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後輩書記とセンパイ会計、 不動の雷獣に挑む


 開架中学一年、生徒会所属、有能なる書記のふみちゃんは、時代が違えば大宰府に左遷された菅原道真を継いで、学者としての最高位「文章博士(もんじょうはかせ)」にだってなれただろう。ふみちゃんは小学校時代、和歌や漢詩の専門誌に最年少で掲載され、神童と称されるほどの上級者だったらしい。菅原道真は学問の神様としても有名で、道真が奉られている京都の北野天満宮と福岡の大宰府天満宮は受験の御守りに人気らしい。和歌や漢詩の才能が飛び抜けていても高校受験は受からないと考える一年先輩の生徒会所属、平凡なる会計の僕は、およそ吊り合わないほどの古文音痴で、数学が得意な理屈屋で、近所の眼鏡店が【視界良好!合格祈願眼鏡ふき】なる縁起担ぎ商品を売り出したのを横目に見つつ、曇りにくい眼鏡を新調したところだった。
 六月二十六日、今日は「露天風呂の日」らしい。「ろ(六)てんぶ(二)ろ(六)」の語呂合わせだそうだ。実に強引だ。何でそこまでして記念日を作りたいのだろうか。
 そして、また今日は「オリエンテーリングの日」でもあるらしい。昔、東京の高尾山という山で日本初のオリエンテーリングが行われたんだとか。地図とコンパスを使ってチェックポイントを順番に巡ってゴールするまでの時間を競うスポーツだ。それはともかく今日は土曜日の休みで、先生の引率付きで林間学校の場所の下見に来たのだ。生徒会の一、二年生がその役割である。ちなみに僕が曇りにくい眼鏡を新調したのは、山林は霧が出やすいからだ。他の理由はない。
 朝の集合場所は、学校の門の前だった。
「数井センパイ、知ってます? 今日は『雷の日』で、菅原道真の祟りで平安京の清涼殿に落雷があった日なんですよ」
 唐突に僕にそう聞いてくる後輩が、ふみちゃんだった。知っているわけがない。それは中学生の常識の域をはるかに超えている。というか、祟りで落雷を起こすとかまるで魔神じゃないか。学問の神様ってそんなに厳しいのか。『落ちる』とかNGワードじゃないのか?
「清涼殿って?」
「平安時代の皇居です」
 ふみちゃんはまだ聞いてもいないのに皇居である内裏(だいり)の構造の説明を始めた。紫宸殿など七殿五舎が左右対称に近い配置になっていて、後宮が両側に連なっているそうだ。口で言われても全然思い描けないけれど。見ると、今日のふみちゃんは左右対称の髪型をしていた。長い黒髪を左右の高い位置で白いリボンで止め、肩にかかるくらいに垂らしている。
「ふみちゃん、今日はツインテールなの?」
「数井センパイ、違います。二つ結いです」
 きっぱりと言い返された。何が違ってるんだ。すると女子副会長の英淋さんもちょうど来た。
「あーっ、ふみちゃん、今日はツインテールなの?」
「英淋センパイ、違います。二つ結いですっ。お母さんに教わりました」
「あれ? 数井くん、そうだっけ?」
「いや、僕に聞かれても……女の子の髪型ですし」
 ふみちゃんの家は神社だから和名で呼ぶことが多いのかもしれない。お母さんに結ってもらうふみちゃんの姿を想像すると少し心が和んだ。一方、英淋さんは女子副会長で、留学経験があるので歳は一つ上だが、僕と同じ学年だ。林間学校の下見班はこの三人だ。なお、生徒会長の屋城世界さんは三年生男子の先輩だが、去年の下見で無謀な企画をやろうとして先生に阻止されたらしいが、詳細は聞かされておらず、当時の生徒会議事録にも残っていなかった。

