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後輩書記とセンパイ会計、 長老失格に挑む

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 開架中学一年、生徒会所属、有能なる書記のふみちゃんは、時代が違えば文豪・太宰治が惚れ込むような喫茶店の女給にだってなれ――いや、それはダメだ。ダメだったらダメだ。人間失格で川に心中なんて僕が絶対に許さない。
 気を取り直して。
 純心なる書記のふみちゃんは小学生時代、電気を大切にしようという作文コンクールでエネルギー庁長官賞をもらうほどの上級者だったらしい。ただのエコがテーマでどんな作文を書けばそんなすごい賞がもらえるのか。こまめに消せばいいだけじゃないのか。実際、僕が今みんなを静かに待っている生徒会室は、明かりをつけていない。
 ちなみに、いい作文を書けば大学に入れる受験もあるらしいが、ふみちゃんの実力なら本当に作文だけで有名大学に入れてしまうのではないかと思える。そんなふみちゃんを羨む一年先輩の生徒会所属、平凡なる会計の僕は、およそ吊り合わないほどのデジタル派で、数学が得意な理屈屋で、いつか電子コミックが読める眼鏡をアメリカの大企業が開発しないかな、と空想するほどだった。
「数井、それだと視力が落ちるぞ」
 暗い生徒会室に威勢よく入ってきたのは、生徒会長の屋城世界さんだ。いきなり断りなくライトを全部つける。節電の概念がない人だ。たぶん電気がなければ労働力が余ってる国で発電させ、それを輸入すればいい、とか考えそうな人である。
 ふみちゃんはトイレで席を外していて、僕だけだった。世界さんは僕が節電していると思っただろうが、電気を消したのはふみちゃんだ。事の順序を正しく言うと、今朝、僕が一番乗りで生徒会室に来て自分の上だけ電気を付けて待っていると、次にふみちゃんが来て、冬ならば雪の灯りで本が読めるとか、夏なら蛍の灯りで……とか、古代の読書方法を語りながら電気を全部消した。そう考えると、ふみちゃんのエコ作文の内容が非常に疑わしいのだが、ともかく、ふみちゃんがトイレに行った間に世界さんが来て、全部電気を付けたのだ。
 僕は、まあ自分の上だけ電気があればいいと思うけれど、ふみちゃんも世界さんもバランス感覚を持ってはいない。ゼロか、オールか、極端である。
 ゼロは過去や伝統で、オールは未来や挑戦だ。そんな未来の象徴でもあるオール世界さんは、【会長】という黒い三角の名札が置かれた自分の席に座った。これで、あとは女子副会長の英淋さんを待つだけだ。
 世界さんは、後ろの本棚から『キルヒャーの世界図鑑』という翻訳書を抜いて読みはじめた。昔のドイツの思想家キルヒャーが書いた本らしいが、中国文明のエジプト起源説や、ノアの箱舟に乗船した動物の分類から、地下世界の存在論、そして作曲のためのコンピュータ論や自動演奏機の発明など、現代人の頭脳が豆粒に感じるほど慧眼に満ちた書物らしい。
 これが割と日常風景で、世界さんが中学生らしい本や雑誌を読んでいるのは見たことがない。漫画も読まないらしい。それでも手塚治虫の『三つ目がとおる』は面白いと前に言っていたが、僕は『ブラックジャック』以外読んだことがない。ふみちゃんは『火の鳥』が一番のお気に入りで、英淋さんは『リボンの騎士』を下の弟に全巻読み聞かせたことがある、と言っていた。つまり、節電に限らず、好きな漫画ですら僕たちは話がまとまらないのだ。
 ところで、世界さんはすごい名前だが、性別は男である。三年生で、陸上部の県大会出場者で、一年中日焼けしている健康優良児で、高校は推薦入学を考えているらしい。この前、世界さんは校長直々の面接練習があったそうだが、面接後、校長先生に「君はいずれ日本を変える気がする。何も根拠はないが、高校へ送り出すのは勿体ないほどだ」と言われ、すごい太鼓判を押されたそうだ。世界さんはたぶんいつも通りだったと思うが、さすが三年生の風格――いや違う、絶対そんな評価は世界さんだけだろう。
