えなかったが、拍手している音がしたのはわかった。どんな顔をしているのだろう。きっと――晴れがましい気分に違いない。新しい生徒会長になった英淋さんがあんな温かい激励のメッセージを贈ったのだから。
 英淋さんが照れくさそうにステージを下り、レッドカーペットの上で世界さんにお礼をし、席に戻る途中にまた二階の僕に向かって手を振った。いや、頼むからそれ明日やらないでくれよ。感動的なスピーチが台無しだから。
 厳かな雰囲気で、ふみちゃん先生は式を進行した。
「続いて、卒業生、答辞。卒業生代表、屋城、世界」
「はい!」
 世界さんが元気よく立ち上がった。ライトを当てると、いつの間にか制服の上着を肩に引っかけ、風を切りながら意気揚々とレッドカーペットを歩き、ステージに上がった。すうっと深呼吸する。さすがに世界さんでもこんなときは緊張するのだろうか。
「在校生の皆さん。俺は明日話すっ! 以上」
 深々とお辞儀をした。
 えええっ?! とライトを持つ手がブレそうになったが、まあ、確かに万能なる演説の王様・屋城世界には、リハーサルなどまったく必要ない。
 たぶん僕らに誘われたときから、リハーサルで話すつもりはなかったのかもしれない。だって――今日のこれは、英淋さんがどうしても世界さん一人だけに言いたかったのだから。もちろん明日の原稿も同じなんだけれど、どうしても世界さんだけに聞かせたかったのだから。
 世界さんはきっと僕たちの腹を見抜き、その上で気持ちよく付き合ってくれたのだ。壇上から降りるなり、世界さんは大声で僕たちを呼び集めた。
「よし、生徒会室に戻ろう。全部書類を焼くぞ」
 書類を焼く――まさかの最後の命令だった。

 世界さんは本気だった。僕たちは動揺しながらも、とにかく生徒会室に戻った。僕はすぐ年度末の報告に必要な『開架中学生徒会出納帳』の冊子、要するに会計簿だけは燃やされないよう選り分けた。一方、ふみちゃんが書記として議事録をつけていた『開架中学生徒会日誌』の束は、こんなに議論があったかと思うほどの厚みだった。
 そして、ふみちゃんは渋々とそれを束ね、「自分で書いた内容は全部覚えてます」と、ビニールひもでくくった。これは今から燃やすことになった。
 それ以外は、世界さんが今まで用意してきた膨大な企画書や資料、役割分担やタイムテーブルなどの書類だ。英淋さんは心底から名残惜しげに、箱詰めする世界さんの背中を見ていたが、自分の送辞のせいで世界さんのスイッチが入ったのではないか……と気に留めている気もした。
 だが、僕は思う。きっとそれは違う。この人は最初から焼くつもりだったと思う。生徒会室に入るなり、勢い勇んで上着から軍手を取り出し、僕たちにも配ったのだ。
 この人は――屋城世界という偉大なる先輩は、自分が描いて実現した足跡を、全部焼いて巣立つのだ。それが後輩のためだと信じてやまないのだと思う。あえて白紙にすることで、自分たちの歩みを始めろと、この腕まくりをした背中は語ってるのではないか、と思う。
 そうですよね?
「ああ、そうだ」
 世界さんは生徒会室の大掃除に精を出し、額に汗をかきながら振り向いた。まるで僕の心が耳に届いたようなタイミングだった。世界さんは、書類を詰めたダンボール箱をガムテープで閉じていく。こういう梱包物も全部用意していた。思いつきではなく、絶対に考えていたのだ。
「この部屋は不死だ。遺伝子が受け継がれれば、何度でも再生するし、時には新しい進化を遂げる。俺はそれを確かめたい。それが巣立つ一番の楽しみだ」
 それから、僕たちはダンボールを台車に積んで、三往復くらいして南門近くの焼却炉に全部運んだ。ふみちゃんが用務員のおじさんを呼んできて、早速、焼却炉に火を入れてもらった。焼却炉がジリジリと放射熱を出し、鉄の煙突から黒い煙が昇りはじめる。用務員のおじさんは扉の鍵を閉めて去った。
 残ったのはまた四人だけ。卒業式の前日の夕方、校庭にもほとんど人影はない。
 世界さんはすっきりと仕事を終えた顔で腕を組み、煙の立ちのぼる春の夕空を見つめた。
「立つ鳥、跡を濁さず。古人が残した良い言葉だ」
 そのとき、ふみちゃんは僕の制服の袖を引いた。
「数井センパイ、あの……焼却炉の煙突に、死なない鳥が止まってます」
 そんなものはどこにもいない。でも、不思議なもので、そのときは心がいろいろ麻痺していたせいか、別にたいして驚きもせず僕は普通に聞き返していた。
「死なない鳥?」
「はい、不死鳥です」
 ふみちゃんは、焼却炉の煙突の先――生徒会のたくさんの議論や思い出が燃えて天に昇る排気口を見ていた。でも、そこに鳥はいない。文系の女の子に見えて理系の僕に見えない何かがあるのだろうか。あるとすれば探るしかない。
「その鳥は……なぜ死なないの?」
「生まれ変わるからです」
 そこから溢れ出す説明は雑だった。焼却炉の煙が夕焼けの色を吸って赤く染まり、その中に真っ赤な両翼を休めた不死の鳥が佇んでいる、と。孔雀のような長く美しい尾を何本もきらきら踊らせて、全身から炎の塵が吹き出し、また新しい不死鳥の姿へ生まれ変わろうとしている、と。
「……休んでるんだ」
「はい、うっとりと。気持ち良さそうに。明日には飛び立つかもしれません」
 ふみちゃんはやわらかく告げた。少しさびしそうな瞳をしていた。
「何で、そんなすごいものがここにいるんだろう」
「そうですね……屋城センパイがすべてを焼いて羽ばたくからじゃないかな……と思います」
 そして、世界さんは後ろでひそひそ話す僕たちに気づき、「帰るか」と言った。この人がいるから不死の鳥が翼を休めるとか、何という取り留めのない理由なんだろう。だけど、今日ばかりは妙に納得してしまう。