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 引率の藤原先生が校門前に車で乗りつけ、開口一番僕たちを警戒した。
「お前たち、世界から何も吹き込まれてないな?」
 ――世界さん、何を企てたんだ。
 藤原先生は丸顔でどっしりした体格だ。すると、英淋さんが穏やかな笑顔で答えた。
「はい、会長からは『お前たちは生き急がなくてもいい』と言われてます」
 そんなこといつ言われたんだ。嘘じゃなさそうだけど、なぜ英淋さんだけに言ってるんだ。藤原先生はほっと胸を撫で下ろす。
「なら心配ないな。よし、出発しよう。車に乗って」
 英淋さんがさっと助手席に乗ったので、僕とふみちゃんは自然と後部座席になった。座るなり、今まで静かだったふみちゃんがほぼ僕だけに向かって清涼殿落雷事件の顛末を話し始めたのでかなり焦ったが、落雷で衣服に引火した上に胸を焼かれて死んだのが藤原清貫という高位貴族で、菅原道真の大宰府追放に関わった人物であると聞き、運転席の藤原先生に聞かせる話じゃないので小声で受け答えていた。
「後ろの二人は大人しいな」
「いつもはそうでもないですよ。緊張してるんじゃないですか」
 と話す藤原先生と英淋さんの声は聞こえたが、ふみちゃんの語る清涼殿落雷の惨状が凄まじすぎて、まったくそれどころじゃなかった。これから山に行くというのに、雷の祟りの話を聞かされるなんて。
「ふみちゃん……そんな話して雷が恐くならない?」
「一応、護符は人数分持って来ました。安心してください」
 家の神社から持って来たらしき物々しい護符がカバンに入っていた。いや、余計不安になる。
「まあ、行くと決めたんだし、行こう。僕は安全第一だから、危ないものには近づかないよ」
「はいっ、数井センパイについて行きます」
 ふみちゃんはあれだけ落雷を語ったのに、満面の笑顔で頷いた。

 世界さんがいた。
 そりゃあ、行く場所も日時も知ってるんだ。行こうと思えば一人で来れる。
 とにかく世界さんがいた。寄宿舎の前に。藤原先生は深く肩を落とす。僕たちは絶句する。
「俺は生き急いでもいい」
 開口一番これだった。世界さんはすごい名前だが、性別は男だ。陸上部のエースで走り幅飛びで県大会に行ったほどの実力者だ。一年中日焼けしている健康優良児。そして、何よりも行動力が常人の百倍はある。世界さんは切り換えの天才でもある。まさか、去年の何らかの企てが阻止されたことを今年やろうとしているのではないか。
「世界さんが手ぶらで来るわけがないよな……」
 寄宿舎の後ろには山の匂いが濃厚に立ちこめ、深い山林が広がっているが、僕は落雷よりもリアルな身に迫る危険に震えた。
「数井センパイ、違います。護符が一枚足りません」
 ふみちゃん、そんなことは心配ない。雷くらいで世界さんの行動が止まるわけがない。
「……世界、お前も引率か?」
 と、藤原先生が沈んだ口調で皮肉を言う。
「マロ先生、違います。雷からの護衛です」
 世界さんは藤原先生のことをマロ先生と呼ぶ。確かに先生はちょっと眉毛が丸く小さくて、顔はしもぶくれで京都生まれらしいけど。それよりも、世界さんが来た目的は雷からの護衛とのことだ。いくら雷の日だからとは言え、落雷が起こる前提で、しかも世界さんが護ると断言する。世界さんは昨年のオリエンテーションに参加して、いかなる神通力を身に付けたというのか。