 さて、ふみちゃんがトイレから戻ると、女子副会長の英淋さんも一緒だった。同時に紅茶の香りもする。給湯室で英淋さんがいれてきたようだ。ふみちゃんは電気が明るい生徒会室に入るなり、僕に向かってふくれっ面をした。
「あ、数井センパイ、電気つけましたね? もう、『待ってる間、瞑想しててください』って言ったはずです」
 ずっと一言もしゃべらず瞑想してたつもりだ。……すまない、僕の本気度が足りなかったのか。それとも僕がしたのは空想だったのか。言葉だけでは違いがわからない。
 英淋さんは、突然責められた僕を慰めるように手を振ってくる。僕はどう応えていいかわからず、手をもぞもぞと上げたり下げたり。ふみちゃんの視線を感じ、結局あまり振り返せず。で、英淋さんは世界さんの前に紅茶を置き、世界さんはまるで哲学者のようにカップを自然に口に運ぶ。その後、ようやく僕たちにも紅茶が配られた。
「あ。数井くん、朝の栄養に、と思ってバナナを一房持ってくるつもりだったんだけど、弟たちがすごく欲しがったから全部あげて来ちゃったの。ごめんね」
 英淋さんが一方的に困った感じに弁解した。朝食は家で食べて来たので問題ない。というか、四人で一房は多い。朝に紅茶とバナナというのは日本の食習慣ではないけれど、英淋さんは留学経験があり、学年は僕と一緒だが、年齢はひとつ上だ。ホームステイの影響かとても家族想いで、【弟の面倒見日本一】の称号を上げたいほどの優しさに満ち溢れている。英淋さんの弟たちは、それはとてもバナナを喜んだだろう。一房が全部なくなるほどに。
 ちなみに僕の朝は、目にいいブルーベリージャムが必須なのだが、それはここにいる誰も知らない。ちょっとだけ裸眼に憧れてるなんて、たとえ口が裂けても、フレームが折れて曲がって鎔かされても絶対に言わない。
「まあ……弟さんたちが欲しがったなら仕方ないですよね」
 すると世界さんが一瞬、本から顔を上げて、僕に告げた。
「数井、気持ちだけもらっておこう」
 確かに――僕は物事ばかりに目を向けて、気持ちを忘れてしまうことがある。英淋さんは朝から集まることを考え、バナナを用意してくれたのだ。見えない心遣いに世界さんは気づく。僕は、だから世界さんを尊敬していた。
 その横で、ふみちゃんは紅茶にたっぷりと溢れるくらいミルクを注いでいた。極度な猫舌なのだが、これはもうミルクティでなく紅茶風味のミルクだ。でも、英淋さんは穏やかな微笑みで楽しそうに見ていた。
 六月十九日。土曜日であるが、今日は全員制服だった。全校生徒参加の「伝統芸能鑑賞」の学校行事があるのだ。生徒会は本来なら何の役割もないのに、世界会長はその手伝いをむしろ積極的に申し出て、企画権を得た。
 生徒代表による企画権――これがいつから始まったか知らないけれど、開架中学の伝統らしい。
 世界さんが強くこだわった理由は明白だった。後でふみちゃんに教わったのだが、この日は【桜桃忌(おうとうき)】と呼ばれる、太宰治の命日なのだという。僕は詳しく知らないが、世界さんが慕う日本人のひとりであった。
「太宰は、芥川ほど生き様が美しくなかった。三島ほど死に際が美しくなかった」
 数ヶ月前、いきなり僕たちにこう語り、生徒会の会議を始めたのを思い出す。そこに文豪に詳しいふみちゃんが乗り、英淋さんが細かいことに気を回し、僕が会計の仕事を淡々とこなし、今日を迎えた。表情には出さないけれど、世界さんの気持ちも結構高ぶっているはずだ。
 世界さんがそろそろ時間だとばかりに、ずしりと厚い本を閉じて机に置いた。十七世紀に、まだ地下世界の存在を信じつつ、一方で先鋭的な作曲コンピュータを構想していた奇才が外国にはいた。当時、日本は江戸時代が始まった泰平の世で、国は大きな壁に完全に囲まれて、その中で安寧を極め、圧倒的武力を持つ外国船を拒み、入れなかった。今の貿易国の日本とはまったく違う。外から何も得ずとも、人々は戦のない質素な暮らしを営んでいた。日本は和の国だ、外を向かなければ、揉め事は起こらない。――と、世界さんが生徒会会議の中でつぶやいたこともあった気がするが、歴史好きのこの人が物事を考える尺度は、たった一歳しか違わないとは到底思えなかった。
「よし。集まったか、行くぞ」
 世界さんが学ランの上着を肩に引っかけた。いざ校門へ、外から来る主役を迎えに行くのだ。
