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小説詩集「かもめとTシャツ」

私は兄さんに手をふった。兄さんは杖をついて出かけて行った。それは今日のマジックショーに使うステッキで、おどけて杖がわりにしていたのだ。
兄さんも、姉さんも、妹も普通に歩いている。私だけ本物の杖をつく。
最初私は知らなかった。自分が違う格好で歩いていることを。だからみんなに「集合!」って号令かけたり、笑ったり、ふざけたりしていた。
そんな風にしていられたのは、ほんの短い間のことだった。
私は物思いにふけるのを止めて、潮風に誘われるままに家をでた。
自転車に杖をくくり付けて、主に片足を使って自転車をこぐ。坂道をブレーキをきかせながら下る。下りながら海の照り返しが眩しくて目を瞬いた。

船着き場あたりを気まぐれに走る。時にゆったり揺れる小さな船を、一艘、一艘確認しながら。
「ビーナス号、ベスプッチ号、ワールドチャレンジ号」
世界中を駆け巡る感じだ。
「ジャンヌダルク二世号、アマゾン号、アドベンチャー号」
勇敢な航海を思わせる。
そんな風に碇泊船の名を読みあげて港の様子を楽しむ。
私には青い空と碧い海、輝くマストさえあればよかった。他には友達も、兄弟も、父さんや母さんさえいらなかった。
本当にいらないわけではないけれど、それぐらい空と海とマストが大切だった。

かもめが上空を旋回している。そうだ、かもめも空や海と同じぐらい重要だった。
かもめはね、幸せだと思う。空高く舞い上がり餌をねらって降下する。それに飽きたら、風に身をまかせて湾を遊覧すればいいんだ。
目を閉じた。かもめの鳴き声と一緒に光が瞼を包んだ。うっとりする。そうして息を吸い込んだ。
船のロープをくくり付ける出っ張りに足をのせて、湾の向こうに水平線のタンカーを見る。遠い国を思う。
「君、この湾の子だね」
見知らぬ男の子が声をかけてきた。
「そうだけど、あんただれ?」
「カモミだよ」
「どこの子?」
「僕もこの港の近くに住んでるのさ」
「この近く?」
「そうさ、母さんや父さんに連れられてあっちの港、こっちの港と移動するのさ」
「ふうーん」
私はこの男の子が早く話にけりをつけて、どこかへ行ってくれればいいと思う。このまま話していたらいずれ私の足のことに気付く。

私はこのごろ、本当は何が嫌なのかわかってきたのだ。足が悪いことよりも、最初足が悪いことも知らなかった人が、私をのろまだとか思いながら徐々に本当の姿に気付いていくのがたまらなく嫌なのだと。だからと言って、最初から「私ね、足が悪いの」と聞かれもしないのに言い訳がましく言うのもおかしい思う。だから「足が悪いんだね、君」って言われるとホッとする。ホッとするけれど、何もそれは私のせいじゃなくて、母さんが私を産む時にちょっとした事故があったからだと、いちいち心の中で言い訳するのももどかしくやっぱり嫌なのだ。

「ねえ君、ロープ結わえの出っ張りを蹴りながら、向こう端まで行ってみないかい?」
そういうと男の子は自転車を走らせた。出っ張りを蹴っては次の出っ張りへと、飛び石を渡るように進んでいく。そうしてたまに止まっては、
「このふねオクトパス号だって、海賊かな?」
なんて言って私を待ってくれたりする。

港の端までやってくると、男の子は最後の出っ張りを蹴った。自転車をスイーとさせて恋人たちが待ち合わせるベンチに腰掛けた。私は、そちらへは行かずにじっと最後の出っ張りに足をのせていた。きっとあの子は「どうしたの?」と聞くに違いない。そう思うとおっくうで、いったいこのまま動かずにいたものか、「じゃあ、さようなら」と自転車を強くこぎ出して一目散に逃げ出したものか逡巡した。

風が私のシャツをすり抜けてゆく。男の子が、
「君のコットンシャツいいね」
といった。
「涼しそうなそんなチェックのシャツが、僕のあこがれなのさ」
「あんたのTシャツもいいじゃない」
私は挨拶がわりにそう言ってあげた。
「よくないさ、僕の母さんはいつだって僕に白いシャツを着せるんだ。もう飽き飽きするよ。その方が波しぶきに似ているから危険じゃないし、ほかの子達と同じだから帰る時はぐれないで済むんだって言うんだ」
「みんなと同じならいいじゃない。あたし本当は足がわるいんだよ。だから、はぐれることはないけど、はぐれた気持ちによくなるんだ」
「僕はときどきここへ来るけれど、君のことしか見分けられないんだ。他はみんな同じ風に見えるから。だから、今日はどうしても君に声をかけたかったのさ。こっちへおいでよ」
私は自転車から杖を取り出してベンチまで歩いた。ベンチの隣に腰を下ろすと、いろんなものが見えた。船の舳先、波、ひかり、水平線、彼の心も。自分のも。
「かもめはいいなあ自由で」
海を見ながら言った。
「君も自由なんだよ」
また風がシャツを通り抜けた。

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