 英淋さんはすかさず世界さんに詰め寄った。こんなとき詰め寄れるのは英淋さんだけだ。
「まわりにこれだけ木があって雷に撃たれることがあるんですか?」
 まっすぐな問い。ただ、何となく外が安全とは思えない。世界さんは首を横に振る。
「雷は森の中にいると危険だ。木に落ちて感電することがある。避けるために木から二、三メートルは離れるべきだが、森ではそんなこと無理だろう」
 世界さんには、気象学に詳しくアウトドア好きな銀河さんというお姉さんがいる。今日いないのが不思議なくらいだけど、銀河さんの影響でいろんな災害対策の知識を持っている気はする。
「感電……」
 英淋さんは言葉を失った。藤原先生が苦笑しながら止めに入る。
「おい世界、あまり後輩を脅かすな」
 まあ、天気はすごくいいのだ。車ではふみちゃんが祟りの落雷を語るし、世界さんが森の前で護衛とか言うけれど、見上げる限り天気はすごく快晴なのだ。雲影はあるが、いわゆる積乱雲みたいな黒い雲はなく、綿アメにように真っ白だ。風もない。車を降りたら額や背中から汗がしみ出すほどの暑さと湿気である。
 でも、世界さんは高潔で、人を脅かす性格ではない。それは僕たちが良く知っている。こんないい天気なのに? と疑う藤原先生や英淋さんをよそに、世界さんは僕たちを見た。
「ふみすけ、お前は何か感じるか?」
 世界さんは、ふみちゃんのことをふみすけと呼ぶ。ふみちゃんは気象レーダーではないが、不吉な出来事に敏感な性格は知っているようだ。
「――屋城センパイ、今日は危険日です。でも、数井センパイが安全第一で進んでくれます」
 いきなり僕に託された。世界さんは「おお、それなら」と頷き返す。ちょっと、待ってくれ。
「マロ先生、森に入りましょう。数井は信頼できる後輩ですが、護衛は任せてください」
 だから余計に心配になる。それから寄宿舎の人が挨拶に来たので、藤原先生が対応してまた戻ってきた。さあ、いよいよウォークラリーの下見に出発である。

 銀河さんがいた。
 そりゃあ、弟が行く場所も日時も知ってるんだ。来ようと思えば一緒に来れる。
 とにかく銀河さんがいた。森の中の第一チェックポイントに。何でコースまで知ってるんだ。そうか、僕が生徒会室で地図を世界さんに見せたからだ。でも見せただけで、渡してない。世界さんはそれを目で覚えて、姉の銀河さんに伝えたのだ。なんという連携だ。
「生き急ぐことはないよ」
 銀河さんは腕組みして僕たちの前に現れた。そうか車で来たんだな。銀河さんもまたすごい名前だが、性別は女性だ。大学生で、アウトドアや気象学が大好きで、雷が来るとか言ってるのに丈のすごく短いパンツで、しなやかな太ももがむき出しだった。
「きゃあっ! ふみすけちゃん、今日はツインテールなの?!」
 いきなりふみちゃんの体に飛びついて頬ずりした。細長く垂れた髪がふいふい揺れる。銀河さんはふみちゃんのことをふみすけちゃんと呼ぶ。
「銀河さん、違います。こえは……うたつ結いでふ」
 むぎゅっと頬を押し潰された顔で苦しげに答える。たぶん銀河さんには聞こえていない。英淋さんは、銀河さんの姿を見て、安堵の笑顔になった。さっきまで雷の話で少し怯えていた様子だったが、元気を取り戻したようだ。逆に顔色が露骨に曇ったのは藤原先生だ。
「『女帝』も来たか……」
 深く重たい溜め息をつく。
「マロニー先生! 久しぶり!」