「何か、世界さんて、ちょっとメロスみたいなところがありますよね」
 やることが決まったらすぐ腕まくりして走り出しそうな背中を見て、僕はそう感じた。太宰治の『走れメロス』だけは、文豪知らずの僕でも教科書で読んだことがある。
 ところが、すかさずふみちゃんが訂正を入れた。
「数井センパイ、違います。メロスは政治がわかりません」
「んっ……?」
 僕が聞き返すと、英淋さんがふみちゃんの頭を撫でつつ、「むしろ数井くんがメロスで、彼は王様……」とくすくす笑った。続きが気になったが、急に世界さんが振り向き、俺も政治はわからんし、走るときは走るぞ、と言った。
「太宰は、ある著で『愛することは、命がけだ』と記した。また別の著で、『表現のない真実なんてありゃしない』と記した。本音しか吐けない、人間臭い愚か者は愛される。受け入れることも、向かうことも、逃げることもできない、そこにいて闇雲に人を求めることしかできない、そういうやつは――誰でも得られる手頃な自由を失って逆に得た、それだけの価値があるのさ」
 いつも短い言葉で切り返す世界さんにしては、いつになく饒舌だった。本当に、今日のために企画した行事が、心から楽しみなのだと思う。初めて遊園地に来た子どものように、うずうずして仕方ないような笑顔を見せた。
「さあ、この国の芸能魂を、ちょっと見てみようじゃないか」

 雨は降らない予報だが、気持ちの晴れない曇り空。世界さんが体育館のカギを開けると、真ん中に、三百六十度の円形ステージが整然と構築されていた。
 朝の光が注ぎ込むもとに、全校生徒分のイスがすでに並べられている。これは各クラスの行事係に手伝ってもらったものだ。全体統括である世界さんのイメージに従って、完璧に設置されたステージである。
 世界さんは、ステージ中央にぽつんと一脚イスが置かれた場所を指差した。
「あれが――この舞台の真ん中だ。俺だって、校長だって、全校生徒に円形で囲まれたことはない」
 変な緊張が背筋に襲ってきた。僕がもしあんな場所で演奏しろと言われたら、全力で平謝りして辞退する。でも、これは今日お招きした和楽器演奏者のリクエストだった。なるべく生徒全員と近い距離でやりたいと求められたらしい。結果、世界さんは円形ステージを設計した。
 世界さんは何百脚と並んだパイプイスの海を眺める。
「これを七つの海とすれば、世界中から、何をするか見られている。まるでこの国だ。芸能鑑賞にふさわしいな」
 やっぱり、今日はいつになく世界さんがよくしゃべる。ふみちゃんが僕の袖をきゅっと引いた。
「……私、屋城センパイが何を表現したいのか、わかるような、わからないような気持ちです」
 ものすごく率直な声だった。うん、その通りだ。
「それは僕も。でも、あの人は、自分が何かを表現したいんじゃなくて、生徒全員で何かを共感したいんじゃないかな」
 英淋さんもふみちゃんのそばに立っていた。
「あ、数井くん、面白いね。私もそんなふうに思う」
「英淋センパイ、それって……感動みたいなことですか?」
「んーどうだろ。全部終わったら聞いてみよっか」
 それから、世界さんの号令で、僕たちは持ち場に分かれた。ふみちゃんと僕は今日の演奏者の案内だ。世界さんは機材の扱いに慣れているので、体育館の音響室に向かった。英淋さんは体育館のカーテンを開けに行った。
 各自散った後の体育館内は、英淋さんがカーテンを一枚開くごとに、少しずつ自然の明るさが増えていった。

 津軽三味線の奏者による弾き語りライブ。それが本日、太宰治の命日に世界さんが決めた演目だった。太宰は小説家なので三味線は弾けないが、故郷が青森の津軽である、とふみちゃんの話を聞きながら、校舎裏を歩いた。
 津軽三味線にもともと唄はなかったそうだが、今はあるらしい。なぜ唄がなかったと言うと、津軽は風が強く吹くため、唄声が聴こえないのだという。そんな理由でなかったのは驚きだが、ふみちゃんが伝統芸能について間違ったことを話すわけもない。
 駐車場に着いて待っていると、間もなく一台の車が来た。車は、日本車じゃなくて外車のように見えた。ライオンが二本足で立った銀色のエンブレムが輝いている。
