「侍少女戦記」 第2幕(全7幕)

はじめから読む→「侍少女戦記」 第1幕|青野晶 (note.com)

■第2幕 第1場

弥生の薄い体躯を包む布には、大輪の押し花のように血がにじんでいた。腿に、腿に、胸に。朱雀は横たわる弥生の冷ややかな手を握った。細い指先はまだかすかに命を灯している。弥生の白い頬の稜線はいつまでも、いつまでも、弓張月の透き通る光に濡れていた。
「なぜ」
 病室で叫んだ朱雀に、弥生は奇妙なほど静かな視線を向けた。死を受け入れる人間の眼光。ふいに溢れ出した朱雀の涙は弥生の手の甲に落ち、指先を滴る。朱雀は弥生の額に自らの額を押し当てた。
「俺が斬る」
 朱雀は嗚咽にふさがれた喉を強引に開き、誓いをたてた。
「お前の仇は、どこまでも追う。山の奥であろうと、海の底であろうと、必ず」
 弥生はまだ幼い少女のように首を横に振る。いいえ、朱雀さま。でも。
その一瞬、弥生の瞳は生気にみなぎった。細く呼吸する唇は青ざめているのに、これから生まれる者のような笑みをこぼす。
「私も連れて行ってください。朱雀さま。私、」
 その時、弥生の指先は朱雀の手の内からすり抜け、布団に落ちた。
「弥生?」
朱雀の呼びかけは宙にほどけて行き場を失う。弥生。その愛しい名を叫ぶほどに、朱雀の心臓は鼓動を弱め、凍てついていった。弥生は、思うように動かぬ朱雀の心臓の一部であったのだと朱雀は思う。心臓が死して、どうして朱雀は生きられよう。きっと弥生と共に「まことの朱雀」は死んだ。この侍は、俺の魂を宿したこの侍の身体は、弥生を殺した怪物を追うという復讐心を心臓の代わりにして、終わったはずの人生を薄く不透明に引き伸ばしている。朱雀はそう信じていた。
「朱雀さま……」
朱雀はハッと瞼を上げた。弥生のささやきを聞いた気がしたのだ。左頬に畳のいぐさが刺さって痛い。どうやらここは病室ではない。目の前には襖が見える。そうか、そうだ、中沢家の屋敷の離れだ、と思う。眠っていたのか、気を失っていたのかわからなかった。朱雀は咳をひとつして懐を探り、印籠から薬を取り出すと丸薬を一粒飲み込んだ。
「朱雀さま……?」
 襖の向こうからささやき声は続く。
咳を聞かれたか。いないふりをしてもばれているだろう。
襖にはつっかえ棒をしていなかった。
やれやれ。入ってくるなら入ればいい。
朱雀はなげやりな気持ちになったが、襖はいつまで経っても動かなかった。やがて外の廊下を、小さな足音が去っていく。グリフィンを斬ったあの日以来、毎日これが朝晩二度続いていた。
朱雀は潜めていた息を解放し、寝返りを打った。窓の方を見上げれば朝日に映える棟割長屋のかやぶき屋根が遠く見える。今晩もあの娘は来るのだろう。畳の上に横になったまま襖の方に向き直る。黒く丸い引き手を見やるが、開けようと立つことはない。朱雀はさきほどまでこの襖の向こう側にいたはずの龍香のことを脳裏に描いた。よく似ている、と思う。思ってすぐに首を横に振った。
弥生に? まさか。私は疲れているのだろうか。
朱雀の口の端に苦い微笑が浮かぶ。薬が効き始めたのか、心臓が穏やかに鼓動し出した。瞑目した朱雀はその規則性に耳を傾け、弥生と同じ病におかされた自らの心臓のことを思った。
 