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 ふみちゃんの言う不死鳥の気配があるとして、いつまでこの場所にいるかはわからない。世界さんと一緒にやってきたすべての記録がきれいに燃え尽きるまでか。あるいは明日の卒業式が終わるまでか。それとも早々と気まぐれな感じで消えるのだろうか。
「ふみちゃん、その鳥はこれからどうなるの?」
「私もわかりません。きっと、向かいたいところへ、自由に飛び立つんだと思います」
 ああ、本当に――世界さんだ。世界さんこそが永遠に死なない鳥なんだ。誰も捉えることはできない。生きる自由。生きる尊厳。夢とロマンのかたまりだ。追いたい人が全力で追い続けるだけ。そんなことを考えていると、英淋さんはそろそろ進学塾へ行く時間らしかった。
「明日が楽しみだな」
 世界さんは軍手を外した。それは夕陽に包まれた全員が同じ気持ちだった。

 三月十八日、卒業式の当日。その朝、心細くてさびしくて早起きした僕は、ふみちゃんの家の神社まで迎えに行った。今日は一緒に登校しようと約束していたのだ。
 もう桜のつぼみも開き出したというのに、なぜか突然の寒の戻りだった。鳥居の前で寒さをこらえていたが、白いうさぎみたいなふわふわのコートに身を包んだふみちゃんが現われ、僕の顔を見るなり手袋を外し、あと僕の手袋も外して、上からきゅっと手を握ってくれた。
「しおれてますよ、数井センパイ。シャキッとしてください」
 そう言って唇をとがらせると、僕の手を引っ張り、それでも身長の差があるから、もう一方の手でマフラーを少し引っ張って、僕の顔をたぐり寄せ、まったくの不意打ちで口づけをしてきた。
 僕は目が覚めるどころの騒ぎではなかった。よくわからないまま、ふみちゃんのうさぎみたいに小さな体が僕の胸に飛び込んできたので、ぎゅううっと抱き締め返す。
 ふみちゃんの力がすっと抜けたので、また唇を重ねて、鳥居の前でしばらく朝の静けさに包まれていた。
「んふっ……」
 苦しいのか嬉しいのか何とも言えない声を漏らした。
 お互い口づけが恥ずかしくなり、ふみちゃんはもぞもぞを肩を動かし、僕の胸をぐっと押した。正面で向き合うと、マフラーを巻いたふみちゃんの顔は火が出るように真っ赤だった。
「かっ、数井センパイ、元気出ましたか?」
「うん、すごい出た」
 思いがけない朝の励ましが済んで、昨晩ふみちゃんと話して作った小道具を渡し、手をつないで学校へ向かった。