 サングラスをかけた和服の女性が下りてきた。黄色を深く濃くしたような色の着物だ。髪は短めでパーマをあてている。写真は事前に見ていたが、会うのはもちろん初めてだった。聞いていた年齢よりも若い印象を受けた。
「あなたたち、ガイドさん?」
 声も何となく若くて弾んでいた。ただ、サングラスはまだ外さない。この曇り空で必要なのだろうか。ちなみに、女性の名前は沙弥(さや)さんと聞いていた。
「あ、はい。生徒会の者です。沙弥さんでしょうか。今日はありがとうございます。体育館までご案内します」
 まあっ、という表情で口に手を当てる。
「ちゃんとお迎えがあるなんて、よくできた学校さんね」
 英淋さんの気配りのおかげだが、迎えに来ただけで誉められ過ぎな気もする。沙弥さんは後部座席から大きな黒い三味線のケースを取り出して、ゆっくり歩いて来た。
「――ん? 附属小もあったのかしら?」
 わかりにくいが、視線の先は僕でなくふみちゃんだった。ふみちゃんは首を横に振る。
「あの……沙弥さん、違います。私も生徒会のガイドです」
 まあっ、という表情でまた口に手を当てた。眉をひそめサングラスをやっと外し、ふみちゃんを凝視する。
「それはごめんなさいね。ほんと、ごめんなさいね」
 沙弥さんはふふふっと軽やかに笑い、どこからか取り出したアメ玉の包みをふみちゃんの手に握らせ、サングラスを襟元にしまった。世界さんがご指名で招いたほどなので、ある程度は覚悟していたが、早くも変わった人である。

 体育館の控室では、僕たちが着くタイミングを見計らったように、英淋さんが紅茶とお菓子を用意していた。世界さんも現れたが、短く挨拶した後、小さいふみちゃんをお手伝いとして連れて、体育館のほうへ戻って行った。
 沙弥さんはイスに腰掛け、僕と英淋さんは、テーブルを囲む形で座った。
 ケースから出された三味線を見て大きく反応したのは英淋さんだ。ギターなどの弦楽器とは違い、四角い胴に長い首がついた形を面白がった。僕も近くで現物を眺めた。どういう構造で音が出るのか、そればかり気になっていると、英淋さんが部屋中に響くほどの奇声を上げた。
「ええっ?! 三味線って犬で出来てるんですか?」
「うん、そうよ。津軽のは、猫じゃなくて犬の皮を張ってあるの」
 三味線は、胴に猫の皮を張ってあると聞いたことはある。英淋さんは、そもそも和楽器に詳しくないので、それ自体も知らなかったようだ。三味線の持ち主から本当に動物の皮だと聞くと、急に触ってみたくなった。
 が、何だか恐いので、やっぱり触らない。ちょっと英淋さんが触りたそうに手を伸ばすのを、僕は自分の未練も含めて小声で注意した。
 とにかく、英淋さんは、犬の皮と聞いて猛烈にテンションが上がっていた。そんなに動物の皮が好きだったのか。
「それって、北国は犬が多いからですか? 秋田犬とか、シベリア犬とか」
 たぶんその理屈は違うと、素人の僕でもわかる。
 沙弥さんもそれは関係ないと答えた。さらに、一匹の犬から四枚の皮が取れるとか、近年は国産でなく中国や台湾から輸入しているものが多いとか、合成皮を使うこともあるがそれはあくまで稽古用で、音質が劣るため、本番用はやはり犬の皮を使うとか、僕たちに教えてくれた。
 そう言えば、実は今日のプログラムにも、津軽の三味線には犬の皮が使われる、と書いてあったのだ。プログラムは書記のふみちゃんが全部作ったものだ。だから一字一句正確に調べられていて、間違いはない。
「沙弥さんは、どうして三味線を始めたんですか?」
 英淋さんはさらに興味津々だ。沙弥さんは三味線を置き、ぬるくなったお茶を口に運ぶ。この人も猫舌なのかな。
「まあ、譲り受けたのよ、名人の祖父からね」
 沙弥さんは、故郷の青森に葉蔵(ようぞう)というおじいさんがいて、津軽三味線の名人であるそうだ。観光協会が行う津軽三味線演奏会でも必ず呼ばれるほどらしい。
「譲り受けたって、もう葉蔵さんは三味線を弾かないんですか……?」
 英淋さんが少し心配げに尋ねると、沙弥さんは明るく笑い飛ばした。
「葉蔵くん、まだ死んでないわよ。つつましく隠居中。なんか若い女性の介護士さんと仲良くなって平和な暮らしみたいよ。写メが来るもの、ほら」
