見出し画像

二度目はない ―丹沢水系夜話―


 川にも天狗がいる。
 大水が出ると、川天狗が出るという。

 八月の日もまだ浅い丹沢山麓に、梅雨が明けたのも忘れたか、おてんと様からどっさり雨が降った。雨は二日も続いた。
 道志川沿いの帰り道、薄闇の森にそぼ降る雨の中、泥まみれの古ぼけた車が一台ガタガタと音を立て走っていく。斜めに立てた虫取り網と空っぽの虫籠が細かく震え、ぶつかり合っている。
 高志はむっすりと渋い面を窓に載せ、小さな鼻の先に、でっかく霞む深紫色の山影を眺めていた。山の端は、夜に塗り込められて、どこまでなのか分からない。
 ゆるやかに曲がる坂に差しかかった時、車道からはるか遠く、深く折り重なった谷間に、ぼんやりと青色の火の玉が――ふたつ、みっつと灯るのを見た。
 指に力が入る。
「俊、見ろ、外! 早くっ!」
 高志は火の光を見失わないよう焦りながら、弟の俊平を揺すって窓際に呼んだ。高志は息をひそめ、必死に目で追いかける。
 火の玉は、森の間を撥ね廻る。動きが速い。あんな深い森の中、誰かが火を持って走っているふうにはとても思えない。
 それはやがて、暗い山肌を転がって、川辺の小さな小屋に落ちた。屋根にまばゆい青銀色の光がはじけ、谷間を越えて、岩の割れるような重たい音が鳴り響いた。
 高志と俊平は血相変えてシートを掴み、ハンドルを握る比古爺に向かって、いま見たものの話を目一杯ぶつけた。しかし、比古爺は音など聞いていないと言う。黙らせるつもりか、からかうように、川天狗の仕業だと言った。
 火の玉が小屋に落ちた、落ちた――と高志が何度もくり返すと、
「そんな事で、あばぁちゃばするな」
 と言って、車を道端に寄せてゆっくり停めた。
 比古爺は振り返り、筋ばった固い手で、高志と俊平の頭を順にごしごし撫でる。川天狗は欲の深いやつだ。夜、人が川で釣りをすると、火の玉になって出る。驚いて逃げてる間に、せっかく捕った魚をみんな食ってしまう。あれは、みんな川うそだ。川に棲む猫だ。だから魚を横取りする。
 川に住む猫、と聞いて高志は少し気が抜けた。猫なら横浜の家に帰ればいる。俊平もまた高志の顔を見て、途端に落ち着きを戻した。
 高志が何気なく、誰か川で釣りをしてるの、と聞くと、比古爺は眉をひそめ、少しの間考え事をした。
「よし、あっこ行くべ。ちったー遅くなってもえぇべ」
 比古爺が皺くちゃの顔をすると、俊平はくすぐったいような声を出して笑った。
 えぇべ――高志はその言葉が耳に残った。

 車の窓を打つ雨足は弱ってきたが、木々の合間を埋める闇はいっそう濃くなる。比古爺は一向構わずハンドルを切り、暗い脇道に車の頭を突っ込ませた。白い痩せた外灯がぽつぽつ立ち並び、右から段々畑が迫ってくる。そこに、一人傾いて立つ案山子が車のライトに白く照らされて、横ざまに流れていく。
 やがて道が途切れ、古ぼけた黄色い大きな電球の下に、車は停まった。
「ちっと前、ここらで、うんとでかいカブト虫見たぞ」
 比古爺は黒い蝙蝠傘を手に取り、そう言った。高志は勇んで虫取り網を持ち出す。ドアの外は、川音がごうごうと耳の間近に鳴り響き、緊張が一気に身に迫る。
 高志が傘を開くと、俊平は自分のを持たず、高志の傘に入って小さな体をくっつけてきた。電球から一歩離れると、自分の足すらよく見えない。高志は隣りにいる俊平の黒い頭を見つめ、少し考えてから言った。
「俊は、車で待ってなよ」
 しかし俊平は頭を横に振り、高志の服を掴む。虫籠を肩から提げている。高志は仕方なく俊平を連れていくことにした。
 比古爺の向かう場所に、幅の狭い木組みの階段が見える。その下った先に、板張りの小屋がぐっしょりと雨に濡れている。そして、比古爺は振り返ることもなく、小屋の中に入っていった。
 高志と俊平は階段を慎重に下りた。足元が真っ暗でほとんど見えない。祈るような思いで最後の段を終え、息を吸い、顔を上げると――小屋の陰から、大きな川が見えた。ざばざばと音を立て、真っ暗い水を押し流しているのが分かる。高志は首筋に少し汗ばみながら、弱い明かりが洩れる、半開きの戸に近付いた。
「誰もいねぇか?」
 中から、比古爺の声が聞こえる。
「あー、やっぱし、網がやりっぱなしだあ」
 高志は戸を引いて、小屋の中を覗きこむ。奥に、比古爺の後ろ姿があった。川に向かって開いた窓から手を伸ばし、腰に力を入れて大きな網をたぐり寄せている。
「かーっ、重てぇ。石が入ってんなあ。魚がみんな、おっ死んじまう」
「お爺ちゃん」
 高志は呼んだ。
「あー、そこで待っちょれ」

