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小説詩集「レモン爆弾」

私は母さんの鏡台の前で映しだされる自分を見ていた。顔がいびつだった。表情を造ってみると、案外他人のような別ものにも見えた。
「あの子はクラスで一番ね。美人だもの」
がやがやした教室で耳にした声を思い出した。
「あの子ってさ、百点しかとったことないんだって。お金持ちだしね」
それらは騒音の中で聞いた雑音だった。それなのにあまりにも自分を通過していくので、私は心の中に抽出されるその胆汁を苦々しく飲み込みつづけた。

母さんが昨日揺れるバスの中で、乗り合わせた知り合いにこんな風に言っていた。
「そうね少しばかり大きくなったかしら。ただねこの子はとてものろまなの。お兄ちゃんは機転がきく子なんだけどね」
こんなふうにわが子の個性を並べないと母の心は安定しないのだった。
もしかしたら、兄さんのことを話したいだけで私の話題は必要なかったのかもしれない。
それは、私が算数は苦手だけれど社会は好きだよとか、駆けっこは遅くて、字も下手で、作文一つ書けないけれど、頭の中でいろんなことを考えているよ、って言うのと似ているのかもしれない。

たまに遊びに来るおばさんは、若くてきれいな人で、仕事や都会の話を母さんによくした。私はその話に聞き入っていたのだけれど、
「あら、あなたって変わった子ね、じっとして。そのお菓子たべてもいいけど、食べ過ぎないでねお兄ちゃんのご褒美に買ってきたのだから」
と言う。母さんの恥じている私は、母さんのゆがんだ眼球のせいなんかじゃなく、誰の目にも同じく映っているんだ。それが真実の私なんだ、と知って後ずさる。

このおばさんは子供の頃、私の祖母に、あんたは丑年だから牛のようにとろいんだって言われたことを今でも恨んでいる。
兄さんは今日、起立して先生の質問に答えていた私を、教室のガラス越しに見かけたものだから、私が立たされていたのだと確信している。
兄さんは私にやさしくて、いつでも助けてやると言うけれど、こんな時、広げたトランプが風で一斉に翻るように、全部うそなんだと思える。翻ったカードがもとに戻るのか私には分からない。

鏡の前でじっと自分の周りを眺めまわす。私の後ろには誰もいない。ただ淀んだ空気が蒸し暑い蒸気にゆがんでいるだけ。でも向こう側はなめらかでゼリーのように澄んでいる。
私はその奥行きに吸い込まれて一歩踏み出す。
膝からぬめりと入りこみ、鼻先が、目が、肩がぬめぬめと入っていく。最後に羽のように伸ばした腕が吸い込まれる。

今日私はこちらの住人となった。私のことを困ったように恥ずかしがるあの人はもう私の母さんではない。牛のようにのろまなおばさんは、祖母が正しかったことも、祖母が愚かだったことも生きているうちに気付くことはないんだ。やさしかった兄さんは、おばさんの菓子をたんと食べて母さんの餌食となるがいい。
こちらから見ていると、母さんと兄さんとおばさんが、私を指さしながら心配している。心配の種はみるみる膨らんで、彼らの時間を大きく蝕みながら幾重にもひらく。

私はもう作文を書けなくてもへっちゃらになった。ボールをまわせと怒鳴りつける白いラインの向こうに友がいても平気になった。消しゴムが転がって席を立つと叱られて、鉛筆が炭素の音をたてながら転がるのを身じろぎもせずに見守っているのを「なぜ拾わぬ」となじられても気にも留めなくなった。

こちら側には、私の本当の母さんがいる。この世界には私を受け止める友がいる。ここには私のための学校がある。私はゼリーのように透明な世界で自分を知りはじめる。
時が来て、仕方なく私は鏡の世界から戻ってくる。
まず羽のように伸ばした両腕から、張りのある肩も、やや上がった顎、そして閉じた瞼のまつげの毛先が吸い付くような音を残して抜け出る。

母さんの鏡台がすっかり西日に照らされている。
私は、おばさんの土産の菓子を鏡台のおしろいの隣あたりにそっと置く。お菓子は静かにてらされている。

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