「侍少女戦記」 第1幕(全7幕)

★ミュージカル×小説
「侍少女戦記(さむらいしょうじょせんき)」あらすじ★

中沢龍香(リョウカ)は侍になることを夢見ているが「そんなことより結婚しなさい」と両親に反対されている。
龍香の召使いの青年、於菟(オト)はそんな龍香を密かに恋慕していた。
ある日、中沢家の領地に怪物が現れ、それを討伐するために剣豪の朱雀(スザク)がやってくる。
誰もが無理だと言った龍香の夢を、朱雀だけが叶うと言った。
龍香は朱雀に強く心惹かれていく。
それでも於菟は龍香を想い続ける。
一方、朱雀には将来を誓った恋人がいて……。
龍香は侍になれるのか?
また3人の恋の結末は?

実在の舞台俳優が演じる様子を想像して小説化します。

青野晶「侍少女戦記」

第1幕 第1場
 龍香(リョウカ)は瞑目し、太刀の柄巻を握り締めていた。鼻で深く呼吸する。
幅広の鎬。鉄色は明るい。地鉄に映る月は刃文を白く波打たせていた。
この命、まことの侍として生きることに捧げよう。龍香は強い思念を指先に灯し、見えない敵と対峙する。ついにその切っ先を振り落とそうと瞼を上げたその時、龍香の握る銘刀は、細枝に変わっていた。
「痛ッ!」
 枝の切っ先は召使いの於菟(オト)の額を叩き、地面に落ちた。於菟はかすり傷を左手でおさえ、呆れたように龍香を眺めやる。於菟の右手にも木の枝が握らされていた。
「ちぇ、まったく、女がやることじゃねえよ」
「もう一戦。ねえ、於菟。お願い」
「やめだやめだ。定時だぜ。ご主人。俺は退勤させてもらうよっと」
 於菟は木の枝を地面に放り投げ、龍香に背を向けて歩き出した。中沢家から借用している棟割長屋へと歩みを運ぶ。龍香は枝を握り締めたまま於菟を追いかけ、於菟が着ている長袖羽織の袖をつかんだ。於菟は龍香に気を留めることなく歩を進め、口笛を吹く。
冬の淡い夕日が、武家屋敷の庭の砂利を朱に染めていた。まるで主従が逆と見えるこの少女と青年は、並んで歩きながら無言の攻防を続けている。主人である龍香は口を尖らせることに疲れ、ついに言葉を発することに決めた。
「私が侍になるためなのよ。わかるでしょ? 剣の稽古が必要なの。でも頼んだってお父様が教えてくれないのよ。於菟。お願い」
「なあ、龍香。俺もう聞き飽きたよ。雅茂様が毎ッ回おっしゃることだってこの通り暗唱できるようになってるんだ。『いいかい、龍香。女子は侍にはなれないんだ』」
於菟は頬を膨らまし、腹を前に突き出して腕組みしてみせた。言い含めるような声色は龍香の父そっくりである。文句はこう続いた。
「『家督は兄が継ぐ。お前はなあんにも心配することはないんだ。龍香、お前は蝶よ花よと生き、武家の男子と結婚し、子を産み、女としての幸せに満ちた生涯を送ればいいのだよ』」
 於菟の大仰な芝居が終わると、龍香は「馬鹿にして」と目を潤ませた。右手にある木の枝を強く握る。萌えはじめた芽の凹凸が、手のひらに食い込んで痛かった。それでも龍香は負けじと左手を腰に当てて胸を反る。
「於菟。その昔、虎姫さまという女のお侍がいたのよ。隣国の軍が攻め入ってきて、いざ落城という時、虎姫さまは甲冑を纏って、三十人の侍女を率いて戦ったんですって。私だって侍になれるわ。中沢家の、武家の娘ですもの」
 やれやれ何度説明すればわかるのだか、とでも言いたげに於菟は首の背を掻いた。
「虎姫様だか亀姫様だか知らねえけど、とにかく女のお侍なんて馬鹿げてるって。女は美味しいごはんを作ることや、元気な子供を産むのが仕事だろ。刀なんて物騒なものを振り回すのは男だけでいいんだ」
「そんなのって変だわ。まっっったく面白くないもの。私はご飯を作るために生まれてきたわけじゃないし、子どもを産むために生まれてきたわけでもないのに」
「そんなこと言ったってそういう決まりなんだ。龍香がそうやって膨れてもどうにもならねえよ」
 龍香は何か言い返そうとしたけれど、言いかけた「あのねぇ、於菟?」に、龍香によく似た女の声が重なった。
「龍香!」
怒り混じりの叫びが庭に響いて、於菟は後方を振り返る。漆黒の絹糸と見まがう長髪を結い上げた女が、離れの縁側に立っていた。龍香は「まずい……」と呟き、声の主を確認する。
「龍香、その手に握っている枝はなんです。野蛮なことはおやめになさいと何度言えばわかるのですか」
「や、だって、あの、お母さん」
 龍香の母は助けを求めるように於菟を見て、深いため息をついた。
ああ、俺はお気持ちわかりますよ。そんな調子で於菟は肩をすくめる。於菟の共感に満足した様子で、龍香の母は続けた。
「そうやって男勝りなことばかりしているから嫁の貰い手がいないのです」
「言われると思いました」
「ああ、もう十七歳になるっていうのに。女子ならいい加減、枝を振り回すのはやめなさい」
「だから違うんだって! お母さん。枝を振り回してるんじゃなくて、私は剣術を」
「女子に剣術など不用です」
「でも、ほら、敵に攻め込まれた時のために……」
「敵に攻め込まれるって、いったいいつの時代の話をしているの。もう、どうしてわかってもらえないのかしら。お母さんだってね、意地悪で言っているわけじゃないのよ。龍香が大事だから言うの」
「わかってるよ。でも」
 でも。続く言葉が重くて、喉を通り抜けてくれない。だからこんな時、龍香は「わかってるよ」と繰り返すしかないのだ。小さく震える唇で。
「わかっているならよろしい。龍香、武家の女の使命は武家の男と結婚すること、そして跡取りの男子を産むことです。家の血を絶やさないこと。これは男にはできない、大事な仕事ですよ。さ、花嫁修業の時間です。今晩こそ料理とつくろいものを……」
 それだけは本当に勘弁。龍香は潤った双眼で於菟に訴える。諦めろよ。於菟は目を細めてみせた。龍香は首を横に振り、於菟の羽織の袖を強く握りしめる。走るつもりだ。
「お母さんごめん! 今於菟と話してるところだから!」
 龍香は母に背を向け、母屋の方角へと走り出した。
「ちょっと! 龍香!」
 母は娘を呼び止めたが、まったく効果はなかった。龍香は健脚で砂利を蹴り上げ、敏捷に逃げていく。龍香に引っ張られる於菟は何度も足をもつれさせ、転びかけた。
 