 もはや原型がない。何でも銀河さんは開架中学生徒会長時代、『女帝』と呼ばれていて、今では伝統と思われているものをほとんど導入したらしい。このウォークラリーの下見に生徒会が行くのも銀河さん時代からの伝統で、他校では珍しく、今となってはこうなった目的すら謎だ。
 ――姉さんは風向きで決めた。
 と、以前、何かの機会に世界さんが語ってくれたことがあるけれど、それ以上は何もわからなかった。藤原先生が『女帝』と称し、その先生をマロニーと呼び返す関係から感じ取れることこそが唯一の真実なのだろう。
 それから、ふみちゃんは抱きつき攻撃から解放され、僕のそばに髪の乱れを直してほしい、と寄ってきた。そんなの英淋さんのほうがいいんじゃないかな、と思うが、ふみちゃんは僕のほうが落ち着くと言うので、とりあえず髪を撫でておいた。これでいいのかな。違います、と否定されるかと思ったら、ふみちゃんはうつむいて満足げだった。
「――お前たちの目的は何だ」
 藤原先生が突然襲来した風神雷神のような姉弟に来意を尋ねた。
「護衛です」
「あたしが目になります」
 世界さんはまるで侍だ。そして、銀河さんは何の目かさえわからない。台風の目だろうか。

 五人パーティで山道を登り、第二のチェックポイントへ向かう。一応、先生に渡された地図を僕が代表で持ち、コンパスを見ながら先頭で歩くことになった。ふみちゃんが地図やコンパスの動きを面白そうに覗き込む。図書館好きなふみちゃんには案外こういう森の散策はすごく新鮮な体験なのかもしれない。僕もふみちゃんと並んで歩くのは、雷のことを頭の隅に忘れるほど嬉しい。
 そして、英淋さんと銀河さんが好き勝手におしゃべりしながらついて来る。世界さんは阿修羅像のように凛々しい顔でその後ろに続く。あれ、二人が目と護衛になるんじゃなかったのか。結局、僕が先頭で、最後尾が藤原先生だ。先生はルートよりも屋城姉弟が何かおかしな動きをしないか見張っている気配だった。
 第二のチェックポイントは古い祠のようだった。いつの間にか森の深いところまで来たせいか、空がだいぶ暗かった。ふみちゃんが足を止める。僕のTシャツの裾をぐっと引っ張った。
「数井センパイ、あれが本当のツインテールですよ。これ以上近づくと危険です。感電しちゃいます」
「え、何が?」
「ツインテールは、そこの雷を纏った野犬です。二つの尾をギュンと逆立ててます」
 息が止まった。――慌てて足を止める。確かに何か空気が違う。祠には近づいてはいけないような、ピリピリした威圧感があった。しかし、ふみちゃんの言う野犬の姿はそこにはない。と思う。僕の目にはただ古びた石の祠が一つあり、はがれ落ちそうな御札や薄汚れた墨文字が木の戸板にこびりついているだけだ。いや、墨でなく、焼き付けたような文字かもしれない。
「どうした? 大丈夫か?」
 藤原先生が後ろから声をかけ、屋城姉弟と英淋さんを追い越して僕たちのそばに来る。もう誰が目とか護衛とか関係ない。ふみちゃんが異変を訴えたのだ。こんなふうに変なことを言い出すのはこれが初めてではない。ただ、僕には何も藤原先生たちに答えられることがない。とにかく事は簡単でない。文系の女の子に見えて理系の僕に見えない何かがあるのだろうか。あるとすれば探るしかない。
「そこに……野犬……がいるのか?」
「はい。でも、動きません」
 突然――ババババッという大きな音とともに雨粒が落ちてきた。雨が木々の葉を撃つ音だ。空は真っ暗だ。森の奥まで来たせいで天気の変化に僕は気づかなかった。ふみちゃんへの問いかけが途中になったが、それどころではなかった。やっぱり来たね! と銀河さんが自信に満ちた笑みを見せ、世界さんに目配せした。何が来たかというと、きっと予告通りの雷雨のことだろう。ふみちゃんが野犬と言ったものは他の誰にも見えていない。僕が見えないものは、他のみんなも見えないはずだ。