 朝の励まし――これには二人しか知らない事情があった。実は、急に英淋さんが今日休みになったのだ。昨晩、英淋さんの一番下の弟が高熱を出してしまい、朝から病院へ連れて行くために、昨夜のうちに先生に休みを連絡した。
 そして、直後に僕とふみちゃんにも電話が来て、まさかの在校生代表が卒業式を欠席するという事態を知った。でも、家族想いの英淋さんに協力しないわけにはいかない。
『世界さんには?』
 電話口で英淋さんに尋ねると、震える声が返ってきた。
『……ううん、まだ言ってない……』
 まあ、英淋さんから言えるわけがない。
『わかった。僕が代わりに送辞をやるよ。いっそ、驚かしてやろう』
 大丈夫だ。世界さんは、英淋さんのメッセージをちゃんとリハーサルで聞いてくれた。英淋さんの想い出はあれで十分満たされている気もする。あとは、英淋さんの代役を名乗り出た僕がきちんと責任を果たすだけだ。
 続いて、ふみちゃんにそれを電話で伝えると、ふみちゃんも英淋さんから休むことを聞いたらしい。今から台本を書かないと……と僕が漏らすと、ふみちゃんは送辞の例文をすぐ書いて送るね、と電話口で言ってくれた。
 一旦電話を切って十分後、FAXが流れてきた。驚くほどの早さで、しかも筆ペンによる素晴らしい達筆だった。文章力におけるふみちゃんの存在は頼もしすぎる。僕は電話をかけて御礼を言い、それをもとに自分なりに表現を変えつつ――まあ、でも時間がないし、わりとふみちゃんの文章のままだけれど、夜中に読みあげる練習もした。
 それで翌朝、一緒に登校することにしたのだ。ふみちゃんからの何も言わない突然のキスは、僕への応援なんだと思う。こんな嬉しいことをするなんて思わなかった。おかげで一切の迷いは消えた。本気で頑張るよ。
 世界さんたち卒業生を、しっかり未来へ送り出すんだ。それは僕がやるんだ。

 早朝、学校に着くなり職員室に行って、送辞を代わることを司会の先生に伝えて、体育館の鍵を借りて中に入り、二階でふみちゃんにスポットライトの操作方法を教えた。身長が足りないので、パイプイスを一脚持ってきた。
「へぇ。ふみすけちゃん、そんなでかいの動かすの?」
 突然、後ろから聞き慣れた女性の声がした。驚いて振り返ると、なんとそこに銀河さんがいた。世界さんのお姉さんだ。保護者の来る時間にしては早すぎる。
「えっ、銀河さん?! 何してるんですか?」
「君たちが手をつないでるのを見て、あらららっ、とついてきた」
「ちょっ、なに見てるんですか」
「別にうろついてても怒られることじゃないだろ。あたしの母校だよ? 飼育小屋とかも変わんないなーとか思ってね。もう猿はいないみたいだけど」
 昔、学校の飼育小屋には人なつっこい猿がいたらしい。そんな写真も残っていて、当時の生徒会長だった銀河さんが猿を抱っこして、大勢の生徒たちと一緒に笑顔で映っているのを見たことがある。そういう昔の記念資料は旧校舎の第二図書館に保管されていて、昨日もぬけの空になってしまった生徒会室には置かれていなかった。
 銀河さんは、銀色のラメが輝く黒いジャケットと、ワインのように深い赤のミニスカートだった。よくタンクトップなどの楽な格好を見ているので、こんなビシッと決まった服装は珍しい。世界さんの卒業式に来たんだな。
「銀河さん、まさかここから見るつもりですか?」
「君たちは……あたしを何だと思ってる? 心配しないでも、ちゃんと降りて保護者席に行くよ。後から母さんも来るしね」
 ふみちゃんがお辞儀すると、銀河さんは頭を撫でた。
「うちの弟は、どうせ君たちの思うようには巣立って行こうとしないだろ?」
 何だか全部見透かされていた。僕は苦笑いを浮かべ、昨日、世界さんが自分の生徒会時代の書類を焼却炉で燃やしたことを話した。銀河さんは腹を抱えて大笑いする。
「いやーっ、あいつは迷惑を考えないやつだなぁっ!! どうせ『立つ鳥、跡を濁さず』とか気取ったんだろうね。ほんと単純で、面白いやつだ」
 そんなふうに世界さんを笑い飛ばせるのは、きっと銀河さんくらいだ。でも、世界さんを目の前にしたら、あの人のオーラを肌で感じたら、すべてが正解に思えてしまうのだ。すると、ふみちゃんは世界さんをかばった。
「銀河さん、でも、ちょっとだけ違います。屋城センパイは、永遠を願ったんです」
「ん? 永遠?」
「はい。形が消えても、遺伝子が残っていれば再生し、いつか進化する――と」
 ふうん、と銀河さんは腕を組んだ。切り返しを考える際のこのポーズは本当に姉弟そっくりだ。まったく理解してもらえる感じがないところも。
「……そうか」
 意外にも、銀河さんは素直に頷いて真顔を見せた。
「あいつはそんなに生徒会が大好きだったんだ。君たちと一緒だからかな。どう転んでも破壊しかできないあいつが『進化』なんて言うのは、思い入れが深い証拠だね」
 どう転んでも破壊しかできない。確かにそれはそうだったかもしれない。歴史が好きなくせに、前とは違うものを創り出そうとする、それが会長・屋城世界の本質だった。銀河さんは一歩進み出て、僕とふみちゃんの肩に手を置き、抱きすくめる。手のひらが温かかった。
「数井くんだっけ? あと、ふみすけちゃん。卒業生のあたしからもひとつ、願いを託す。この学校を頼むよ。いつまでも自由と意欲にあふれる学校にしてくれ」
 待ってくれ。託された願いが大きすぎる。学校を頼むと言われても、ふみちゃんは有能な書記だけど、僕は平凡な会計だ。
 ふみちゃんが微笑み返す。
「銀河さん、私たちが託されるのは明日からです。今日までは、屋城センパイの学校です」
 今日まで。そう――世界さんがここを歩くのも、ここで語るのも今日までだった。急にまたさびしさが胸に戻ってくる。
 あの人が巣立てば、自分たちで学校の雰囲気を作っていくことになる。それが若返りと、再生なんだ。
 銀河さんはこころよく頷いた。
「うん。デートの邪魔したね。ちょっと職員室でも行って来るわ」
 そう言って銀河さんは階段を降りて行った。デートと言われると恥ずかしかったが、ふみちゃんにスポットライトの使い方を教え終わると、それぞれの教室に向かった。