 母屋を挟み、離れの対角線上に別館の茶室がある。龍香は茶室の北側に回り込んでから初めて歩調を緩めた。屋敷の庭をあらかた引きずりまわされた於菟は、とっくに息があがっている。於菟は恨めしげに龍香を睨んだけれど、龍香は「いい運動になったじゃない」と笑い、右手に握った細枝を上機嫌に振り回した。
茶室の面する裏庭から、青黒い山が臨める。夜気の迫る山は鳥の声ひとつなく、静謐に澄んでいた。生き物のすべてが強大な力に畏怖し、息を潜めている。その気配が、たまらなく龍香の肌を引き締めた。
「お料理やお裁縫なんかやってる場合じゃないのよ。今晩は特にね」
「まさか」
 切れる息の隙間で於菟は言葉に響きを与える。しかしその続きを声にするのは困難だった。やめとけよ。龍香は屋敷にいればいい。女子のすることじゃないって。言いたいことはたくさんあるのだが。龍香は於菟の言外の言葉を察知して、薄い唇を尖らせた。
「朱雀(スザク)さまが怪物を斬るのよ? 見に行かないわけにいかないじゃない」
 於菟は肩を大きく上下して呼吸を整えながら、心底呆れた様子で目を細めた。
 屋敷の裏山に棲みついた怪物を、ついに今晩、朱雀さまが斬る。怪物討伐に最も興味を示しているのは、朱雀さまや朱雀さまの率いる討伐隊の誰より龍香なのだと、於菟は薄々勘づいていた。朱雀さまが屋敷の離れに滞在するようになった、一ヶ月前から。
討伐隊は朱雀さまを筆頭に、龍香の父、他に中沢家の臣下たちで構成されている。ここに女が混ざるなど、それも中沢家の箱入り娘が混ざるなど、万に一つもありえない。龍香がどれだけ望んだって龍香の父が許すはずなかった。だから於菟は甘く見ていたのだ。龍香は諦めて屋敷で大人しく待ち、広間でおこなわれる討伐報告会を盗み聞きすることで満足するしかないだろう、と。
「やめとけよ。龍香が母様に料理やお裁縫を習っているうちに怪物は朱雀さまがやっつけてくれる。悪いことは言わねえから母様のいうことを聞けって」
「もしかして於菟、怪物が怖いの?」
「はぁ? そ、そういう話じゃねえだろ」
 全然怖くなんかねえしな、としっかり付け加えて於菟はそっぽを向く。
百姓の家に生まれた於菟にとって、朱雀さまだとか、怪物討伐だとか、そんなことはことごとく他人事なのだった。村の危機は侍がなんとかしてくれる。どんな時だって百姓は田畑を耕していればよい。武家屋敷に出稼ぎ奉公をするようになった今も、於菟の考えは変わらなかった。決められた時間内で龍香に仕え、給金をもらい、離れて暮らす貧しい家族に生活費を送る。大きな不満はないが、主人の龍香にはもっと女子らしくしてもらえると楽なんだがなぁ、と思うことが常である。ところが於菟の思惑を龍香がことごとく裏切ることも、また常であった。
「ねえ、ついて行こう。討伐隊に」
 龍香は左手の人差し指を唇に当て、しーっと声を潜める。
「はあ?」
「大丈夫、私は絶対戦わないって約束するから。ただ、朱雀さまがどんなふうに刀を振るのか見たいの。ね、見るだけだから」
「そりゃよかった。木の枝で怪物に立ち向かうほどの馬鹿じゃなくて」
「不敬よ。クビになりたいの?」
 龍香は右手に握る枝を於菟の方に向けた。枝分かれした細刀を於菟の喉元に突きつける。
「ははあ、ご主人様。どうかお許しを」
於菟が大仰にひれ伏すと龍香はくすくす笑いだし、顔をあげた於菟もやっぱり、笑っていた。
日が落ちていく。夜に紛れだした山は、怪物の支配下にあった。
 
