小説詩集「バンジョウのひと」
いつのころからか僕は大海原の波の上にいた。
たった一枚の小さな板にしがみついて彼方を見つめながら、いつ果てるとももしれない運命の波をやりすごしていた。
それまではどうだったか。僕だって一国一城たる船の上にいた。生まれた時から中の上ぐらいの船には乗っていたんだ。
あるとき不意に大波がやってきた。それをかわしたと思ったら、別の波にやられた一艘の船によこっぱらをつかれた。
よろよろと僕の船はふらついて、それでもまだ大丈夫だと、僕は船内を駆けずりまわって補修作業につとめた。
乗組員たちが慌てぬよう、いつも通りに静かに食事をとったりしながら。しかし船体はどんどんかしいで、僕はあわてて大量の積荷を海に捨てた。船体は何とか平均を保っていたので必死に何事もない様子を貫いた。
それまでは修正できると思っていたのだ。なにしろ人生というものは一寸先も見通せないのだから。でも認めざるをえない。沈みかけている。
僕は乗組員たちを解雇して別船に移してやった。すまない、元気でいろよ、なあにこれぐらいのこと僕も必ず持ち直すから。とかなんとか言いながら。
そうして、もがいている時間が延々と続いた。船は思った以上にもろくてどんどん崩れてゆく。船大工がどんなふうに作ったのかは知らないが、人が思っているほど船というのは頑丈じゃないんだ。たまたま運よく航行できているだけなんだ。
客船が威勢よく汽笛を鳴らして通っていった。
「何をしてるんだい?大丈夫かい?」
陽気に、不思議そうに甲板のやつらが僕に手をふっている。
「いやー、レジャーだよ。ちょいとね冒険ずきでね」
なんて僕はかわした。そうでもしなかったら、いやね、実は僕もそんな汽笛のなる大いなる船にそもそもは乗っていたんだよ、それがね、なんて言っているうちに相手の船は通り過ぎていって「なんか言ってたぜ、あいつ。育ちの怪しい奴だぜまったく、あんなレジャー、俺らはおことわりだぜ」なんて陰口たたかれるのがおちなんだ。
少し離れたところを、同じ方向に進んでゆく中型船が現れては消えてゆく。僕は苦い水に顔を洗われ、口に入った水分の味をかみしめる。しみじみとかみしめる。
僕はちいさな、ほんの小さな木っ端になった板の上に胸をおしつけてしがみついていた。そしてただ祈った。
明日がありますように。明日も無事おぼれることなく浮いていますように。運よく食べられるものが手の届くところに流れつきますように。
僕はそばを行く船たちになんでもないよというふうに見せていたが、死に物狂いでういていた。奇跡がおこって特注の大型船に乗り移れることだけを夢見て明日をも知れぬ未来を見ていた。
まさかね、船上の人たちには、まさか僕が陸地を目指して当てもないのに大海原を突っ切ろうとしているなんて思いもよらないことだろう。
希望という細い糸を頼りに、今日も僕は生きている。それは小さな四角い板がもたらす大いなる希望だ。浮いているからには船にちがいない。
僕はかつて知っていた女友達のことを近頃思い出す。
冬に咲く椿だのに、「たまたまね、私とろいものだから、春に咲いちゃうのよ。だから私はどうやらみんなに梅の花と思われているらしいの。ちょっとだけ風変わりなね」と彼女がいう。いや、僕から見ればどこから見ても君は張り詰めた寒椿だけど、と思うのだったけれど、彼女はその幻想を信じて疑わなかった。彼女が少し憐れでかわいそうに思えたのを覚えている。
今日も明日も、僕は、僕はバカじゃないんだと言いながら、君はバカだねと言うそしりをおおいにうけつつ、強く一縷の希望の上に生きている。
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