 僕はイスに座り、送辞の台本を握り締めていた。
 式が始まり、在校生と保護者が見守る中、卒業生たちがレッドカーペットを歩きながら入場し、その中でひときわ目立つ世界さんの姿を見つけると、強烈に緊張感が高まった。吹奏楽の演奏が耳に入ってこないくらい、頭の中が湧き立っている。
 昨日のリハーサルみたいに誰もいない状態ではない。全部埋まっている。卒業生も在校生も先生も保護者もみんな。それと、緊張はそれだけじゃない。僕自身もふみちゃんと打合せして、普段と違うことをするつもりだった。
 すべての状況が僕の心臓を押しつぶしにかかっていた。この重圧感と緊張に、何度もステージ上で向き合ってきた屋城世界という人を、今まさに厚く尊敬した。何でこんな大勢の前で平然とスピーチができるんだ。世界さんは台本を用意しない人だ。すべて思うまま語るらしい。でも、小心者の僕は台本を持ち、開いて閉じてを繰り返した。
「在校生、送辞。二年生代表、数井、三角」
 そして――僕の名前が呼ばれた。ああ、ちゃんと耳に届いて良かった。
「はいっ」
 僕は足に力を入れ、立ち上がる。スポットライトが僕の後頭部に当たった。硬い動きでレッドカーペットまで歩み出て、一歩一歩慎重にステージまで進んだ。きちんとふみちゃんのスポットライトが追いかけて来てくれる。光が温かい。徐々にザワザワ、クスクスと笑い声が起きた。
 実は、スポットライトの光に、大きな眼鏡のフレーム型の影が映り込んでいるのだ。つまり、ライトが眼鏡をかけているわけだ。みんなそれに気づきはじめ、二階の光源を振り返ったり、僕を照らすライトを見比べたりした。僕が昨晩ただの思いつきで作った小道具だ。厚紙をフレーム型に切り、黒い色紙を貼りつけてきた。それを今朝ふみちゃんに渡したのだ。
 間の抜けた影絵によって、卒業式の張りつめた雰囲気はちょっと和んだ気がした。
 階段を昇り、ステージ中央に立ち、深呼吸をして、黒い人の海から、落ち着いて世界さんを探した。リハーサルと同じ場所にいた。英淋さんでなく僕だから、予想通り世界さんは目を丸くしている。だが、視線が合うと笑って白い歯を見せ、座った姿勢で拳を高く掲げてくれた。それが何のリアクションかわからないが、まあ、もしかしたら昨日のリハーサルが仕込みだったと思い違いをしてくれたかもしれない。この際、それでも良かった。
 御守りとして握り締めていた折り畳んだ台本をポケットにしまった。今、僕に必要なのはこれじゃなく度胸だ。さあ、一夜漬けの人生初の贈る言葉を、始めよう。
「桜の……花のつぼみも、ふく、ふくらみかけてきた今日、この良き日に、開架中学校を卒業される皆さま、ご卒業、おめでとうございます!」
 所々つっかえながらも、一応滑り出しは順調だった。おめでとうございます、と大きな声で言ったことで弾みもついた。世界さんが楽しげに僕の姿を見ている。
「思い返せば、先輩方は、いつも私たちの先に立ち、素晴らしいお手本となり、引っ張ってくださいました」
 二階から光に照らされる僕の分身の眼鏡が、僕を支えてくれている。このままやれる。大丈夫だ。いける。
「私たちは先輩方とこの学校で出会い、たくさんの思い出をともに重ね、多くのことを学ぶことができました。先輩方との出会いは、かけがえのない財産です。例えば、例えば……」
 例えば……例えば……ところが、この先が、突然、何も出なくなった。消えてしまった。
 待ってくれ。おかしい。あれだけちゃんと考えてきたのに、何で消えるんだ。白く燃え尽きて灰になったものを、手ですくうような心地だった。
 僕はステージ上で完全に黙り込んでしまった。あせって口が半開きになっていた。しまった。やばい。何も出ない。誰も僕の声が聴こえていない。だって僕ののどが詰まり、声が止まってしまったから――
「おい、数井!」
 大きな声で呼んだのは世界さんだった。先生や生徒たちの視線が全部そこに集まった。
「『例えば』なんて要らねえって。みんな知ってるんだ。俺たちの話をすればいい」
 俺たちの話。つまり――僕たちの話。生徒会の思い出。生徒会室の壁に貼りまくったものが一気に蘇る。僕は切り換えの天才の力を借りて、気持ちをスイッチする。
 咳払いをすると、新鮮な空気が胸に入った。