 と言って見せられた携帯の写真は、ひどくやせ細ったおじいさんが縁側で若い女性に寄りかかり甘えている感じの写真だった。おじいさんは、沙弥さんと目元が似ている。それより、「葉蔵くん」って自分のおじいさんをくん付けする沙弥さんはやはり変わっている。
「おじいさん、元気そうですね」
 僕が言うと、沙弥さんは首を横に振った。僕は何かと違うらしい。
「葉蔵くん、心臓が弱くなってね、手が痺れるようになって、もう三味線は弾けないんだ。一度、心臓発作があって心臓が止まったのよ。一応、救命士さんの電気ショックで一命は取り留めたんだけど、手は動かなくなっちゃった。ほんと、いい腕だったのに……残念」
 けれど、残念そうなふうは話し方に見えないのは、沙弥さんが明るい雰囲気だからだろうか。英淋さんは、もう少し突っ込んで家族のことを聞いた。
「お父さんも三味線をされてるんですか?」
 不意に、部屋の空気が変わった。
「父は――」と、沙弥さんは父と呼んだ。「青森の原子力発電所にずっと勤めててね。三味線はやってるんだけど、昼間は仕事で稽古できないし、少年時代からロックに憧れてたみたいで、発電仲間とエレキ三味線をやり始めたのよ。そしたら、葉蔵くんから何か嫌われちゃって」
 口元を押さえてクスクス笑う。原子力発電所って、何で沙弥さんはお父さんの勤め先をハッキリ言ったんだろうか。会社でもいいと思うのに。それに『発電仲間』って、たぶん発電所勤めの人たちのことだと思うけど、何か意味があるのか、気になって仕方ない。
 聞き慣れない『エレキ三味線』について英淋さんが聞くと、沙弥さんは簡単に説明してくれた。要するに三味線に電気コードを差してアンプにつないで音を出すらしい。ギターみたいに音色も変えられるし、ロックな乗りの曲もできるし、演奏の幅が広がるんだそうだ。
 でも、あまり沙弥さん自身も、お父さんのエレキ三味線は好きでないような口振りだった。葉蔵さんから三味線を譲り受けたほどだから、おじいさんの考えに近い人なんだろうと思う。それより、どうして葉蔵さんはエレキ三味線が嫌いだったのだろうか。
 考えるうち、いつの間にか英淋さんは三味線を持たせてもらっていた。胴の犬皮に触りたくて仕方ない感じだ。
「沙弥さんは、三味線をお仕事にしてるんですか?」
「ううん、これは副業。本業は、数学の研究者よ」
 そこで僕はピクッと反応した。英淋さんが話しかける間は黙っていたけれど、数学の研究というのは何だろう。三味線の話はお腹いっぱいなので、僕はそれが聞きたい。
「数学の研究って何をするんですか?」
「私の場合、音楽から入って、数学に出てしまった感じ」
 ふみちゃん並みに雑な説明だったが、もう少し詳しく聞くと、僕が知らなかったことがたくさんあった。
 まず、音楽は数学で出来ている、と。
 もちろん、音楽は、数学者が生まれる遥か太古より存在した。人がいれば歌がある。石を叩けば音が鳴る。管を吹けば音が鳴る。やがて、再現性のある音を出せる打楽器、管楽器、弦楽器、鍵盤などの原型が生まれたが、音楽を紙に記録するものは、もっと後の時代に生まれたそうだ。
 つまり、いわゆるドレミの「音階」を発見したのは、数学者のピタゴラスであったと言う。
 沙弥さんは日本で音楽の成り立ちを学んだ後、『音楽は数学で出来ている』という事実に感動し、フランスの大学に、数学をより深く学ぶために留学したそうだ。
 元をたどると、音階とは、弦の長さを半分にして弾くとオクターブが上がることを数学者・ピタゴラスが発見し、音楽と数学は宇宙の秩序に通じる、と説いたことに始まるらしい。もうこのあたりから僕も英淋さんも追いつけない感じになったが、沙弥さんは嬉々として語り続けた。
 音楽とは何か。その問いを求め、沙弥さんがフランスで学んだのは、中世ヨーロッパで学術を修める者の一般教養として体系化された『自由七科』において、音楽は数学的な学問だったことだ。日本の教育で、数学は理数系の論理、音楽は文化系の感性と分けているが、本来分離されるべきものではない、と実体験したのだという。