 ゴゴゴゴッと、山が地鳴りのように低くうなる。町中で聞くよりずっと大きな恐ろしい音。明らかに雷の響きだ。雨は重なった枝葉を突き抜け、どんどん地面に降り注ぐ。僕はカバンから急いで折り畳み傘を取り出した。しかし、ふみちゃんは傘を出す様子がない。持って来てないのかな。藤原先生や英淋さんもカバンに手を入れ、傘を出そうとしている。姉弟はまだ傘を差さず、銀河さんは空を――世界さんは祠を――見つめていた。
 傘を開いた瞬間、前からぐっと体を押された。柔道の組手みたいに、ふところにふみちゃんが踏み込んでいた。
「ダメッ、雨で感電の射程が広がります! もっと下がらないとダメッ!」
 ふみちゃんは僕の体を力いっぱい後ろに突き飛ばした。
「えっ?! どういうこと?」
 考える暇もなく、僕はよろけて転んだ。みんなが驚いた。次の瞬間、ふみちゃんが激しい雨音や山鳴りを打ち破るほどの大声を出した。
「あいつがいると、ここに落ちます!!」
 事情を聞く余裕もない。こんなに切羽詰まった表情は初めてだ。
「下がって!!」
「ふみすけ!! お前が一番近いっ!!」
 世界さんが僕の横に踏み出し、手を伸ばし、ふみちゃんの腕を掴み、強く引っ張って祠から離した。銀河さんが転んだ僕を担ぐように引き上げ、祠から猛ダッシュで離れた。英淋さんも青ざめた顔で土の上を駆け出し、藤原先生はその背中をぐっと思い切り押した。もう誰が何を掴み、どう走ったかわからない。祠から離れることで必死だった。
 たぶん、銀河さんに引きずられた僕だけが、祠の方向を――落雷の瞬間を見た。

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 景色が真っ白になり、轟音が天地を貫いた。祠が吹き飛ぶ。足にビリビリッとすさまじい激痛が走った。ぎゃっと鋭い声が漏れ、もつれて倒れそうになる。体勢を崩した僕を支える銀河さんの腕に力がこもった。英淋さんが、悲鳴と痛みを訴えて転んだ。土くれが弾ける。先生の大きな体が前のめりになる。その横から世界さんがふみちゃんの手を引きつつも体を滑りこませ、空いた手で英淋さんの体を抱き起こした。英淋さんは世界さんの太い腕にしがみつく。雨のせいか、顔が悲痛に泣き崩れていた。
 僕は目を見開き、さっきまで祠だったものを見る。落雷で完全に破壊されていた。石で出来ていたものが。そばにあった大木の幹に黒々と焼けた筋が走り、焦げ臭い匂いが猛雨の中に立ち込める。雷が木に落ちたのは確かだが、祠に直撃したかどうかわからない。何に雷が落ちたか、あの瞬間、目で取らえることは無理だった。雨粒に見舞われた僕の眼鏡は、真白く光った一瞬だけを脳裏に刻みつけていた。それだけ。それだけだった。
 荒天から森の中を突いた雷光は収まったのか。山中に響いた轟音が静まり、僕は息を切らせて振り返った。全員が無事だ。無事だった。良かった、無事だった。
 ――ふみすけ、お前が一番近いっ!!
 世界さんの判断は的確だった。あのとき、ふみちゃんは僕たちを祠から引き離そうと無我夢中だったはずだ。自分の立っている場所の危険性を失念していた。世界さんがふみちゃんの腕を引かなければ、もし世界さんが、もし世界さんが――
 あのとき、もし世界さんが……!