「僕は、開架中学の――生徒会に入って、一番驚いたことがありました。それは、僕たち生徒がいろんなことを学校に提案することです。春から冬までたくさんある学校の行事で、いろんなことを具体的に考えて、学校に提案して、了解をもらうのです。企画通りにならないこともあります。けれども、そしたらまた仲間とよく話し合って、じゃあ、こうしてみよう、とかを考えて、もう一度トライしました。こんなことは、小学校ではありませんでした」
 生徒会のことになると、僕は急に口が滑らかになった。それもそうか。これまで生徒会活動のことをたくさん語り、たくさん実行してきたのだ。これが僕の血であり肉なんだ。世界さんは腕を組み、笑顔で応援してくれている。
「僕はあるとき、悩みました。どうして、僕たちで考え、提案するのか。でも、その答えを、僕は卒業生代表でもある元生徒会長の屋城世界さんに教わりました。僕たちがやることは、誰かを幸せにすることができるか――を考えろ、と。だけど、そのとき、僕は生意気にも思いました。幸せなんて人それぞれじゃないか。気楽なことを喜ぶ人もいれば、真剣になることを求める人もいる。つらいときは癒されたいし、夢中になりたいときは邪魔されなくない。そんなふうに言い返したとき、世界さんはこう言いました」
 全員がじっと僕の話に聞き入っている。そんなに面白い話でもないはずなのに。不思議な感覚だった。
「『俺は最初に言った。誰かを幸せにできるかを考えろと。お前は何ができる? 誰を幸せにすることができる? 幸せにできると思う人に、自分の力を注げばいい』、と」
 完全に世界さんの言葉だ。僕のスピーチではない。だけど、僕は構わず語り続けた。
「これが――開架中学の生徒を代表する人の言葉でした。考え方でした。困ってしまうような、圧倒的な自信家でした。人には人を幸せにする力がある、と言い切ったのです。だけど、かっこよかった。心の底から、かっこよかった。そこから、僕の学校生活はすべて変わりました」
 世界さんのことを語り、少し涙ぐみはじめたのは自分でもわかっていた。眼鏡という盾があることが僕の幸運だった。何もなければ、僕は指先で目をぬぐっていた。
「人には人を幸せにする力がある――僕はこれを胸に深く刻んで、卒業生の皆さんを送り出す日を迎えました。今日、自分に問いたいです。僕は、こんな頼もしい先輩のようになれるでしょうか? 今この壇上に立ち、これだけの人たちに見つめられ、僕は一瞬、声を失いました。けれども、僕は頭を真っ白にして、おかげで原点に戻りました。僕は、誰かを幸せにしたい。僕は、この誇らしい開架中学から未来へ羽ばたく先輩方を、幸せにしたい!」
 締めくくりは――昨晩考えた結びがちゃんと舞い戻ってきてくれた。
「先輩方、ご卒業おめでとうございます。これから、それぞれの道をめざして歩かれることと思います。夢の先で、もう一度本気で出会う日を楽しみにして、力強く進んでください。先輩方、本当に、ありがとうございました!」
 やった。言い切った。
「在校生代表、数井、三角」
 深々とお辞儀をした。
 全身に割れんばかりの会場中の拍手が襲ってきた。拍手に洗われるかと思うほどの数だった。僕はつくづく、とんでもない役目を買って出たものだ。顔を上げると、世界さんが一人でスタンディングオベーションをしている。もう、これはあなたの愛する学校ですから。僕のスピーチだって、隅から隅まであなたに教わった言葉尽くしでしたよ。
 世界さん、本当にありがとうございます。
 僕が壇上から降りると、世界さんがまだ司会に呼ばれていないのにレッドカーペットの上に立ち、思い切り腕を振りかぶってハイタッチをしてきた。僕は気圧されて吹き飛びそうになる。もう、何の見せしめなんですか。早く席に戻らせてくださいよ、世界さん。
 司会の先生は、気が逸る世界さんを少し笑い、そうして卒業生代表の答辞として屋城世界の名を呼んだ。
 世界さんは開架中学最後の晴れ舞台で、涙の一粒も見せず、まばゆいほどの笑顔で、卒業生と在校生たちに大きく手を振り、先生たちにも手を振り、まるでアカデミー主演男優賞をもらった映画スターのようにレッドカーペットを意気揚々と歩き、ステージへ昇った。
 これが最後のスピーチだ。マイクをぐっと握る。
「在校生の皆さん、どうもありがとう。
 俺は満点の幸せだった。
 ここに思い残すことは、何もない。
 だが、在校生には、まだここで過ごす日が残っている。
 時間は平等だ。
 しかし、機会は不平等だ。
 それでも、やってやれないことはない!
 健康で、誇らしく、思うがままに、跳躍してくれ!