 志心流の玄鉄館より、朱雀が中沢家にやってきたのは一ヶ月前のことだった。屋敷の裏山に怪物が棲みつき、山に近付く者を襲っているらしい。村人たちから「助けてほしい」と頼まれた龍香の父は、玄鉄館に怪物討伐の協力を依頼した。今夜ついに、朱雀を筆頭に組織された怪物討伐隊が山に入る。討伐隊にお呼びでなかった龍香は、こっそり隊のあとをつけようと画策しているのだった。
於菟は「馬鹿なことを考えるなよ」と言って、緩やかな大股で歩みを再開する。母屋の壁に沿い、西へまっすぐ足を運んだ。左手に、離れに続く渡り廊下が見えてくる。それよりもずっと西に、於菟の帰るべき長屋の一室があるのだ。早く母屋に戻ればいいものをと於菟は思うが、龍香はいつまでもついてくる。右手に見えていたはずの山の稜線は、夜に溶けきって見えなくなっていた。
於菟は振り返り、あごをしゃくりあげると、極限まで目を細め、鼻をひくつかせて龍香を見下ろしてやった。
「龍香、怪物のことは明日まで忘れとけ。それより今晩こそ母様の言うことを聞いてやれよ。料理もできねえ、つくろいものもできねえ、そんなんじゃ嫁の貰い手なんざ一生現れねえからさ」
はあ、とそこで息をつき、言いたいことはこれで終わりだと強調する。続く言葉はいつも通りに胸のうちにしまい込んだ。
 だから。だからもし「龍香がほしい」なんて言うお侍がいなかったら。その時は、俺がもらってやってもいいからな。料理もつくろいものも、できなくたって構わないから。
……なんて、従者の分際で言えるはずもない。尻切れになった言葉はいつも正反対の意味を持ってしまう。
「余計なお世話よ。召使いのくせに」
 龍香はむくれるけれど、粘り強く於菟についてくる。
こういう時間が少しでも引き延ばされればいいと、於菟は願ってしまうのだった。
龍香は上品に尖った小さな鼻先をふんっと鳴らして話題を変える。
「それよりね、朱雀さまが怪物について講義した時、廊下で盗み聞きしたのよ。あの山にいる怪物は、鬼とか、九尾とか、そういうただの怪物ではないんですって」
「怪物にただの怪物も、ただじゃねえ怪物もあるかよ」
「ちょっと、真剣に聞いてよ。怪物の名前はね、えっと」
 龍香は懐から手帳を取り出して開いた。メモまでとっていたのか、と於菟はまた呆れる。それと同時に、どうしてこの娘は男に生まれることができなかったのだろうと、神様を少し恨めしく思うのだった。
真剣の柄を握るのには柔らかすぎる指先が、手帳の表紙を開く。白い紙は夜闇に零れ落ちた四角い光になり、その中に墨字が太く浮かび上がった。龍香はそれを読み上げる。
「グリフィン。西洋から来た怪物なんですって。頭と前半身が鷲、後半身が獅子で、背中に大きな翼が生えてる」
「なんだそれ」
 於菟は瞼を閉じて怪物を想像してみた。どうも上手く像が結びつかない。獅子の前半身が切り取られて、代わりに鷲が縫い付けられている感じだろうか? 考えると両腕にはざっと鳥肌が立った。
「朱雀さまはその怪物を討伐するのよ。ねえ、どうやって斬るのかしら。見たい。絶対に見たいわ」
「なあ龍香。わざわざ危険とわかっている場所に出向くもんじゃないよ。明日の討伐報告会をまた盗み聞きすればいい。朱雀さまの講義を盗み聞きした時みたいに。その程度なら俺も付き合うからさ」
「この私が聞いた話だけで満足できると思う?」
「ああそうだな。そうかもしれない。けれどもうひとつ大きな問題がある。俺の勤務時間は朝九時から夜六時まで。龍香の召使いをするのはこの時間帯だけだ。俺は誓って無給の残業をしない」
 龍香は得意げに口角をあげた。龍香の笑顔。一番、見ていたい表情だ。於菟は思わず口元をほころばせそうになった。そうならないように「なんだよ」とわざとらしく唇をゆがめる。
「於菟。ひとついいことを教えてあげる。グリフィンの巣は金でできているんですって」
「えっ?」
「だから、ね。どうかなって。無給の残業じゃないから」
龍香は上目遣いになって肩をすぼめた。両手を合わせ、拝むポーズを見せる。お願い。於菟は表情で心の内を読まれないように、さっと右手で口元を隠した。か、かわいい……。