「数井、お前が立ち止まって良かったよ」
 バンと肩を力強く叩かれた。誰に。世界さんにだ。
「もっとそばまで行ってたら、確実に足の痺れじゃ済まなかった」
 僕は茫然としていた。僕の体を引いてくれた銀河さんが、腕を離し、ふうと息をつく。ふみちゃんは、雨にぐっしょり濡れながら僕の胸に飛び込んできた。顔を真っ赤にして泣き出す。熱い体温の塊だった。僕はどうしていいかわからず、とにかくこれ以上ふみちゃんが雨に濡れないように傘を差そうと思ったが、手になかった。逃げる時に離してしまったのだ。まわりを見渡す。英淋さんは唇を震わせて棒立ちし、世界さんの腕にしがみついている。藤原先生は傘を差し、ひとまず近くにいた英淋さんの頭の上に傾けた。
 世界さんは雨に打たれるのも構わず、壮絶な恐怖を乗り越えた――いや、むしろまるでそんなもの最初からなかったみたいに、清々しい笑顔を僕に向けてくれた。
「数井。お前が俺たち全員を救った英雄だ」
 気が動転していて、返す言葉が出てこない。僕の胸で激しく泣きじゃくるふみちゃんの頭を、世界さんがそっと撫でた。一番小さな後輩を慈しむと、僕の目をまっすぐ見た。
「この命は一生もんだ。自分の強運を、誇れよ」
 胸にはふみちゃんの泣き顔がうずまっている。そして、もう今更戻って自分の傘を探すのは無理だった。

 突然の落雷事件で、林間学校の下見どころではなくなり寄宿舎に戻った。僕はすっかり力が抜けてしまってふらつく足取りだったが、今度は世界さんが先頭に立ち、地図を見ながら森の入口をめざした。あれ、こんなに近かったかな? という程度しか歩かないうちに寄宿舎に着いた。
 帰り道に第一チェックポイントは通過しなかったので、世界さんは地図を見て独自に道を選んだのかもしれない。まあ、この人について行けば間違いないことは知っているのだけれど。藤原先生ですら、短時間で出発点に戻ったことが不思議なようだった。
 ロビーのソファに沈むように体を落とした。わからないことはたくさんある。ただ、考えるよりも、悩むよりも、とにかく体を休めたかった。雨に打たれて冷えたせいもある。転んだせいで腕や服にも泥が付いていた。ある程度は玄関で泥を払い落としたが、泥は服にこびりついている。
 まあまあ、と寄宿舎の受付のおばさんが人数分のタオルを持って来てくれて、藤原先生に渡した。全身が一番びっしょり濡れているのは世界さんだった。藤原先生がタオルを配りながら僕たちに頭を下げる。
「みんなには危ない目に遭わせて申し訳ない。本当に無事で良かった……」
 だけど、雷が来るかどうかいくら騒いでいても、本当に目の前に落ちるなんてことを誰が想像できただろうか。唯一何かをリアルに察知したかもしれないのはふみちゃんだと思う。タオルの隙間から覗く小さな後輩の顔を見る。まだ目が真っ赤だった。
「マロニー先生、やめましょ? 誰も怒ってませんよ」
 銀河さんがにっこり笑う。世界さんも自然と同じ表情だった。この姉弟はどうしてこんなに疲れ切った時も笑顔でいられるのだろうか。藤原先生は首を横に振り、黙って僕たちに深々と頭を下げた。学校の先生というのは数十人、数百人の命を預かる仕事だと聞いたことがある。少しだけその意味を感じた。僕は――いずれ大人になるとして、人の命を預かるなんていう役割を望んで出来るものだろうか。
 藤原先生は大きく溜め息をつくと、ズボンのポケットを手で探り、受付のおばさんに小声で何か尋ねた後、ロビーの奥に消えて行った。その背中はどこか悲しかった。
「煙草ね」
 銀河さんがつぶやいた。
 ロビーはまた静かになる。英淋さんは世界さんの隣りに座り、ぴったりくっつき、気だるそうに頭を肩に乗せている。世界さんは、落雷から一言も話さない英淋さんの手をぎゅっと握り締めたままだった。話しかけられない雰囲気があった。銀河さんは姉として何か思っているのだろうか。
 一方、僕はそばに座っていたふみちゃんに気を留めた。ふみちゃんは僕の視線に気づくと、ポシェットから袋入りのアメを出し、僕の前に置いた。ふみちゃんのほっぺにはすでに一個入っているようだ。こうやって気分を落ち着けているのだろうか。僕はアメ玉をもらう。和紙っぽい包みを破ると、ビー玉みたいに輝くべっこうアメだった。
 確かな純粋の甘さが安堵へと導いてくれる。外の雷雨は弱まり、今はロビーの空気も落ち着いていた。
「ふみちゃん――あの祠で何を見たんだ?」
「ほんとは森の中を走り回るんです」
 そこから溢れ出す状況説明は雑だった。犬より少し大きい狼のような姿で、前脚が二本、後脚が四本、尻尾が二股に分かれた獣だと言う。雷の精霊を纏い、激しい雷雨の日に空を飛び回り、地上に降り立ったところに雷を落とすそうだ。動きを止め、長い二本の尾がうねるように逆立つと、それが雷を呼ぶ合図であると。さらには、天にいるのは雷神だと言う。
 雷を纏った動物だと、恥ずかしい話、僕はボールから出して戦う黄色いリスみたいな例のアレしか頭に浮かばないが、狼のようだという説明を聞く限り、もっと獣らしい剛毛に覆われた恐ろしい姿を想像しておくほうがいいんだろう。もちろん僕にはそれが見えない。
「その動物は……雷神の飼い犬なの?」
「数井センパイ、違います。犬でもなく、飼い犬ではなく――雷神の化身です」
 ふみちゃんは祠の前で野犬がいると言っていた気もするが、その言葉を違うと否定するほどの知識は僕にない。
「雷の日と知ってて、どうしてふみちゃんも森に入ったの?」
「えっ……どうしてって、あの、数井センパイが入ったからです」
 それは意外な答えだった。僕が入ったから自分も入った?