 ――以上。卒業生代表、屋城世界」

 スピーチが終わった。何が起きたか、一瞬、卒業式が静まり返る。世界さんは自分の幸せを喜び、僕たち後輩に壮大な激励を送り、時間は平等で、機会は不平等で、だが思うがままにやれ、と高らかに放り上げて、答辞を終えた。すべての言葉に迫力がこもっていた。銀河さんが言った、どう転んでも破壊する――は真実だ。
 だけど、これが、開架中学生徒全員がよく知るところの元生徒会長・屋城世界という人だった。
 両脇にいる先生や保護者の大人たちが唖然とする中、中央に座る卒業生と在校生は惜しみない拍手を一斉に送った。湿っぽさなんてゼロだ。この人は、この学校生活に心から満足し、大いなる誇りとともに、誰よりも真っ先に跳んだ。その足はもう新しい次のステージへ踏み出していて、僕たちは全員その背中を見せつけられていた。
 さすが、世界さん。
 人を立ち止まらせる弱気なものを、まるまる破壊してくれた。名残惜しさとか、さびしさとか、涙とか。
 もう清々しい余韻しか残らない。送る側も送られる側も垣根なく、悔しいほどこれからの自分のために湧き上がるエネルギーしか生まれなかった。

 お昼になり、僕とふみちゃんは学校近くの桜がある公園のベンチに座り、英淋さんが来るのを待っていた。朝は寒かったが、だいぶ気温が上がってきた。コンビニで飲み物を買い、僕はスプライトを、ふみちゃんはホットココアを飲んでいる。春風がふみちゃんの髪を浮かせたので、撫でてあげると、僕の肩に頭を寄せてきた。そのまま黙って暖かくて涼しい時間を過ごす。公園には噴水があり、きらきら輝く水の流れをぼんやりと眺めていた。
 英淋さんは、弟を病院に連れて行った後、世界さんに会うため学校に来たのだ。制服でなく私服だった。そして、卒業式が終わり、先生たちへの挨拶が済んで玄関に出てきた世界さんをつかまえ、一緒に待ってた銀河さんを誘い、五人だけの記念写真をきれいに一枚撮ることができた。
 その後は、僕とふみちゃんはあえて立ち会わないことにした。というか、世界さんは卒業生たちに大勢囲まれて、記念撮影に引っ張りだこの状況になり、諦めたのだ。英淋さんだけはその場に残った。世界さんは引っ越すわけではないので、いつでもまた話せるし、もっと僕も頑張ってからじっくり語り合うと約束したのだ。
 公園の外に自転車の止まる音がして、英淋さんの姿が見えた。ふわっとした春らしいピンクの上下お揃いのブラウスとスカートだ。英淋さんは、さっきまで学校で制服の卒業生たちの中に、ひとり私服で混ざっていたわけだ。こう言うと変だが、まるで世界さんの彼女が登場したみたいに、まわりから結構ひやかされたんじゃないだろうか。
 まあ、英淋さんは満足げな笑顔だからいいか。少し息を切らして、花束を持っている。
「英淋さん、その花束……どうしたんですか?」
「ん、これ? 生徒会室に昨日飾ったものを集めてきたの」
 ああ、それで赤いバラや白い花に見覚えがあったんだ。
「世界さん、どうでした?」
「うふふっ、見て見て、いっぱい一緒に写真を撮った! 受験のお守りにするの」
 写真とかいつでも撮れると思うんだけどなぁ、とは口に出さず、大人しくふみちゃんと顔を並べて英淋さんの携帯を覗き込む。ご満悦顔の世界さんを何枚も見せてもらった。みんなに囲まれながら、二人きりで並んだ写真もあるし、なんと、英淋さんが世界さんに抱きついてほっぺにキスしているのも一枚あった。他の卒業生たちが大笑いしているので、まわりに乗せられた勢いでやったのかな。英淋さんは携帯を宝物みたいに大事そうにバッグにしまった。
 ふみちゃんはひょこっと立ち上がった。
「英淋センパイ、お昼食べました? お腹が空きました」
「うん、待たせてごめんね。一緒に行こっ」
 そして、英淋さんの顔つきが少しあらたまった。
「……あ、その前に、ちょっとだけ」
「何ですか?」
「数井くん、ふみちゃん、今日は本当にありがとう。すごく悩んで二人に電話したんだけど、今日、屋城くんがあんなに幸せそうで、わたしも本当に嬉しかった。これは二人への御礼です。今すぐ用意できたものがこれしかなくて、ほんとにごめんね」
 英淋さんは丁寧にお辞儀をすると、ふみちゃんに花束を、僕に手作りクッキーの袋を渡してくれた。僕はありがたく受け取ると、でもすぐにクッキーを食べるわけにはいかなくて、カバンにしまった。ふみちゃんは花の香りをかぎ、心地良さそうにしている。
