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趣味を軽視しないこと(ミニコラム)

昨日は大学の友人と紙をしばいた。(カードゲームをすることをこういう風に表現するオタク特有のもの)
久々に会いたいなという感覚があって数週間前から予定だけは合わせておいた。
まあ、何をするかは全然決めずにだが。
基本的に数週間前からやること決めてるとイマイチになるケースもあるので、数日前ぐらいから詰めるのが、この友人とはちょうどいい。
結論としては、カドショ(カードショップのこと。カードオタク特有の表現)でカードゲームをして、オタクビル(アニメイトとからしんばんとかメロンブックスとかが鎮座しているビルの呼称)を徘徊した。

まず、友人とは3つのカードゲームをした。
1つ目が遊戯王だ。その中でも「04環境」というローカルルールが昔からお気に入りだ。
これは2004年までに発売されたカードを使って遊ぶゲームで、お互いに同じカード・デッキを使って遊ぶ。
詳細は調べてもらえばわかると思うが、これが非常に面白い。
いわゆる遊戯王はソリティアと揶揄されるようなゲーム展開になりがちだ。
まあ、もちろんその中にも応酬はあるが、空中戦かつ高速化しているのが現状だ。
それに比べて04環境は、チェスや将棋のような丁寧さもあり、時には麻雀のような上振れが存在するアブストラクトゲームだ。
いわゆる「遊戯王のゲームらしさ」というのが存分に楽しめるし、そういうプレイスキルが発揮できる。
最近はカードゲームをやっていなかったので、事前にはわくわくした気持ちにはならなかったが、やはり「強欲な壺」をデッキトップから叩きつけるのはクソほど楽しい。
みんなも「強欲で謙虚な壺」を使ってハイテンションになるアメリカ人を見習うべきだ。
ちなみに「強欲で謙虚な壺 海外」とかで調べれば似たような動画が出てくるから、もしよければ。

2つ目は「バトルライン」というカードゲームだ。
これはいわゆるTCGではなくて、カードタイプのボドゲ(ボードゲームのこと。オタク特有の表現)だ。
まず、TCG以外をカドショでやると注意されそうな気も凄くしているが、動物園(カドショやゲーセンでぎゃあぎゃあと騒ぐことの意。ガンダム勢特有の表現)みたいに騒いでいるわけでもないし、フリースペースの利用料も払っているし、注意されるまでは無関心を貫こうと自己弁護をする。
このゲームも昔から愛用している。これもアブストラクトゲームで、ポーカーと麻雀を合わせたようなゲーム性だ。
この作品(特定のボドゲのことは、作品と僕は呼称する)は、「放課後さいころ俱楽部」という漫画で知った。
まあ、友人とはお互いにこういう完全情報ゲームが好きだということだ。
こういったゲームをすると、普段は使わない脳が刺激されるような気がして、いつもとは違う疲労感がある。
僕はカードゲームの面白さの本質の一部は、「何を選択するか」「状況にどのように対応するか」「どのようなゲームメイクをするか」という点にあるように思える。
こういった思考練習の積み重ねを、カードゲームを通じて行ったこと。
これは僕の考え方、論理的に考えるということの練習に間違いなくなっているし、下地だ。

3つ目は「マジックザギャザリング」の統率者(EDH)戦だ。
mtg(マジックザギャザリングの略称)は、大学生の頃に友人と始めた。始めたときはテーロスやタルキールあたりだったかと思う。
それまでにも、「デュエルマスターズ」「遊戯王」と触れてきて、若干ながら競技シーンめいたものにも触れた。
そんなmtgの中でもEDHというのは、競技シーンから離れて、わりとどっぷりするようなカテゴリーだ。
昔は毎週のように会ってカードゲームをしていたが、社会人になってからは(多くて)三か月に1回にぐらいになってしまった。
そうなると、いわゆる競技シーンにはついていけなくなるし、お金を費やしても寂しいし、かといって競技シーンだけがやりたいわけでもない。
僕は競技シーンをするなら、デジタルカードゲーム(DCG)が最適だと思っているし、そうしている。
やはり、カードゲームはメタの把握(何が一番強いかとか、何が流行しているかを指すカードオタクの語彙)が必須だし、そうなるとSNSでひたすら情報を集めやすいDCGに親和性がある。また、カードの揃えやすさ、相場の変わりにくさも魅力だ。
それぐらいカードオタクをしていると、mtgはEDHとかいう概念が最適解になる。
これはmtgの中でもパーティゲーム的な側面が強い。
それぞれデッキという束を作るのだが、この作り方にも独特のルールがある。通常は60枚だが、100枚。同じカードは1枚しか入れられないなど。
このEDHの面白さはいくつかあるが、まずは「デッキの自由度」が広いことだ。

mtgはいわゆるTCGの中で一番長い歴史を持つ。
発売は1993年で、もうすぐ30年になる。同じ商品がここまで愛され続けること、これはすごいことだ。
そんな歴史の中では、カードの種類も膨大になる。その膨大のカードを自由に使えるのが、このルールのいいところだ。(クソオタクのように注釈を入れると、mtgではルールによって使えるカードの種類が制限されるのが一般的だ)