第2幕 第2場
朱雀が心臓の病で入院することになったのは十歳になったばかりの頃だった。生まれつき心臓がよくないことは言って聞かされていた。しかし入院することになろうとは思っていなかったのだ。病院での日常が始まったその日、朱雀ベッドでふてくされて布団にくるまっていた。寝ている間に全てが過ぎ去ってしまえばいい。起きた時には完全に健康な体になっていればいい。そう願うのに、眠気はいっこうに訪れてくれなかった。
「眠れないの?」
朱雀の背に、少女の声がかかった。病室には子供が二人、ベッドを並べている。朱雀が執拗に寝返りを打つから、その苛立ちが隣の少女にまで伝わってしまったらしい。朱雀はなんだか余計に腹が立って答えられなかった。
「私も眠れない」
 少女はそう言って朱雀の方を向く。衣擦れの音で、朱雀にも少女が体勢を変えたことがわかった。外では暗雲の凝りがほぐれ出したのか、夜に支配されていた病室に白い月明りが注がれていく。
「あのね。昨日、看護師さんから聞いたの。お外から、お友達が来るよって」
 お友達。その響きに、朱雀は乾いた笑いをこぼした。こんな場所で友達なぞ作るものか。さっさと治って、友達なんかできる暇もないくらい、早くここを出てやる。
「ねえ、お名前を教えて。私、弥生っていうの」
「うるさいな。お前、何歳だよ」
「八歳」
「それなら俺の方が二つも年上なんだ。馴れ馴れしい口をきくなよ」
「ごめんなさい……」
 朱雀は布団をかぶり直した。もう声など聞こえないように、何も見なくてすむように、布団の中で両耳をおさえ、かたく目をつむる。しかしそうすればするほど、眠気は遠のいてしまうのだった。意図に反して研ぎ澄まされていく聴覚が、弥生の声を拾ってしまう。
「私、お外の話を聞きたかったの。この窓の向こうって、何があるのか、知っていることが、とても羨ましくて」
 また衣擦れの音が聞こえる。弥生は起き上がっているのかもしれない。今にもベッドを降りて、朱雀の布団を無理に引きはがすのではないかと思う。そんなことをされてはごめんだと思って、朱雀は強く布団の端を握り締めた。けれど弥生は床に降りない。ひたひたと歩く音も聞こえてこなかった。
「外に出たことがないのか」
 朱雀は聞こえないようにつぶやいたつもりだった。しかし弥生はしっかり聞き取っていたらしい。
朱雀がようやく答えてくれたことに嬉しそうに微笑む気配がある。
「うん」
「生まれてからか」
「心臓が、悪いんですって」
 急に弥生が大人みたいな喋り方をするので、朱雀はふっと笑ってしまった。馴れ馴れしい口をきくなと言ったことを気にしているのかもしれない。
「なんで、笑ったのですか」
「別に笑ってなどいない」
「あの、馴れ馴れしくしないから、だから、お外のこと、ちょっと教えてくれますか」
 ちょっとでいいですから、と弥生がささやく。布団の中で息をするのが苦しくなって、朱雀は仕方なく頭だけを外に出した。病室のドアが見える。手を伸ばしても届きそうもないくらい遠くに。
「朱雀」
「え?」
「俺の名前。でも、朱雀さまと呼べ」
 お前の方が二つも年下なんだからな、と付け加えて朱雀は寝返りを打つ。その時に初めて、朱雀は弥生の顔を見たのだった。弥生はほころぶ幽蘭のように笑った。朱雀さま、と。
 ……失われていいはずがなかった。弥生の身代わりになれるとしたら、朱雀はすすんで命を捧げただろう。怪物に襲われて死ぬべきなのは自分の方ではなかったかと、朱雀は今でも思うのだ。
 