「わぁっ、英淋センパイ、ありがとうございます。あの、でも、数井センパイの送辞が聞けなかったのは惜しかったですよ。ほんとに、すごかったんです!」
 ふみちゃんは目を輝かせていた。待って、照れる。
「あ、うん、それは屋城くんも言ってたよ。まったく心配要らないな、って」
「いや、僕は途中で止まっちゃったから……」
 僕が口ごもると、ふみちゃんは英淋さんにひとつお願いをした。僕がとにかく頑張った記念に、写真を撮りたいのだと話す。で、僕の目を見て言う。
「数井センパイ、抱っこしてください」
「へっ?!」
「英淋センパイだけ幸せそうなのはズルいです」
 さっきの写真を見たせいか。ふみちゃんは何の対抗心を燃やしているんだ。
「数井くん、会長命令です、書記のお願いを聞き入れなさい。拒否権はありません」
 英淋さんまで言い方が強くなってるし……明らかに二人とも変なスイッチが入っている。きっと春のせいだけど、まあ、大人しく従うしかない。
 僕はふみちゃんの背中とスカートの裾に腕を回し、あっさり抱っこして持ち上げた。たまに自転車の後ろに乗せているから、マシュマロみたいに軽いのは知ってたけれど、やっぱり軽かった。ふみちゃんは胸元に赤い花束を抱え、僕の顔をじっと見ている。いや、いや、そんなに見つめないでくれ。どんどん恥ずかしくなってくる。
「はーい、ふみちゃん、いいよー、かわいいよー。ねぇ、数井くん、もっと笑える?」
 英淋さんは携帯を構え、カメラマン気取りで少し距離を空ける。公園の噴水を背景に入れるつもりみたいだ。僕はふみちゃんをずっと抱っこしているが、別に疲れはしない。でも、もっと笑ってーと言われてもどんな笑顔をしていいのか。世界さんのビッグスマイルと比べないで。あんなの無理だから。
「はい、ふみちゃーん、そろそろこっち見てー」
 英淋さんが呼びかけた。だって、ずっと僕の横顔を見ていたから。お前、それじゃ記念写真にならないじゃないか。ふみちゃんはカメラに視線を送った。僕も合わせる。
 カシャッ。
「もう一枚ね」
 カシャッ。
 英淋さんはすぐさまふみちゃんと僕の携帯に写メールを送ってくれた。携帯で見ると、ふみちゃんは楽しそうな最高の笑顔で、僕は何となく硬い表情で、ちょっと撮り直してほしい気持ちもあったが、もう一回、自分から抱っこするなんて恥ずかしくて無理だ。
「ふみちゃん、ほっぺにチューはしなかったの?」
「英淋センパイ、ちっ、違います。それは、朝元気づけたから大丈夫です」
 ちょっ――な、何をこの子は言ってるんだ。英淋さんは急にじっとりした目で僕の表情を探ってくる。そんな視線を送られても、今朝のことなんか絶対言うわけない。
 ふみちゃん、あれは二人だけの秘密でいいじゃないか。頼むよ。
「ふうん、そうなんだ。何か、もう先を行かれちゃってる感じだなぁ」
 英淋さんは悔しそうに唇をとがらせた。
「勝手にしゃべった仕返しです」
 ふみちゃんはいたずらっぽく笑って言った。あっ。もうしかして、前に世界さんと英淋さんに話したことを知ってしまったのかな。わかった。これから気を付けます。
 僕はたまらず話題を変えた。
「英淋さんは、世界さんを追いかけるんでしょ?」
「……そうね。うん、そう決めちゃったから、山の中、海の先まで何があっても追いかけるよ」
 本当にすごい意志の強さだな。世界さんは死なない鳥だ。いつも羽をはためかせて飛んでるし、この先どこへ飛んでいくかわからない。たまに羽を休めるときもあるとは思うけど、そんなとき、英淋さんがそばにいてあげたら――と僕は思う。そう願う一心だ。頑張ってほしい。
 何か……チキンがなぜか無性に食べたくなった。
「お昼、行きましょう」
「数井センパイ、私、鶏肉が食べたいです」
「あ、あっ、ねぇ、わたしも鳥が食べたい気分っ!」
 奇遇にも、三人とも鶏肉を欲していた。じゃあ、チキングリルとかがある近くのファミレスがいいかな。
 こうして、世界さんは開架中学校から巣立ち、英淋さんはその尾羽を追って進学塾へ熱心に通っているが、僕とふみちゃんは相変わらずのんびりと一緒に登下校をしているくらいだ。たまに調子づいて自転車二人乗りで遠出したり、誰も知らなさそうな話をずっと語り聞かされたりするけれど、結局、その笑顔に和まされてしまう。
 小さな物語がいろいろ重なって溢れ出したとしても、これまで聞いてきた縁のままで、そばにいるだけだ。