於菟の家族は村のはずれに住んでいる。於菟の母は身体が弱いし、弟や妹だってまだ幼い。誰も十分には田畑を耕せないのだ。それでも家族が食いつなげているのは、於菟が龍香に奉公し、給金を得ているおかげである。
冷え込む朝、長屋の炬燵で暖をとる時、於菟は罪悪感を抱かずにいられない。せめて実家の母と弟妹に、暖かい着物や火鉢を買ってやれたらと思う。しかし当然、於菟の給金にはそんな余裕がなかった。毎月送っている金は、きっと三人の食費を賄うのに精いっぱいだろう……。
実のところ、於菟はこれまで幾度となく、龍香に賃上げの相談をしたいと考えてきた。ところがそれを切り出そうとするたびに、於菟にとって最も大事な人は、龍香に変わってしまう。召使いの中で特別に於菟の給料だけを上げたとしたら、他の召使いたちは龍香を白い目で見るようになるだろう。「あのお嬢様、親に甘やかされすぎなのよ」。幻聴が耳をかすめると、於菟は首を振り、いや、俺の昼食代を削れば何年後かには、と考え直すことになるのだった。
「ね、こうしよう。討伐隊にこっそりついていって、物陰に隠れて私は朱雀さまの刀捌きを見る。その間に於菟はグリフィンの巣を回収する」
 息を潜めて言う龍香の瞳は、温かな潤いに満ちていた。於菟はこの眼差しを向けられるたびに、龍香の心は瞳に丸く嵌め込まれているのではないかと疑う。
龍香がいなければうちの家族はとっくに飢え死にしているのだ、と於菟は思った。
飢饉で父が餓死した時、弟にはまだ死というものを理解できなかったし、身重の母は泣く以外のことができなかった。一方於菟はというと、不思議なことに父の死を悲しむことができなかった。そんなことよりも早く、父をどこかに埋めてやらねばならなかった。死んだことが他の百姓どもに知られたら、肉を削いで食われてしまうかもしれない。於菟は、そんなことしか考えられない自分がひどく薄情である気がした。
夜のうちに父の骸を山に運んだ。父の頬肉は削げ落ち、髪は乾燥しきって生き物でないみたいだった。皮膚は鎖骨を浮かし肋骨に張り付いている。垢だらけで匂う、硬直しかけた身体はほとんど肉なんかついていないはずなのに、背負ってみると体中の関節が音をたてて弾けてしまうのではないかと思った。
それでも於菟は山をのぼっていった。麓は岩場であったから中腹までのぼって、少し開けた平坦な広場に、夜通し穴を掘って父を埋めた。降り注ぐ月光の中で、紅葉だけがあかあかと笑っていた。夜が明け、朝が来て、やがて悲しいほどに暖かな昼が来る。終わった、と盛り土に置かれた石ひとつを眺めた時、於菟は初めて泣けたのだった。父は、母と子たちに食わせるために、一切の食を断っていた。その愛のために於菟は今生きている。自らを犠牲にして少しずつ死に向けて瓦解していく父を見守る苦痛から、於菟は今日完全に開放された。しかしその苦痛を凌駕する愛が、於菟の胸を激しく焼いた。好きだ。好きだ、好きだ、好きだ。そう思うのに照れが先立って、於菟は生きている父に一度もそうと伝えられなかった。衝動的に盛り土をかき分けそうになって、於菟はしゃがみこむ。震える右手を左手で抑え込み、叫び泣いた。涙に歪む見ごろの紅葉が目に痛いほどに眩しかった。
どれほどそうしていただろう。もう声も涙も絞り出せなくなってしまったという時に、突然、背後で少女の声が聞こえた。
「父上」
於菟が振り返ると、そこには領主の中沢雅茂がいた。隣には、雅茂を「父上」と呼んだ少女がいる。少女の鼻筋は雅茂によく似てすっと細く一直線に通っていた。
於菟は顔から血の気の引くのを感じた。どうやら雅茂とその娘が紅葉狩りをする場所に父の遺体を埋めてしまったらしい。於菟は謝罪の言葉も見つからないまま、慌ててひれ伏した。とっくに出なくなった声を絞り出し、謝罪をしようと無理に喉を開きかけた時、少女は穏やかな声で雅茂に尋ねた。「あの者を、龍香のお友達にできませぬか」。以来、於菟は中沢家に奉公という形で「龍香のお友達」をしている。
 その龍香が今、月光を含んだ黒い双眼を清冽に輝かせていた。
「ね。お願い、於菟。ついてきて」
上目遣いだ。
「……今晩だけな」
於菟の返事に、龍香は満足げに頷いた。
 