第2幕 第3場
 離れから八角堂に伸びる渡り廊下を、龍香は肩を落として歩いていた。今朝もやっぱり朱雀は取り合ってくれなかった。もう時間がないのに、とため息をつく。
「まーた朱雀さまに断られたな?」
 背後から忌々しい声が聞こえて振り返ると、やっぱりそこには於菟がいた。二人は並んで歩き始める。
「断られてなんかないわ」
「無視されてるなら同じことだろ」
龍香は意識していきらせた両肩を再び落とした。
首の根からうなだれる姿を見て、於菟は悪いと思いながらも安堵を奥歯で噛みしめてしまう。それでいい。朱雀さまは龍香に興味などない。このまま去ってくれれば。グリフィンを斬る朱雀の後ろ姿を思い出すたびに、於菟の胸はしみるように痛んだ。朱雀さまに龍香をとられたくない。
本当のところ、於菟は朱雀をかっこいいと思わずにいられなかった。夜気に青光りする甲冑。水平に抜き放った真剣の閃き。鍛え上げられた肉体に宿る侍の精神。全てを静かに調和させ、幽鬼のように戦う朱雀は、中沢家の侍たちとは別の存在であるようだった。龍香が何を思って朱雀を見ていたかなんて、考えを巡らせたくない。
「……朱雀さまだけなのに」
 龍香は渡り廊下の板目をぼんやりと見つめて呟いた。
朱雀が龍香を「まことの侍」だと認めてくれたことを、龍香は決して忘れない。しかしあの瞬間は夢だったのかもしれないと疑わしくなるほどに、朱雀の態度はつれないのだった。
私を、まことの侍だと言ってくれた。朱雀さまだけは……。
龍香はそう思う。だから朱雀に剣を教えてほしいと頼んでいるのに、離れを訪ねても朱雀は居留守ばかりで話してさえくれない。近いうちに朱雀は中沢家を出ていくだろう。それは、討伐隊を組んだ臣下たちを中心に、朱雀に対する冷やかな空気が漂い始めていることからわかった。
龍香と於菟は中庭に至る。植込みのツツジは相変わらず冬の厳しい冷えに沈黙していたが、からりと晴れた昼下がりだった。
「聞いたか? グリフィン、すっかり燃やし尽くされちまったらしい」
 すれ違った臣下の二人が、そう話していた。龍香は男たちが長屋の方へ歩いて行くのを眺めて、離れから出てこようとしない朱雀のことを憂慮した。隙間なく閉まった障子を、中庭から見つめる。向こう側で、朱雀は何を考えているだろう、と思うと、木枯らしが羽織の隙間から差し込んできた。龍香は震えて、自らを抱きしめ肩をさする。
 グリフィンの黄金の巣は、龍香の父に渡った。しかし倒したグリフィン本体は、朱雀が完全に燃やし尽くしてしまったのだ。臣下たちの中には獅子の毛皮を欲しがっていた者がいたし、白金の硬質な羽根で豪奢な甲冑がつくれるはずだと期待する者もいた。肉の味を試してみたかったという者もいる。それなのに朱雀は、誰に断りもせずにグリフィンを炭にしてしまった。
そりゃもったいないな、と於菟も思う。命を助けてもらった身で贅沢は言えないが。
 
