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夜勤と感情のコントロールについて(ミニコラム)

今日は夜勤明けだった。転職をし、再び労働を再開してから約2か月半が経った。

僕は常々、僕の身に起こることすべてはリハビリであると、考えるようにしている。
健康とは、完全な定義があるわけではなく、どの時間・どの状態においても何かの途上なのだ。

夜勤という仕事は、私に色々なことを確認させてくれた。
睡眠不足が心の動きに大きく影響すること、平常心を失うことが敗北であること、僕は疲れすぎると元気になって躁的になること。
この私の躁的な性質が、ありとあらゆる無理をこなし、健康を害するに至るのだ。
自己の体と心に鈍いとは罪である。

そして、夜勤は私に一つのことを教えてくれた。怒りとは自分との関係であるということだ。
私は怒りを覚えると、セネカの「怒りについて」を紹介する動画を繰り返し聴いている。
ストア派の人々は、私に知恵をくれる。自分が果たすべき義務以上のことに、煩わられるべきではないことに。
つまり、自分にできることはとても少ない。自分の呼吸、自分の心を観察し、それに付き合うほかにないのだ。

過去において怒りは僕を平常心から引き離し、誠実さと寛容さを失わせた。
それによって、僕を慕った人は、困惑し、徐々に離れていった。
セネカが指摘するように、怒りの原因ではなく、怒りそのものが、自分の幸福を破壊するのだ。
つまり、自分がだれかを征服したいという欲求に飲まれてはいけないということだ。

怒りに翻弄されると、問題なのはその正当性ではなくなる。
優しい人が怒ると怖いとは一般的によく言われるが、それはまさに私のことだと思った。
つまり、優しい人というのは怒りという情念に不慣れで、練習が足らないのだ。
そのため、怒りという情念にとらわれ、翻弄され、孤独になる。
僕にとって怒りは避けたい情念だが、襲い掛かってくるものはしょうがない。

僕は常々、僕を怒らせるような人は、大いに反省をしてほしいと心から思っている。
私を怒らせるのは、他人の振る舞いだ。私はその振る舞いを反省してほしいと願う。
しかし、その振る舞いの問題は、他者の問題なのだ。
私は他者に到達できないし、他者の主体性であることはできない。
つまり、僕はアドラー心理学の文脈で使われる「課題の分離」という概念をこよなく愛し、そして使っている。
私の身に降りかかる怒りという情念は私の課題であって、私を苛立させる振る舞いをする他者の、その振る舞いは他者の物なのだ。

自分と未来は変えられるが、他者と過去は変えることができない。
これはカウンセリングの文脈でよく愛用される文言だ。
つまり、いろいろな知恵が、私のコントロールの及ばないものに拘ってはいけないことを囁いてくれる。
もっとも、「私を苛立させる振る舞い」などというのは、スキーマ的だし、過去に由るものである。

私は「年だけ取って無駄に偉そうな振る舞いをする人間」がとても嫌いなのだが、一方そういった人でも嫌いでないと思う人もいる。これは事実だ。
どこまでいっても自己との問題であって、自己は自己から抜け出せない。
怒りにとらわれるとは、過去の自分にとらわれるということだ。

僕は親父が嫌いだった。中学生の頃、親父は僕にいろんな教説を呪詛のように教えてくれた。
今思えば、コーチング的な側面においては、不適切なアプローチも多々あったと思える。
しかし、これは結局親も人間で、愛するということは技術で、人を導くことも技術が必要なのだ。

正しさだけでは人は動かせないのだ。
必要なのは、愛するということと、共感をするということと、受容と許しを与えるということだ。その上に情熱と行動が積みかさなるのだ。
当然、中学生のわたしはそのようには考える術を持たない。技術がないとは不幸なことだ。
僕は社会とのかかわりを立ち、傷心的な自己に留まり続けることを選択したようだ。
しかし、親もやはり人間なのだ。分からないことには戸惑うし、困るのだ。母も人間で親父も人間だった。
その出来事は僕に親という存在、親からの愛をというものを学ばせるのには十分すぎる出来事だった。

僕はエディプスコンプレックスを抱え続けて、自己を否定するものに親父の幻影を見ているのだろうか。威圧的なもの、指示的なもの、独断的なものにおいて。
社会人になっても、僕は口だけで何もしない大人が未だに嫌いだし、年だけ取って偉そうな大人に過剰に反応してしまう。
もちろんこれは不遜で、その人においても物事の一面でしかない。
僕は怒りとは自己紹介であると思う。

もちろん、世の中を照らせば、人徳や優れた人間性、確固たる信念を持つ「大人」の姿を見つけることができた。
僕にとってしょうもない大人は山ほどいるが、それと同じぐらい知恵と態度を備えた大人にも多く出会えた。

そういった人格ある尊敬する大人との出会いに感謝を。
また、自分の内面を鑑みさせてくれるしょうもない大人たちに憐憫の情を。

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