小説詩集「ゴッホの町」
この町に住んでいるあの人達は、いつもニコニコしている人たちで、たぶんなんとしてでも人に幸せになってほしいという願いを先天的に組み込まれた人たちなのだ。その願いというのは、いわゆる口先だけの暇つぶしにある言葉ではなく、あくまでも全身からあふれ出る全霊の思いなのだ。
ある者は、登校の道すがら後方からくる先生の足音に気付いてじっと耳を傾けていた。
それはほかならぬ完璧な挨拶をするためで、だからこそ彼の体勢は徐々に傾いていくのだった。
何度となく肩越しに様子をうかがう。暖かい誠意を示すのが狙いだ。けれどそのゴッホは与えようとする思いが大きすぎてタイミングを計りかね、ふり向きざまに「おはようございます」と挨拶する。
執拗に様子をうかがっていたにも関わらず、先生は思いのほか遠くにいるのだった。
その様子は、あるいは他人には間抜けて見えたかもしれなかったけれど彼の目的は達成された。
ただ残念なことに、彼の脳裏に付着した残像が「相手に何か嫌な思いをさせたのではないかしらん」という一点のシミを作って沈着した。
プールの更衣室でこんな人もいた。髪を乾かしたかった少女が誰もが幸福であることを願って、一番最後にドライヤーを使っていた。友達はすっかり髪も乾いて荷物の整理をしながらそれぞれの話題に興じている。少女はその一つ一つの話を微かに聞き取りながらうなずく代わりニコニコとした。話には相槌がつきものだったから。
でもどこかから、「あの子どうしてニヤニヤしているのかしら」という声が聞こえてきてゴッホは驚いた。彼女のしたことは無駄なことで、友人らを不快にさえしていたのだから。
それで、これはもう私の法則がこの世のものと違うならばどうしてここにいる必要があるのかしらと思えてきて「いっそ」と、人差し指のピストルをこめかみにあてて引き金を引いたけれど何も消えはしなかった。
恥ずかしさと誠意だけが心の形を満たしていてそれが空中に浮かんで見えた。
班長さんに選ばれて、本当の市長さんみたいにみんなの幸せを願おうとしたものが、十日間がんばった。
朝早く登校して、皆の机を拭いてから彼らが来るのを待った。さよならを言うときに宿題を忘れないよう声かけもした。
風邪で休んだ子の家に様子を聞きに訪ねていった。
喧嘩が始まると割って入って話を聞いた。なるべく喧嘩なんかしないよう標語をつくって全員に渡した。
十日目の放課後、忘れ物を取りに教室に戻ってみると「あいつは辞めさせた方がいいね」と班のみんなが輪になって話し合っていた。
そこに班長さんの自分はいなかった。不思議に思ったけれど、何が悪かったのか分からないことの方が問題だった。
教室に入れず忘れ物を持ち帰らなかったので宿題をすることは出来なかった。その代わり「何が悪かったのか?」という課題に取り組んだ。けれどなかなか答えは出なかった。
そうしてただ漠然と不安だけがくっきりと心に浮かんだ。自分のしてきたことは的外れで、もしかしたらこれから先も自分はそんな風なのではないかしらという不安だ。だからゴッホはうろたえてぶつぶつと歩きながら心の整理をしようと同じことを繰り返し考えてはつぶやくのだった。
けれどもある日、一台のバスが出発するという情報が漏れ伝わって、どこからともなく集まったゴッホ達が乗り込んだ。
「早く座れ、もう出発するんだぞ」と、運転手が怒鳴ったので乗り合わせた者たちは心を痛めた。もっと優しく言ってくれたらいいのに、と胸にぎゅっとカバンを押し付けた。
一番前の座席に掛けていた人が弱々しく立ち上がって「すみません」と謝った。彼が悪いわけではないのに。でも、みんなその人をみてホッとした。
なぜなら彼こそが目的地にみんなを導く伝説の車掌だったからだ。
運転手は「仕方ないな」というふうに大げさにため息をついてからギアを入れ替えて発信した。すると猫が突然飛び出してきたので運転手が怒鳴った。車掌は中腰に身をかがめて「すみません」と言った。乗客たちにも謝った。乗客たちは控えめに首をふった。
雨が降り出してきてワイパーが動き出すと、再び車掌は「すみません」と前後左右に向かって謝った。バスの乗客たちは優しさを満面に浮かべてそれに応えた。
それからはもうブレーキのたびに阿吽の呼吸で車掌と乗客たちは謝りあった。
「すみません」「いいえ、こちらこそすみません」「ああ、本当に申し訳ありません」「とんでもありませんよ、悪いのはこちらですから」と言うように。
それで運転手はもう我慢できないというように車を止めてサイドブレーキを大きくひいた。
すると、そこはゴッホの町で、黄色や緑や青がうねるようにあたりを彩っていた。乗客たちは、喜びで胸を焦がしながらバスを降りるとやがて町に同化するようにおのおのの色を放ち踊り散っていった。こではスキップするのを笑うものもいなかった。この町はもともとこんな具合に色彩にあふれていたのだけれど、今はもうさっきよりもずっと多くの色にあふれているようだった。
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