「危ないなら僕を止めればいいじゃないか」
「……だって、数井センパイ、行くと決めたら必ず行くし、縁起とか風向きくらいじゃ弱気にならないから。絶対気変わりしないんです。ほんと、誰よりも心が強いんです」
 絶対に気変わりしない――か。ふみちゃんはそんなふうに僕を見ているんだな。確かに僕は世界さんみたいな切り換えの天才ではない。縁起とか祟りはあまり信じないし、それで道を引き返すことも考えない。古くからの縁起に詳しくて敏感なふみちゃんは、そんな僕をどう思っているんだろう。目が合うと、ふみちゃんはにっこり笑った。
「だから、何かあったらセンパイを護ろうと、護符を持って来たの」
 護符。そうか、最初にそんなの見せてもらったな。茫然として忘れていた。ふみちゃんが鼻歌混じりにカバンから護符を取り出し、ぎょっとする。四枚とも丸焦げで黒ずんでいた。
「これは……僕たちの身代わりか?」
 あり得ない。こんなに黒かったはずがない。なぜ焦げたのか、理由を聞くのは恐かった。
「えへへっ、こっちは六人、護符は四枚。ほんとはギリギリだったんだよ」
「な、何がギリギリだったの?」
「祟りです。雷撃の回避です」
 背筋が少しひんやりとする。僕は神妙に腕組みをした。
「――僕たちが祟りに遭う理由なんてあったのか?」
 菅原道真が恨んだ貴族の治世は終わった。今となっては時代も違うし、道真は逆巻くような逆転で、有名な神様として崇められている。ただ単に、道真が雷を落とした日と同じ日に僕たちは山歩きをしただけだ。六人とも別に後ろめたいことはない。
 すると、ふみちゃんは二つ結いの髪を撫で、乾いてきたことを確かめた。
「数井センパイ、違います。雷神が、今まで落とした雷のわけを覚えていると思いますか?」
 まあ、それはその通りだった。

 藤原先生がロビーに戻ってきて、正式に下見は中止になり、「やる日を間違った」とまた先生に深々と詫びられた。銀河さんが立ち上がり、すかさず先生の背中を叩いて慰める。この人は今回の下見から一番遠い存在だと思うし、結局どういう立場なのか謎だが、銀河さんだから許される気もした。これが過去に『女帝』と称された姿なんだろうか。また、藤原先生が警戒していた世界さんの企みの疑いも、落雷事件で完全にそれどころではなくなった。
 さあ、帰ろう。雨が弱まったので、みんなで駐車場に向かう。まだ名残のように雷鳴が聞こえ、振り返ると山の中腹まで黒い雲が色濃く覆っていた。あそこのどこかに雷神の化身である獣が留まっているのだろうか、と想像する。
 僕は想像しただけで、口には出さなかった。すっかり怯えて疲れてしまった英淋さんの様子を見てのことだ。世界さんも、英淋さんの肩を支えつつ静かに囁くように声をかけていた。「ゆっくり休め」と慰めているふうにも聞こえた。
 一瞬、英淋さんは銀河さんの車に乗るのかな、という雰囲気を感じたが、英淋さんは藤原先生の顔を見て、先生の車の助手席に静かに乗り込んだ。そして屋城姉弟と別れ、僕とふみちゃんはまた後部座席に乗った。屋城姉弟は「雨が止んだら森に入って片付けをしよう」みたいなことを話し合っていたが、十分聞き取れないままエンジン音が鳴り、先生の車はゆっくり動き出した。
