【休職】自身が受容される環境に身を置く意味
こんばんは。
またまた投稿が久しくなってしまった。
というのも、近頃は何かと活動する時間が長く、ぼーっとして内省することはあっても筆を進めることはなかったので。
でも、なんだかんだこうして筆を進めている時間は自分にとって心の栄養であって絶対的に必要なんだなと早くも感じている。
さて、今回はスヌーピーの言葉から感じることを綴ろうと思う。
先日、高校時代の友人とご飯を食べていたのだが、その時の話題でこの言葉を思い出すこととなった。
高校時代に所属していた部活動のメンバーで集まる機会が年に数回あり、僕も誘われているのだが一度しか顔を出したことはない。
部活動のメンバーとご飯に行った友人とは繋がっており、友人から君も集まりに参加したらいいのに、楽しいのにと促されたが、全く気が進まない自分に気づいた。
振り返ると部活動を共にしていた3年間もあのメンバーとは過ごしにくさを感じていたなぁと。
彼ら、彼女らが楽しい、嬉しいと喜びを感じることと僕のそれとがかけ離れており、そのように感じていた。
そんな事実があるから今も集まりには参加しないのだよとその友人に言うも、友人もどこか釈然としない様子だった。
とまぁ、こんなように話をしており、この話自体に決着はつかなくてよいのだが、そこから改めて考えることはあった。
それがスヌーピーの言葉なのね。
これは人間関係においてお互いに感じていてよいことだと思うの。
なかなか周りに馴染めなかったら無理に馴染む必要もなくて。
無理に取り繕って仲良く演じることもしなくてよくて。
ただ、ありのままの自分であっても、その自分を好いてくれる環境は存在するわけで。
だからこそ、好いてもらえる人や環境を大切に思い、また自分もそんな周りを好いていて。
僕は今までとにかく取り繕って過ごしていたのね。
それでどうにかやれていたけれど、心の奥底では苦しみ、悲しみ、かなり傷ついていたみたい。
こうでなきゃいけない、そうあるべき、そんな姿を追い求めて、自分自身なんて見向きもせずにいたの。
でも、今は自分の内なる声に耳を澄ませて、自然にらしく過ごせている感覚の時間が増えているみたい。
そんな日々はすごくすごく心地よくて、自分の生を感じられるの。
だから、スヌーピーの言葉にあるように僕は好いて好かれる人や環境を大切にすることで忙しなくいようと思う。
きっとこのnoteも僕にとってはそんな心地よく感じられる環境なんだと思う。
僕の綴る言葉を心地よく感じられる人がいるのなら、それ以上の幸せってないのだよね。
今一度、ここまで読んでくれている人には感謝したい。
最後までありがとう。
ではまた。
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