諦めが肝心 2024/06/26

6年くらい前、ゲームプログラマ志望の学生が集まるイベントで知り合った友人がいる。この間、彼のツイートを久々に見た。彼が今何をしているのかは分からない。しかし、相当思い詰めているようだった。精神科に通い、鬱病の薬を飲んでいるようだ。前から病みがちな性格だったのだが、今回は今までと比較しても、切羽詰まった印象を受けた。何とか助けてあげたいが、付き合いの多い関係ではない。だから、彼の悩むツイートにたまに返事をして「見ているよ」と伝えてあげるくらいしか、出来ることが思いつかない。せめて、こっちの仕事が落ち着いたら、ご飯に行かないかって誘おうかな。


最近ネガティブ目な記事を何本か投稿しているが、私は病名がつくほど病んだことがない。仕事の失敗や孤独感などで3,4日ウジウジ悩むことはあっても、そのうちケロッと復活する。ただ、元来性根がネガティブなだけ。

何で自分は鬱になるほど悩んだことがないのかなあ、って考えてみる。

真っ先に、生活に困窮するほどの金銭的に困っていないからってのを思いついた。大学時代は親にある程度仕送りをいただけていたし、社会人1年目から、ありがたいことに大病することなく真っ当に働いてこられた。年に二・三回帰省する程度には、実家との関係も悪くないので、最悪困ったら実家に頼ろうって思えているのも大きい。生活基盤の安定は心の平穏につながる。

次に、諦めが早い性格のおかげだってのを思いついた。

私は、大概の「思いつきで始めたこと」はすぐに諦めている。やるだけやってみて、すぐ諦める。性根に染みついてしまった「諦め根性」(なんだその言葉?)のせいで、何かに思い悩んでも「まあいっか」とあっという間に諦めてしまえる。

唯一諦めず長続きし、いまや職業にまでなったのは「ゲームプログラミング」だけ。学生時代に思いつきで、夜行バスに乗って参加した「ゲームジャム in 大阪」(注:ゲームジャムというのは、即席のチームで2-3日かけて1本のゲームを作るイベントのこと)の楽しさが忘れられなくて、プログラムをたくさん勉強するようになった。今もあの時感じた楽しいを追い求めて、ゲームプログラマーをやっている節がある。

諦めが早くなったのは、大学時代にとてつもない才能を目の当たりにしたからだと思う。

大学一年。同期にセンター試験98%を取って入学した社会人学生の方と出会った。 
大学三年。配属された研究室で、既に社会人と肩を並べ働く傍ら、国際的な学会に何本もファーストオーサーとして論文を提出している博士の先輩と出会った。
大学四年。素晴らしいソフトウェアをたった一人で完成させる情熱をもって、私にとっても夢だった任天堂に就職を決めた同級生と、SNSで知り合った。

おそらく一生かかっても敵わないであろう才能を何人も目の当たりにして、「ああ、この人達と真っ正面から闘っても無駄だな」と悟った。彼らのようなスーパースターにはなれない。凡人の自分は、それなりにやれていれば十分だ、そう思うようになった。この経験のおかげで、悩んでもすぐに諦めて、苦しみを手放せるようになったんだと思う。

こう、自分の「諦め」観についてつらつらと書いていたら、「人生とは、諦めることと見つけたり」なんて、格言めいた言葉を思いついた。同じことを考えている人はいないかなー?と、「人生 諦める 大事」でGoogle検索したら、「諦めは老化の始まり」なんてサイトがヒットした。うるせーーー!まだ老けたつもりはないわい!


その他、今日おもったこと

少年サンデーがフリーレンの大ヒットでコナン1本足打法から脱却できたと思ったら、らんま再アニメ化で爆笑してしまった。何回留美子先生引っ張り出すんだよwいいぞもっとやれ(めぞん一刻の再アニメ化が見たい)


昨日の日記


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