 どこまで下りても細かい雨粒が車を包み、バンパーだけが忙しく左右に動いている。山道を下る間、ずっと黙りこくっている英淋さんに突然ふみちゃんが声をかけた。
「英淋センパイ、一緒に露天風呂に行きましょっ」
 思いも寄らない提案だった。そう言えば、学校までの帰りに少し寄り道すれば、小さな温泉街があるのだ。温泉街と言っても伝統のある有名なところではない。数年前に温泉が湧くことがわかり、スーパー銭湯みたいな施設ができたばかりだ。ふみちゃんの話では屋根つきの露天風呂もあるらしい。
「えっ……?」
 戸惑う英淋さん。でも、僕は即座にその提案に乗った。
「よし、行こうよ。先生、僕らのお風呂代ください!」
 決してふみちゃんの湯あがり玉子肌を見たいだけの理由じゃない。英淋さんも藤原先生も沈んだ気分のままじゃ、帰りの車内が暗いだけだ。せめて今日をいい日にして終わらせたい。ふみちゃんの提案は単に気分的なものかもしれないし、世界さんが見送る際に言った「ゆっくり休め」の言葉で降ってきた電撃的アイディアかもしれないが、僕は全面的に賛成だ。
 藤原先生とバックミラー越しに目が合った。僕は眼鏡をいい角度に直し、熱っぽい視線で迫った。
「先生、いいですよね?」
「うおっ、全員分おごりかぁ。数井は、世界とはまた違うタイミングで妙に乗ってくるな。まあ、今日くらいはそういうのもいいか」
 話がわかる先生だ。それを聞き、ふみちゃんが後部座席から前に乗り出した。
「藤原先生、違います。今日は『露天風呂の日』だから、半額です」
「ハッハッハ、何だ調べて来たのか。お前も熱心だなぁ」
 そして、英淋さんはかなりワクワクした顔で振り返った。山道のカーブで揺れたふみちゃんの渇いた二つ結いの毛先をつまむ。
「ねぇねぇ、ふみちゃんは子ども料金で入れるの?」
「英淋センパイ、違います。ちゃんと中学生以上で入ります!」
 藤原先生は腹の底から笑いながら、交差点に立っていた温泉街の看板を見て、軽やかにハンドルを切った。
 落雷は、僕の慎重さとギリギリの護符によって最悪の事態を回避できたのかもしれないが、ふみちゃんと進展はない。ふみちゃんと小さな温泉街に寄って体の疲れを癒したら、一緒にまた家の近くまで先生の車で送ってもらうだけだ。

(了)

各話解説

 第三作目「不動の雷獣」は、おそらく後輩書記シリーズで初めてリアルな身の危険を書いた作品ではないかと思います。基本はゆるふわでハッピッピな作品集ですが、時には本気で深入りを後悔したものを入れたくなり、題材に『雷獣』という危険な妖怪を選び、書き下ろしにしました。
 この『雷獣』は、落雷のあった場所に現れる多足二尾の獣ですが、落雷のたたりの伝説として有名な菅原道真公を扱いつつ、二尾を避雷針のように設定し、ふみちゃんのツインテール(二つ結い)と対比しています。
 第三巻の表題作でツインテールを扱った理由は、古谷完氏が代表を務める「日本ツインテール協会」の写真集を衝動買いしてしまったからですが(笑)、結果的にふみちゃんの二つ結いと英淋さんの可愛い挿絵が入り大満足です。

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