第1幕 第2場
朱雀の兜の額には宝珠が嵌め込まれていた。兜の側面からは像の牙を細く削り出したような金の角が二本生えている。兜も甲冑も暗青色に統一され、段替胴には龍の金蒔絵が閃いていた。両腕を覆う銀の鎖帷子はこすれあい、歩調に合わせて微細な金属音を響かせる。
戦国絵巻のような甲冑を纏った侍たちが、朱雀に続いて山に入っていった。松明を掲げ歩く朱雀の一歩後ろを、雅茂がついて歩く。
「山の麓は岩場でございます。グリフィンが岩場に巣をつくるという習性があるのでしたら、おそらくそこでしょう。その岩場を見渡せる広場、というのも当然見渡せるのは昼だけではございますが、山の中腹あたりに開けた場所がございます。紅葉狩りに最適な広場でして……」
山道は静かだった。湿った山の夜が、雅茂の鎖帷子を軋ませる。その細かな金属音を聞きつけて、今にも茂みからグリフィンが襲い掛かってくるのではないかと思うと、雅茂の唇は震えた。朱雀は何も答えない。雅茂にとって、研ぎ澄まされていく朱雀の清い殺気だけが救いだった。
 
朱雀は、中沢家の臣下たちに挨拶をされても一瞥をくれるだけで会釈すらしない。さすがに雅茂が相手となれば返事をするが、それも「はぁ」と、どこか諦めたような囁きである。朱雀が発する言葉は「はぁ」、「ああ」、「いや」程度で、癖になってしまったかのようにいつも深刻な眉の歪め方をしていた。しかし刀身に打粉をはたき、丁子油をひく時だけは、眉間の歪みを解き、鉄色の深い輝きを双眸に取り込むのだった。
朱雀は中沢家に来た初日からそんな調子であったから、討伐会議でグリフィンについて講義した時には、討伐隊員も廊下で盗み聞きをしていた龍香も度肝を抜かれた。
(この人、文章で話すことができたんだ……?)
五十人の心の声はひとつになり、無音にも関わらず朱雀に届いた。朱雀は「くだらないことを考えるな」とは言わずして、その意図を伝えるには十分すぎる睨みをひとりひとりに返していった。最後に廊下の方を見ることも忘れなかったが、壁に耳を当てることに集中していた龍香には気付きようもなかった。朱雀は「はぁ」と得意の囁きをして、講義を続けた。
中沢家の領地内、青山に棲みついたのは西洋から来た怪物である。とりわけ「グリフィン」と呼ばれる種類の怪物であるらしい。グリフィンは頭と前半身が巨大な鷲、後半身は獅子の怪物であるから、夜は昼ほど目がきかないのだ。そういうわけで、朱雀はグリフィン討伐を夜に決行すると言った。
 