  ――こつん
 ひゃっ、と叫んで俊平は顔を向けた。足元に、小石が転がってきた。
「お兄ちゃん」

  ――かん
 硬い音が響く。さっきより大きい石が、小屋の壁に当たって落ちた。壁を削った跡がぼんやりと分かる。
「お兄ちゃんっ!」
 俊平は悲鳴に近い声を上げ、高志の服をぐいっと引き戻す。高志は足がもつれて転びそうになるのを虫取り網の棒で支えた。そして、波立つ川辺が目に映る。
 川の中ほどに、二つの大岩が顔を出し、川面をばっさり割っている。その岩場の上に、見たこともない真っ赤な生き物が、肩を荒げて立っていた。
 全身の毛は水に濡れ、両手の爪先から滴を垂らしている。大きく裂けた口には、尖った刀歯がびっしり生えている。怒りのこもった、おぞましい形相。
 漆黒の冷たい目玉が、高志と俊平を鋭く睨んでいた。
  ――おめぇら、一度目は許したが、二度目はねえぞ。
 恐ろしい声が、腹の底まで響いた。
 そして、八方を睨み、一瞬にして消えた。

 暗い水面にくっきりと浮かぶ岩場。そこにもう、赤い生き物の姿はない。二人は吸い寄せられるように水際まで歩を進め、真っ暗な渕を覗いた。濁った水がぐらぐらと揺れながら激しく渦巻いている。
 ガラガラガラ………
 川上のほうで、雷鳴が轟いた。雨は弱まっているのに、川は構わず勢いを増す。雷鳴は二度三度と続き、夜の森を震わせ、高志と俊平の小さな足をすくませた。
 雷の落ちた上流から聞こえてくる、木の幹が折り砕かれ、めりめりと倒れる音。土肌を踏みしだくように転がる粘っこい音。それが間を置かず――ざぶっ――川に落ちた。
 高志と俊平は、川際から一歩も動けない。足が地面に吸い付いて、考えることを忘れている。小屋の戸が勢いよく開いた。比古爺の声が飛ぶ。
「なに、ぼさっとしてる! そっから離れろ!」
 しかし高志には、川の渕が歯を剥いて、笑っているように見えた。
 比古爺は二人の脇を抱え、川辺から懸命に引き剥がそうとしたが、二人の体がまるで岩のように固く、地面に根を張ったような重さだった。比古爺は悟る。川の天狗が牽く剛力には、どうやっても敵わない。比古爺は咄嗟に、二人が手に持つ虫取り網と虫籠を、小さな手から引っこ抜き、川に向かって投げ捨てた。
「この子らは、魚を捕らんけー、攫わんでもえぇべ!」
 真新しい虫取り網と虫籠が、瞬く間に濁流に飲まれる。声が通じたのか、高志と俊平の体が浮いて、比古爺は二人を目一杯後ろに引き戻した。その瞬間、三人の目の前を巨大な黒い流木が転がり落ち、小屋の突出し窓を直撃して、板壁をえぐり取った。
 板が割れる凄まじい音に、高志と俊平は息を取り戻す。
 流木は岩場に当たって跳ね上がり、再び、暗い水の中に真っ逆さまに沈んだ。先っぽに汚れた長い網がからまっている。水に落ちた流木が川底を打つ鈍い音が残響し、山上の雷鳴はいつの間にか過ぎ去っていた。


 車のスピードに合わせて、森の景色が流れていく。
 比古爺は、岩場に出た赤い化け物こそ、川天狗だと高志に返した。あれが出たら魚の網など間違いなくやられる。今夜は流木に破られた、と付け加えた。
 雨が止んだようで、比古爺はワイパーのスイッチを切った。シートの陰から見える肩の服が濡れている。高志は後部座席に浅く座って身を屈めていた。隣りには、俊平が疲れてこんこんと眠っている。悪い夢でも見ていないだろうか。
「大水が出ると、魚がうんと流されちまって、よっぽどイライラすんべなあ」
 比古爺はハンドルを握ったまま、ぼそりとつぶやいた。高志は、川天狗に睨まれたあの目と、腹に響いたあの声を思い出し、比古爺の背中に尋ねる。
 車は、交差路の小さな看板を照らし、畑の真ん中を渡る林道へ入っていく。
「網と籠を持ってたかんなぁ、夜釣りに来たと勘違ぇしたんだべ」
「うん」
「けど、あんな、みみっちぃー網と籠じゃ、ろくすっぽ捕れねぇのに。雷まで落っことすこたあねぇべ」
 高志は、川天狗はもう出ないの、と聞いた。
 明後日には横浜に帰る。あんな恐ろしい目は二度と嫌だが、怒らせたまま帰るのも何だか不安だった。向こうの勘違いに謝るのもよく分からないが、気にかかってなかなか胸が落ち着かない。もし謝るのなら、今度こそ俊平を車に置いて行こう。火の玉を見たと最初に騒いで、俊平を危ない目に巻き込んだのは自分だ。
「やー。もう、あんなおっかねーのが出るとこには連れてかねぇよ。今度ぁ、俺がおめぇたちのお母さんに雷落っことされるべ」
 比古爺は大きな声で笑った。聞きたいのと少し違ったが、気付くと胸のざわめきは解けていた。小さな溜め息が洩れた。
 高志は俊平の頭をそっと撫でる。首筋から疲れがあふれ出し、シートに体を深く沈めた。虫取り網も虫籠も消えてしまったその場所は、思いのほか広かった。

(了)

各話解説

■二度目はない ―丹沢水系夜話―

 最後の「二度目はない ―丹沢水系夜話―」はシリーズ外の作品になりますが、二○○三年八月にサイトに発表した、私が妖怪物として二作目に書いた短編小説です。山暮らしの祖父と都会育ちの少年兄弟が、『川うそ』という川辺の妖怪に遭遇してしまう物語です。妖怪との遭遇では、第二巻に収録した『夜叉蟹闘漁伝』の迫力とは違いますが、夏の一幕を味わっていただければ幸いです。

 そして最後に、表紙、挿絵、ドラマCDジャケットなど多岐にわたるデザインを手掛けてくださった素晴らしき妖怪ラクガキスト・葛城アトリさんに厚く感謝し、第四巻が完成した感動を深く噛み締めたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?