そして、「ゲームの再現性に乏しいこと」「2人以上の多人数で遊べること」だ。
ゲームの再現性と言われても、カードオタク以外はあまりイメージできないかもしれないが、いわゆる競技シーンのカードゲームは再現性の担保が重視される。
つまり、いつでも、何回でも、一番強い戦略を実現できるのが価値がある。
これは大会であれば、一日に10戦以上行うことは当たり前だし、その中でいかに出力のブレを減らすかが大切だ。これはどんなカードゲームでも共通していると思う。
麻雀で例えるならば、いつでも楽に3900点、満貫が欲しいし、少し上振れたら(運がいいことの例え。カードオタク特有の表現)跳満に行ってほしい。
つまり、出力とは、何点まで出せますかということだ。
安定していても出力の上限が3900点では戦えないということだし、出力が倍満・役満あっても安定しないと話にならないということだ。
そのため、いわゆる強いデッキとは、かなりの確率で満貫・跳満を当たり前に出力できるデッキということだ。
これがいわゆる「再現性の担保」というものだ。
だから、デッキを構築するときは、確率の話に触れざるを得ない。
僕が初めて確率を計算したのも、数学の教科書ではなくて、初動カード(初めに来てほしいカードのこと)が何パーセントで来るかをネットの情報を頼りに計算した。
まあ、だから競技シーンをやっているとデッキの構築はこういうことばかり考えるし、「デッキを作る」ということは単に購入するだけではなくて、ルールには表れない、言語化されにくいものをひたすら形にしていく練習になる。
こんだけカードオタクをしていると、デッキ構築についてもある程度は言語化できるし、mtgのプロプレーヤーというのはこういったものに長けている印象がある。

少々話は逸れたが、EDHというルールは100枚すべてが違うカードかつ1枚しかないので、再現性も担保も何もない。
麻雀で例えるならば、全ての牌が一枚しかない、かつ通常よりも牌数が多いということだ。
だからこそ、何回でも遊んでいられるし、面白いということだ。これはパーティゲーム的な側面が強い。
クソ語りオタクの権化と化していますが、これぐらい語れるぐらいには面白いゲームなのだ。

さて、カドショを出た後は、オタクビルを徘徊して、大学時代によく行っていた飲食店に行った。
社会人になってから、オタク的なことを触れてこなかったのだが、これは本当に触れていないだけなんだなと思った。
一人で回るオタクビルは少し寂しいが、友人と回れば、「こんな作品あったよな」という話ができる。
やはり、思うのだが、趣味であったり何かの価値観を無理に削ぎ落す必要なんてないんじゃないだろうか。
なんか一般では「卒業」だとか、「子供っぽい」だから、ニヒルに本当にただニヒルに切り捨てる人もいるだろう。
むしろ、僕からすれば、そのニヒルさはいわゆる中二病的な延長戦で、何かの背伸びでしかないようにも思える。
中学校の時にブラックコーヒーに、ギターに、何かそういったものに漠然と憧れたように。
大人になってもいくつになっても、それが腕時計だとか、車だとか、オシャレだったり、地位名声だったり、そういった形のある、わかりやすい、何かに置き換わっているだけではないのか。
もちろん、(言わなくても分かると思うけど)腕時計を買うのが悪いといっているわけではない。
でも、それを買う理由が、もし「誰かから承認されたい」「すごいと思われたい」という理由だったら、少しだけ考えてみてもいいんじゃないかしら…。

もちろん、自分の中での流行廃りはある。それでも、どこかポケットにしまっておくように、放っておいていいんじゃないか。
必要であれば宝箱にしまっておきたい。ゴミ箱に捨ててしまっては寂しい。
バンプの曲でもあったが、ぜひ不燃ごみということで捨てられないでいてほしい。分別奮闘記だ。
君がゴミだと思って捨てた風船は、かつてキラキラしていてワクワクするものだったんだ。
自分がゴミだと思っているものを、かつて捨てたものを、すでに忘れられたものを、たまには見てほしい。
その中に何か光るものが、あの頃の何かがあるのかもしれない。
そして、いつでもそんなゴミ袋に、アクセスできるように、もしかしたら発掘できるように、手がかりだけは残しておく工夫はしておこう…。


https://youtu.be/lp2GWbma9ng



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