朱雀は冷たく濃密な闇へと踏み込んでいく。左手には松明が掲げられていた。グリフィンは炎を吐くから、炎を見ると仲間がいると思って寄ってくるらしい。松明に照らされた兜のシロコは龍の鱗のようだった。
討伐隊から距離を取り、龍香と於菟は山に忍び込んでいく。龍香は朱雀の掲げる炎を見失わないように追い、於菟が間違いなくついてくるように彼の羽織の袖口を握り締めていた。龍香の背後に続く於菟は、あたりに目を凝らしている。
「グリフィンは朱雀さまの松明の方に行くはず。大人たちにとられちゃう前に、於菟は金の巣を探して」
 龍香は振り向かずに指示する。前方では朱雀が歩みを止めたらしい。甲冑のこすれる音がする。討伐隊の他の侍たちも隊列を崩し、朱雀の元へと寄り集まっていく。あの紅葉の広場にたどりついたのだろうか。朱雀は紅葉の広場でグリフィンを迎え撃つ気でいる。そう思うと、龍香はもっと近くで様子を見たかった。
「於菟、朱雀さまが目的地にたどりついたみたい。私、もっと近くで」
 振り返った時、龍香は於菟の姿のないことに気付いた。背後にはただ草木の作り出す奥行き深い闇が広がっている。網目のように交差する枯枝は夜風に揺さぶられ、呼吸するようにざわめいていた。
「於菟」
 龍香は何度もその名前を囁きながら、一歩ずつ慎重に来た道を戻り始める。踏んだ枯れ葉は、存外大きな音を立てて龍香の居場所を叫んだ。龍香は息をのみ、その場にしゃがみ込んだ。振り返れば、まださっきの場所に朱雀たちはいる。揺れる松明の光だけが、龍香の震える心を守ってくれた。
 龍香、俺、ちょっと行ってくる。
頭の中で於菟の声が響く。龍香が松明を見上げ、朱雀の行く方に集中している間に、聞き流してしまったらしい言葉。本当に於菟がそう言ったのかはわからない。全て龍香の妄想かもしれない。しかし山に入った時は確かに、於菟はいたのだ。「離れないで」。そう言って於菟の羽織の袖をしっかりつかんでいたはずなのに、いつのまにか指先はゆるんでいたらしい。今、龍香の隣に於菟はいなかった。
 龍香は息を潜め、人工的に切り開かれた細い下り道を見る。その時、頭上では雲が途切れ、枝枝の隙間から月明りが零れ落ちてきた。
於菟、と再び呼びかけようとした唇が震えた。視界の隅に、月光の輝きが溜まっていく。龍香は首を巡らす。山に開かれた道を外れて、少し下ったところ。夜を切り取る黒い木々の影の向こうに、岩場がある。その中でもとりわけ巨大な岩の、その窪みに、グリフィンの巣はあった。
 巣はグリフィンの爪と羽根でできていた。グリフィンの爪と羽根はもともと白く薄い骨のようなものだが、太陽の光を吸収して黄金になる。これが頻繁に抜け代わるから、巣の材料になるらしい。楕円状に形成されたグリフィンの巣は、岩場に浮かぶ銀河のようだった。
 すうと真新しい冬の空気の流れを感じて、龍香は風上を見る。そこにはまだ朱雀の炎が燃え、それを取り囲む侍たちの甲冑が、赤金にちらちら輝いていた。なにやら声を潜めて最後の打ち合わせをしているらしい。人間たちの小声は木々のざわめきに溶け合わさっていった。
 近くで、誰かが枯れ葉を踏んだ。乾いた葉の、崩れていく音。それはゆっくり進んでいるけれど、近付いてくるのか、遠ざかっていくのかわからない。
「於菟、そこにいるの?」
 龍香は小声で問い、立ち上がる。
グリフィンが巣をなした岩は、溶岩が冷えて固まったような形をしていた。いびつな凹凸が多く、地面に接する面は大きい。その、地面か、または岩の延長線か。夜色の枯れ葉に覆われたそこに、於菟がいた。龍香の目に映るのはぼんやりとした人影である。けれどそれは、間違いなく於菟の気配をまとっていた。
龍香は広場のある方を振り返る。朱雀の掲げる松明は、向こうで誇らしく燃え続けていた。討伐はまだ始まっていないらしい。少しの時間なら、於菟を手伝ってやれるかもしれない。龍香はそう思い、道を外れて山の斜面を滑り降りて行った。枯れ葉の擦れる音が夜山に響く。しかし何かが、何かが龍香を不安に駆り立てる。早く於菟の元に行きたい。はやる気持ちを抑えきれず「於菟!」と思わず叫んだその時、岩陰に潜む人は闇の中で、凛冽に目を輝かせた。
「来るな!」
 鋭い叫びは確かに於菟のものだった。龍香は反射で低木の枝をつかみ、斜面を滑り降りるのをやめた。
その時、巨大な岩の向こうから何かがぬっと姿を現した。枯れ葉を踏む音に重量感がある。踏まれた木の根や石の砕ける音が林間に響いた。白い鷲の頭。それを覆う羽根は前脚まで続き、胴から先は獅子の姿をしている。グリフィンだった。グリフィンの背丈はゆうに人間を超え、体長は横になった大人ふたり分はある。前足は猛禽類のもので、硬質な鳥の脚が金色の鱗で覆われていた。黄金の巣の素になる鉤爪は、地面にめり込んで見えない。
 岩陰から姿を現したグリフィンはゆっくり首をめぐらした。火焔を閉じ込めた珠のような瞳をまたたかせる。グリフィンは枯れ葉を踏み、枝を折り、石を砕き、於菟の方へとゆっくり近付いていった。於菟は「来るな!」と繰り返す。グリフィンにではなく、龍香に。
考えるより先に、龍香はつかんでいた低木の枝を折っていた。体勢を極力低くして駆け出す。地を蹴る脚は強く迷いなく、グリフィンへと突き進んでいった。龍香は於菟とグリフィンの間に滑り込むと、折った枝を右手で握り締め、そのすぐ下に左手を添えて握った。枝には鋭い棘が生えていたらしい。枝を強く握りしめるほど、棘は龍香の手のひらに食い込み、血でぬめった。温かい鉄のにおいに、グリフィンは舌なめずりする。黄金の太いくちばしから火のような舌がちらついた。グリフィンは夜目がきかない分、嗅覚が鋭くなるのだ。血のにおいには特に敏感であるから、負傷すると居場所を特定されて戦闘には不利になる。龍香は朱雀の講義で盗み聞いたことを思い出していた。どうしたらいい。呼吸が速く、浅くなっていく。枝を握り締めた両手の震えが止まらない。それなのに龍香の心臓は「於菟を守れ」と激しく鼓動していた。