「数学者はね――教室でエラそうに数学を教える人じゃなく、数学を使って未知の秘密を解く人を言うのよ」
 沙弥さんは、英淋さんの三味線の持ち方を直す。
 もう完全に三味線の話でなかったが、数学を使う、という今まで一度も聞いたことがない言葉が、なぜか僕の胸に深く響いた。確かに数学は教科書に公式が書いてあり、それを使って問題を解く。けれども、それは『数学を使う』という意味ではない気がした。問題を解くことと、数学を使って何かを見つけることは違うのかもしれない。
 ただ、僕にはまだその違いが何なのか、そもそも明確に違うものなのか、よくわからなかった。
 一方、英淋さんは留学経験があるので、フランス留学した大学生活を興味津々に聞いていた。それから、一区切りして、数学を研究する沙弥さんが、なぜ伝統楽器を受け継いでいるかを尋ねた。
 僕も知りたくてまた耳を傾ける。さっき「音楽は数学で出来ている」は頷いたものの、三味線という和楽器と数学のつながりがよく理解できなかったのだ。
 沙弥さんは、三味線を習いに来た子どもを諭すような笑顔を見せた。
「数学者は、世界の片隅で、世界の構造を解明することがすべて。技術者のようには創造しない。私はこうして語る、口がうまいだけ。だから、三味線が一番似合うの」
 何も創造しない、口がうまいだけ。
 世界の片隅で、世界の構造を解明することがすべて――。
 僕は、何かを創りたいと考えたことはないけれど、何かわからないことを解き明かしたいと思うことはある。世界さんはたぶん何かを創りたい人だろう。英淋さんもそれに協力する人な気がする。ふみちゃんも本を創るかもしれない。あるいはもっと壮大に、もう手に入らない古書だけを集めた前代未聞の図書館を創ってしまうかもしれない。
 そんなみんなと違う、世の中の出来事を自分の物差しで理解したい理屈屋の僕にとって、沙弥さんは初めて出会った〝価値観がとても近い人〟であるような気がした。
「沙弥さんは数学を研究して、どんなことをしたいんですか?」
 僕は唐突に聞いたが、沙弥さんは軽やかに受け止めた。
「実は、とっても好きなキャラクターがいてね。フランスじゃなくてスウェーデンの話なんだけど。ねっ、二人とも『ムーミン谷』って知ってる?」
 僕は、ムーミンの絵は頭にすぐ浮かんだが、物語は知らなかった。一方、英淋さんは家に絵本があり、お母さんに何度も読み聞かせてもらったそうだ。今はそれを自分が小さい弟にしてあげることもあると言う。つまり、英淋さんはムーミン谷が大好きだった。雪深い冬を越え、イカダで見知らぬ島へ渡るムーミンたちを嬉しそうに語る。英淋さんは外国とか渡航がやっぱり好きなのだ。
 沙弥さんは英淋さんの食いつきを喜ぶと、手元にあった今日のプログラムの裏紙に絵を描きはじめた。
「ムーミン谷にね、ハンモックに揺られているジャコウネズミという毛むくじゃらの哲学者がいるのよ」
 絵は、ハンモックに乗って足を組んでくつろぐ、黒い毛虫みたいな動物だった。これがムーミン谷の洞窟に住む哲学者だと言う。英淋さんは「うんうん」と大きく頷いた。
「何もしないけど、一日中、ずっと何かを考えている――そういう生き方が、私の理想」
 と語る。
「会計くんだっけ。あなたの理想は何?」
 えっ。僕は困った。理想なんて中学生には重い言葉だ。他の誰かは持っていても、少なくとも僕にはない。
「……まだわかりません」
「あなたは――哲学者の助手でもしてそうね」
 言われると、何だか自分でもそんな感じがした。助手という響きは妙にしっくり来る。ところが、英淋さんが首を傾げ、んーという表情をした。
「沙弥さん、ちょこっと違います。数井くんにピッタリなのは、マネージャーですよ」
 かなり予想外の答えだったが、言葉が出なかった。一瞬なぜかスッと納得してしまい、違うとも感じなかったのだ。そんな僕の様子を不思議そうに沙弥さんは眺めながら、英淋さんに聞き返した。
「マネージャー? 誰の?」
「優秀な後輩です。後でゆっくり紹介しますね!」
 英淋さんが言ったのは、たぶんここにいない、ふみちゃんのことだと察した。

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