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失業保険を貰う話と、仕事に求めるものについて(ミニコラム)

長く書こうと思うと、うまく書けないから短く書こうと意識する。
上手く書こうと思うと、欲が出るから素直に書こうと意識する。

今日は休みだ。
昨日はだいぶ慣れてきた夜勤業務を行なって、実家に帰ってきた。
昨日は父は車でお米を持ってきてくれて、そのまま車で実家に移動した。
車に乗らない生活をしていると、自分の足以外で移動をしているという感覚がすごく不思議だ。
有り体に言えば、少し酔いかけた 笑

俺はかつてのパフォーマンスを取り戻そうとしていた。
仕事をする。俺は誰も意思疎通が取れなかった人と雑談をするのだ。
教員の時もそうだ、俺がいれば、俺だけの俺たちだけのそういう信頼関係っていうのが確かにあったはずだ。
それは場所が違えど、年齢が違えど、大した問題ではなかったということか。

俺が教員の時、生徒に(不遜だが)一番信頼されていた。
その要因は年齢が近かったり、生徒と趣味が近かったことなのだろうかと思っていた。
もちろん、それらも要因の一つだろうけど。
今は僕の3倍以上生きている人と関わっているのだけれども、それでも俺は信頼してもらっている。
俺は一体、何をしたのだろうか?
俺はただ、もう一度欲しいと思っていた。

去年の6月、俺は人生で初めてハローワークに行った。
失業している人というのはこんなにも多く、世間というのは無職に冷たいのかもしれないと思った。
メンタルがボロボロでも根は実直なのかもしれない。
俺は失業手当を貰う要件に「転職の意思があること」と書いてあり、それを随分と気にして失業手当の申請ができなかった。
理由はシンプルで、俺は一日8時間も働ける気がしなかったし、人と話せる気などしなかったのだ。
そして、何よりも「働きたくない、社会が怖い」だ。

久々に地下鉄に乗って、街中のハローワークに行った。
俺がどうなろうとも、街の風景は大して変わらないんだなと思った。
俺はぶくぶく太った体と、不明瞭な意識で染めた髪色と整いもしない髪型で6月1日、ハローワークに失業手当の申請をしに行った。
鞄にはルドガーブレグマンの「HUMAN KIND」を入れていた。

俺は活字の文章が全然読めなくなったと嘆いていたが、丁度去年の5月ぐらいから何か読める本はないのかと色々試していた。
教員の時にひたすら購入していた本の山から、適当に本を引っ張り出して、読めるか読めないかを判断していた。
倫理学の本も、マルクスガブリエルも、存在論も、ロゴセラピーも読めやしなかったが(今でも読めるかは怪しんだけれども)、ブレグマンは読めたし、面白いなと思った。
俺は太陽の光が照りつける中、散歩を続けた。随分日焼けもしていった。
1時間ぐらい歩いて、どこか良さけなベンチはないかと思っていた。

本を読むと、自動思考が囁いてくる。
ブレグマンの、マキャベリの君主論の箇所を読んでいると、昔の仕事がフラッシュバックしてくる。
自責の念と、不安とどうしようもなさが付き纏ってくる。
これが嫌だから本が読めないのだ。
それでも、ブレグマンが人間は本来「善い」ものだ、と論じてくる。
「とにかく、人間を信じろ」こう言われている気分だった。

俺が欲しかったものとは何か。
まず念頭に浮かんでいたのは、かつてのような人への優しさを取り戻したかった。
訓練された技量と、蓄えられた知識、そして共感能力。
かつて、俺が不登校経験者、特性のある方に、社会から爪弾きにされた人たちに、必死にやり続けていたことを、もう一度取り戻したかった。
俺は神になんかなれやしないし、誰かを救うことなんかできやしない。
そんなことは分かっていたが、俺はとにかく優しくなりたかった。
俺は周囲に翻弄されない確固たる自己と精神を保持しながら、周囲に愛を配って生きていきたいのだ。

俺は今、認知症介護の仕事をしている。
なぜ、この仕事をしているかといえば、この仕事をしていると優しくなれるからだ。
むしろ、それ以外を望んでいない。
同僚がクソほど仕事をしないとか、レベルが低すぎるとか、そんなことはどうでもいいんだ。
周囲の環境がなんだ、俺には全く関係がない。
俺には全く関係がない。

とにかく俺は自由で優しく生きていきたいだけなんだ

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