「馬鹿、何しに来たんだよ!」
於菟の怒声が耳の裏を打つ。それでも龍香は木の枝を刀のように構え、グリフィンに対峙していた。「守れ」と、全身の細胞が叫ぶ。叫びがうるさくて、手のひらの痛みさえ遠のいていった。
於菟は後悔の淵にいた。脚が震え、腰が立たない。ああ、どうして討伐が始まるまで待たなかったのだろう。巣にグリフィンの姿がなかったから、グリフィンはもう朱雀の灯した火の近くにいるはずだと思った。ところがグリフィンは炎の揺らめきに気付いたばかりで、まだ巣の近くにいたのだ。まずい、と気付いて於菟は立ち止まったけれど、山の斜面でこちらに向かってこようとする龍香が見えた。その時、於菟は声をあげずにいられなくなってしまった。「来るな!」と。於菟の叫びに気付いたグリフィンは、たちまち朱雀の松明から目をそらした。静かな怒りに包まれたグリフィンは於菟の方へと歩み出した。その行く手に、龍香が立ちはだかったのだ。
龍香はしっかと両足を地面につけ、右足を前に左足を後方に控えている。広く足を構え、腰を低く据え、両手で枝きれを握り、グリフィンに対峙している。その背中は真剣を握る侍の気迫をまとっていた。
むちゃだ。度胸で怪物が倒せるほど現実は甘くない。龍香、やめてくれ。俺をおいて逃げろ。お前だけでも逃げてくれ!
声にしたい言葉は水膜になり、於菟の瞳の表面を覆う。お願いだから。絶望に膝をくじかれそうになったその時、於菟は、龍香の握る枝がグリフィンに向かって大きく一振りしたのを見た。
グリフィンは赤い瞳孔を大きく見開いた。たくましい両翼をばたつかせる。白に、金に、羽根の一枚一枚は星明りを受けて羽ばたきのたびに色を変えた。巻き起こった突風で、龍香は吹き飛ばされた。
地を転がってきた龍香を於菟は必死に受け止めた。岩にぶつからないよう、両足を踏ん張る。腕に抱きとめた龍香は木の枝を握り締めていた。かすかに青い香りがする。サンザシだ。サンザシの枝に生えた棘は龍香の手のひらに食い込み、流れた血で羽織が汚れていた。
なんて馬鹿を。
於菟は舌打ちして顔を上げる。向こうにいるグリフィンの胴には一線、赤い筋が入っていた。獅子の胴体は微かに金を含んだ白色で、ぬめるように艶やかだ。その滑らかな和毛の中に一筋引かれた赤は、うるうる盛り上がった。やがて滴る。間違いなく、刀傷だった。
まさか。於菟は信じられない思いでグリフィンの横腹を見つめる。グリフィンは怒りに鳴き狂った。オウムが覚えた絶叫と肉食獣の咆哮を融合したような声が、耳に入って脳にじんと響く。グリフィンの煮えたぎる双眼が捉えているのは龍香でも於菟でもない。
「朱雀さま……」
 龍香のささやきが、於菟の鼓膜を貫いた。
 突風に舞い上げられた枯れ葉が、小石が、派手な音を立てて地に落ちていく。その向こうに、暗青色の甲冑を鎧った侍がひとり立っていた。夜気に磨かれた兜は、静かな光を放ち艶めく。山の上の方からは、甲冑の軋む音や鞘から刀を抜く音が重なり合って雪崩れてきた。討伐隊の侍たちが、朱雀を追ってこちらに向かっているらしい。
朱雀はグリフィンから目を離すことなく、刀をキッと短く振るい、血脂を弾き落とした。草鞋を締めた白い足袋に紅が散る。龍香は受け止めてくれた於菟の腕をくぐり抜け、地面に両手をつき前のめりになって朱雀を見つめた。
「グリフィンの羽根はほとんど鱗のようなもので、固い。刀を通せるのは獅子の胴や後脚。それからあと一ヵ所」
 朱雀の講義を脳裏に描きながら、龍香は無意識に息を止めた。
 グリフィンは獅子の後脚で立ち、前脚の鉤爪で朱雀に襲いかかった。朱雀はそれを太刀で受け止め、さっと斜めに傾けて流す。金の鉤爪は雄牛の角ほど大ぶりだから、細い刀を器用につかむことはできない。グリフィンの爪と刀身の擦れる不快な音が夜をつんざき、グリフィンと朱雀の間には金属のこすれ合う火花が激しく散った。グリフィンは再び地に四つ足をつく。その時グリフィンの喉元が微かに上下したのを、龍香は見逃さなかった。
「火だ」
 思わずつぶやき、両手を唇に当てる。鉄の味がした。痛い、と気付く。龍香は握り締めた武器がサンザシの枝であったことを、この時に知った。
「火?」
 背後にいる於菟が聞く。龍香は頷くけれど、振り返りはしなかった。
グリフィンは喉に最終兵器を準備しながら朱雀に襲いかかる。朱雀は舞い踊るようにグリフィンの猛攻をかわし、攻撃の機会をうかがっていた。ついにグリフィンの動きが止まる。グリフィンは老いた星のように燃える双眼で朱雀を捕らえると、勢いよくくちばしを開いた。朱雀に狙いを定め、首をかがめる。喉の奥には砲があった。歯のない口腔の、その肉壁の地続きに。この砲からグリフィンは炎を放射し敵を焼き払うのだ。
その時、朱雀はグリフィンとの間合いを一気に詰めた。両足のかかとを浮かせたまま、右足を踏み切る。朱雀は刀を中段に構えて落とさない。甲冑と鎖帷子、そして真剣の重さに負けない怪力を目の当たりにして、龍香は息を飲んだ。
次の瞬間、朱雀の構える鋭い白刃は流星のようにグリフィンの口内を穿った。山を震撼させる獣の絶叫とともに、天空へと火柱が噴き上がる。朱雀の太刀はグリフィンの喉をまっすぐに貫いていた。グリフィンは必死で首を振るが深く刺さった刀はびくともしない。吹く炎の中で白刃が燃えていた。高温の炎に溶けた鋼はグリフィンの喉や鼻をふさぎ、口腔に貼りついて肉を破り続ける。やがて窒息を待つだけの怪物は山肌に横転した。
朱雀はグリフィンをながめやり、左胸を抑えてひとつ深呼吸した。思い出したように龍香を振り向いて睨む。金の角を生やした藍色の兜の下で、朱雀は下唇を強く噛んでいた。黒目は鋭い輝きを放つ。グリフィンへの殺気を残した、厳しい白銀光だった。
「枝でグリフィンが斬れるか!」