(完)

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各話解説

 さて、そして第五作目「不死の跳躍」は表題作であり、シリーズ最終話ともなりました。ここまで楽しく読んでくださった方々、ご協力・応援をしてくださった方々に厚く感謝の意を傾けるとともに、黄色、ピンク、紫、緑、赤という表紙で連ねてきた最終巻の結びに、私は迷うことなく、生徒会長・屋城世界の卒業を選びました。
 題材自体は『不死鳥(ふしちょう)』ですが、これについては多様な解釈があり、それを細かく語るまでもないでしょう。不死が古代からのロマンであることは手塚治虫氏が名作『火の鳥』で語り尽くしていますが、自分が愛して止まない後輩書記シリーズの主要登場人物たちの姿を書き綴る上で、世界さんが次のステージへ羽ばたく日に、何に出会わせるかの答えはすぐに出ました。
 二年生の二人――数井くんと英淋さんが世界さんとの別れを惜しむ情景、そして一年生のふみちゃんが世界さんの卒業をどう感じているかに焦点を当てつつ、世界さんがいかに潔く巣立っていくかを丹精込めて書き上げました。英淋さんが弟のために帰宅するという定番ネタも、もはやネタの域を超え、物語を支えてくれました。
 愛情を持ってキャラクターを育てることは、このシリーズを書き始めたときから強く意識したことです。その結びで、育ててきたキャラクター達に翼をつけて羽ばたかせることができて、私は無量の幸せ者であります。

シリーズ完結のご挨拶

 さて、嬉しいことか困ったことか、もう一ページ残ってしまったので、私がこのゆるふわ妖怪小説集を書くに至った思いをもう少しだけ語りたいと思います。
 第一巻が産声を上げたのは、二〇十二年の五月六日です。第十四回『文学フリマ』で、初めて作った本を緊張した顔でテーブルに並べました。とにかく和む小説を手に取ってもらいたい一心でした。それが、葛城アトリさんが素敵な表紙と挿絵を描いてくれた、黄色い表紙の第一巻です。
 振り返れば、私の創作テーマを一変させたのは、約一年前、二〇十一年三月に起こった東日本大震災です。この直後、私は東京から名古屋へ転勤があり、仕事に没頭しながらも、震災で心に残った傷を癒そうと思いました。
 それは、同好の仲間とのつながりを大事にすることと、自分がやることは誰かを幸せにすることができるかを考えることでした。つらさや閉塞感を突きつけられるものを避け、やがて、小説を書く気力の回復とともに、読む人の心に温もりを残したい、と考えるようになりました。
 その象徴が、ふみちゃんです。この子はふわりした空気をまとい、古来伝承の記録の海にひたり、先輩たちと一緒にはしゃぐだけ。疲弊した私の心を癒すため、私が取りこぼしてきた青春を穴埋めするための――小さな存在です。それが巻を重ねる度に大きな存在感になりました。
 そんなふみちゃんと、彼女をずっと見守る数井くんと、二人を囲むメンバーの和やかな物語にお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。文芸の枠に捉われない創作の広がりに際して、多くの方々にご協力やご感想をいただけたことを厚く御礼申し上げます。
 最後に、表紙、挿絵、グッズなど多彩なデザインを手掛けてくださった素晴らしき妖怪ラクガキスト・葛城アトリさんに厚く感謝し、後輩書記シリーズがここに晴れて完結した感動を深く噛み締めたいと思います。


青砥 十





■絵師プロフィール
【葛城アトリ】
開架中学生徒会に入ってふみちゃんに年柄年中傅きたい系絵描き兼駆け出し妖怪ファン。萌え妖怪漫画を気まぐれに更新中。
http://flowercc.web.fc2.com
twitter: @atori_ragi

ゲスト①【宵町めめ】《「川底の幻燈に挑む」口絵&挿絵》
漫画家・イラストレーター。創作サークル「くらやみ横丁」の中の人。創作テーマは「日常に潜む異界」。
http://kurayamiyokocyo.lolipop.jp/
twitter: @kurayamiyokocyo

ゲスト②【蘭陵亭小梅】《「手洗の巨人に挑む」挿絵》
妖怪サークル「怪作戦」の絵描き担当。妖怪を描いた扇子、妖怪を写真で表現してみた「妖怪写真集」なども発刊。
 http://ranryoutei.blog.shinobi.jp/
 twitter: @ranryou
 

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