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車、バイクの趣味と交通哲学

どこまでも哲学の上を走り回っているに過ぎない。
どの国においても、赤信号は止まれ、青信号は進むことが可能、各種標識の持つ意味…というように、色と言語と意味が対応している構造を見ることができる。

さらに言えば、道路における左側通行・右側通行や歩行者は交通社会における弱者の位置づけである…など、信号の色や標識といった記号以外でも、無形の共通認識が見て取れる。

これらの認識は、人間の発達段階で早い時期から、学校で教わるような明示的な教育に始まり、家族や友人といったコミュニティの中から教示されるものであって、先天的に獲得している認識力ではない。

モビリティにおける自由度としては、身体のほとんどが外界に露出しているオートバイや自転車が高いといえる。

特にオートバイは、乗り手の能力以上の出力を持ち、操縦者の自由意志に従って、発進・停止・転回が可能な乗り物であるが、以上のような理由から自由であるように見えて、実は交通哲学の上であくまで成り立っているものといえる。

言い換えるなら、自由に我々は移動体験をしているように思えて、実はあらゆる秩序の上の自由であるということがいえる。

しかし、それでも自由を感じるのはなぜか。

それは、あらゆる秩序は社会基盤の隅々にまで行き渡り、モビリティの操縦者である我々も、交通ルールを守る大原則のもとで交通社会を営んでいるため、秩序は隠れ、意識されないのである。

交通において、他人の秩序が、自己の移動世界を侵害しないとき、または他人の秩序よりも自己の秩序が上回るとき、自由を感じる。

日々の交通社会において、他人の移動世界と自己の移動世界とには、駆け引きが存在する。

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