 腹の底から発せられた朱雀の叱責が闇に轟き、龍香は慌ててひれ伏した。当然だ。サンザシの枝でグリフィンと戦えるはずがない。何も守れるはずがなかった。
それなのに、どうして私は……。
龍香の目は、血のように熱い水で潤っていく。
「侍になりたかったんです。女子は侍にはなれないって、ずっと言われてるけど、でも私、どうしても侍になりたかった」
 窒息したグリフィンから距離を取る討伐隊の侍たちは、不憫な表情で龍香を眺めていた。このお嬢さま、まだそんなことをいいなさる。なんと諦めの悪い。誰もが思っているが、誰も言葉にはしなかった。
「侍になりたかったんです」。龍香が力なく繰り返すたびに、於菟は目の前にある龍香の小さな背中をかき抱きたい衝動に駆られた。もういい。そう言って両肩をさすってやりたかった。涙の枯れるまでそばにいる。龍香があの日、俺にそうしてくれたように。救ってもらったこの命、必ず龍香を守ることに捧げよう。於菟は密かにそう誓った。傷だらけのその手を、今すぐに包んでやりたいと思う。もういいから。どうか俺に、守らせてほしい。言えないままでいた気持ちを、今なら打ち明けられる気がして、於菟は龍香の背に手を伸ばした。龍香。
「龍香!」
 於菟の心の囁きは、雅茂の叫びにかき消された。龍香が声の主の方を向いた時、於菟の胸を満たしていた勇気は急速にしぼんでいった。討伐隊の中から、雅茂が飛び出してくる。雅茂は重々しい兜を放り出し、汗にまみれた顔をゆがめて龍香の隣にへたり込んだ。於菟の代わりに龍香の華奢な肩を力いっぱいに抱きしめる。
「危ない真似はしないでくれ。女子は侍になれない。何度もそう言ったはずだ。どうかわかってくれ」
「でも、父上」
 龍香は雅茂の背を叩き、甲冑の厚い胸を押し返す。黒い甲冑には血の手形が引き延ばされた。鉄の冷気が傷口に刺さる。
「虎姫さまがいます。虎姫さまは隣国の軍隊に攻め込まれ、いざ落城という時、城主一族が自害する中、虎姫さまだけは甲冑を纏い、三十人の侍女を率いたと聞きます。私は、虎姫さまのように」
グリフィンの喉を燃やす炎が風に揺れなびき、雅茂の顔を赤く照らし出した。そうでなくても雅茂の顔が興奮に紅潮していることがわかって、龍香はひるんでしまう。次の瞬間、硬い手のひらが龍香の右頬を打った。
「虎姫さまの侍女は敵軍にことごとく討たれ死んだのだ! 女どもを指導した虎姫さまは城内に戻って自害した。嘘だと思うなら城跡を見てくるがよい。墓標がきっかり三十一並んでおる。龍香、頼む。わかってくれ。お前が思うほど現実は甘くない。お前には男と結婚し、子を産み、ただ幸せに生きてもらいたい。父の切なる願いをどうかわかってくれ」
 雅茂の目が、鼻が、口が、激しく「怒」と「哀」とを行ったり来たりする。顔ごと崩れ落ちてしまいそうだった。「無事でよかった。本当によかった」。繰り返される愛の言葉に偽りはない。
龍香は急に不思議になった。どうしてこれまで雅茂の言いつけを破ろうと、こんなにも必死になってきたのだろう。こんなにも愛されて育ち、龍香もまた、雅茂を愛している。それなのに雅茂の言いつけを破ろうとは、心で思うことと、行動で示すことが矛盾しているではないか。ああ、そうだ。本当はわかっていた。わかっていたのにわからぬふりをしていた。女子に生まれた時点ですべてが手遅れだったのだ。どんなに願っても龍香は侍にはなれない。それならせめて、中沢家に相応しい武家の男と結婚をして、子を産むべきだ。そうすれば父も必ず喜んでくれる。龍香だって穏やかに幸せに暮らせる。龍香は今、現実を知り、痛みを噛みしめ、少女から女に成長しようとしていた。きっと明日から龍香は料理に、裁縫に一生懸命励むことができる。それなのにどうしてだろう。嗚咽はより激しく深く膨らんでいき、涙は一層に温度を上げ、熱く頬を滴って止まらない。
「どうやら手遅れのようですな」
 頭上から無慈悲な声が降って来る。龍香の胸に鋭く突き刺さった朱雀の声は、何よりも説得力がある気がした。
雅茂は慌てて立ち上がり、何度も朱雀に頭を下げる。
「朱雀さま、これは大変失礼しました。恥ずかしいものをお見せしまして……。しかしこれは、私の最愛の娘です。助けていただいて、誠にありがとう存じます」
朱雀は雅茂の言葉にはひとつも答えず、龍香の方へと歩いてくる。乾いた木の葉の潰れる音がかすかにこだまし、涙に歪んだ龍香の視界に、血飛沫で汚れた白足袋が映った。朱雀がかがみこむ気配がある。
於菟はただ茫然と、全てを見守っていた。初めからわかっていたではないか、と思う。龍香は武家の娘で、於菟は赤貧の百姓にすぎない。出会った日から今日にいたるまで龍香と於菟は主人と従者であり、身分を超えた愛など許されるはずがなかった。龍香はいつか、侍の男にもらわれていくだろう。それはたぶん、そう遠くない未来に。
朱雀がしゃがみこんだ数瞬の後、龍香は思いがけない温もりに触れた。朱雀が手のひらで優しく、龍香の頭をなでていた。目を霞ませていた涙は零れ落ちて、ゆがんだ世界が輪郭を取り戻す。髪から離れた朱雀の手のひらは、龍香の傷だらけの手を温かく包んだ。
朱雀はまったくしょうがない奴だという顔をして龍香を見つめている。しかしその瞳は底なしの宙のように澄み渡っていた。
「これはすでに、まことの侍であるらしい」

続き→「侍少女戦記」 第2幕|青野晶 (note.com)

★「侍少女戦記」全幕まとめ★
「侍少女戦記」 第1幕|青野晶 (note.com)
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「侍少女戦記」 ★フィナーレ★|青野晶 (note.com)

 「侍少女戦記」あとがき|青野晶 (note.com)

 

 

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