第2幕 第4場
中沢家の離れでは、朱雀が出立の準備を始めていた。雅茂や龍香は別として、その他の者にはそろそろ煙たがられている。その自覚が朱雀にもあった。
弥生を殺した西洋怪物はグリフィンではない。弥生の負った傷はグリフィンの爪跡とは違ったし、グリフィンはくちばしで刺すような攻撃も繰り出さなかった。人体にあのような深い穴を空けることはできないだろう。それでも弥生の命を奪ったのは西洋怪物に違いないのだと思うと、朱雀はグリフィンを燃やし尽くさなければ気が済まなかった。西洋怪物を根絶やしにする。それが、弥生なき今を生きていくための、朱雀にとって唯一の望みだった。
ここを発って次の西洋怪物を討伐しに行かなければ。西洋怪物討伐の同志を集められたらと思ったが、どうやら中沢家の臣下に怪物を斬れるような侍はいない。と思う。気概だけでいうなら、見込みがあるのはあの娘だけだが……。いや、しかし……。
朱雀はひとつ咳をして印籠から丸薬を取り出して飲む。本当にあの娘に斬れるだろうか?
「龍香!」
外で龍香の母の声が聞こえた。またか。朱雀はうんざりして中庭に面した障子の方を見る。姿こそ見えないが、この母と娘の言い合いは毎日繰り返されていた。
「今日こそ花嫁修業です」
「花嫁修行なんて変だわ。結婚する人がいるわけでもないのに。それに私がなりたいのは花嫁じゃなくて侍です!」
「花嫁修業とは結婚したい人ができた時のためにしておくものです。それに侍になれるのは男だけだと言っているでしょう」
「でも、でも、朱雀さまは私を『まことの侍』だと言ってくれました!」
直後、砂利を蹴り上げる足音が聞こえる。龍香は母屋の方角へ逃げていったらしい。はあ、と苛立ちのため息をひとつ、龍香の母は八角堂の方へと去っていった。
「断じて私のせいではないぞ」と、朱雀は腕組みをして呟いた。けれど、そうとも言い切れない気がして小さくうなる。
あの親子、毎日毎日飽きもしないでこのやりとりを……。
朱雀は変におもしろくない。変わった娘だ、と思う。やはり弥生とは全然似ても似つかない。朱雀はひとときでも龍香を弥生に重ねてしまったことを後悔した。
弥生は、私の弥生は、結婚を申し込めば泣いて喜んでくれたではないか……。
朱雀が蘭の花束を捧げ、弥生に結婚を申し込んだ時、弥生は小さな肩を震わせて泣いたのだ。
「本当に良いのですか。私は、生涯病室から出られないかもしれませんのに」
「出られる。必ず病はよくなる。私だって退院できたではないか」
「朱雀さまはお強いわ」
「弥生がいるからだ」
「朱雀さま。私、こんな幸せってございません。だからどうか怒らないで。私は今、同じくらい怖いのです」
「なぜ」
「私は今、お父様とお母様のもので、でも、結婚をしたら、朱雀さまのものです」
「そうだ。その通りだ。俺が弥生を守る。二人で共に生きていこう」
「ええ。本当にそれは、それは嬉しいのです。望んできたことです。ずっと、ずっと。しかし私はいつ、私のものになれるのでしょうか。私はいつ、私のために生きられるのか、そんな日は一生こない気がして、怖いのです」
「それはいったい、どういう……」
「私は、弥生は、娘でもなく妻でもなく、弥生として生きてみたかったと……」
 弥生は蘭の花束を顔に寄せ、香りを深く吸い込んだ。
「いいえ。些末なことでございます。朱雀さまと生涯一緒にいられるのなら」
 たぐり寄せた記憶に、龍香の存在が入り乱れてくる。「侍になりたかったんです」。叫びに近い泣き声。サンザシの枝を握りしめた両手。瞳の奥で、星のように燃えていた勇気。ああ、この娘はすでに侍なのだと、あの時、朱雀は思った。
 
第2幕 第5場
夜、龍香はいつものように朱雀のいる離れを訪れた。障子は朝と同じようにぴっちり隙間なく閉められている。朱雀さま、と呼びかけようと廊下に正座した時、龍香の膝の先に何かが当たった。指先を伸ばすと、それはひやりと硬い。細い、筒のような形をしている。
これは……?
龍香は息を飲み、筒を右手につかむと目を凝らした。指の腹を這わせて造形を確かめる。
「朱雀さま、これは」
 夜空では凝りかたまっていた雲がほぐれいった。降ってきた月あかりに龍香は慌てて筒を晒す。小柄だった。黒い小柄には松の木が彫られ、その上空を一羽の鳥が舞っている。天空に輝く細い三日月は金色に塗られていた。龍香はその柔らかな彫刻の線を指先で確かめる。月光にかざして傾けると、片切彫の松葉は黒々と色を変えた。
「強くなりとうございます」
無意識にこぼれた言葉は存外はっきりと廊下に響いた。龍香は小柄を水平にして両手で握り、右手をゆっくりと引く。刹那、眩しい白銀光が鞘からあふれ出した。月光を刀身に受けた刀は、清い光で龍香の瞳を刺す。わっ、と龍香は思わず目をしばたかせた。夜気に晒された直刃は静かに龍香の振るいを待っていた。
「朱雀さま、そこにおられるのですか?」
 返事はない。しかし龍香は、この硬く閉ざされた障子の向こうで朱雀が耳を研ぎ澄ましているのを感じた。
「私を弟子にしてください。私に、剣術を教えてください」
 襖に背を向け、朱雀は畳に寝ころんでいた。難しい顔をしたまま、細く開いた丸窓の隙間から差し込む白い月光の筋を見ている。
朱雀さま、その呼び声が夜を震わせるごとに、朱雀の脳裏にはグリフィンに立ち向かう龍香の横顔がよみがえった。それはやがて弥生の横顔に重なる。「連れて行って」。弥生の声は絶えず朱雀の胸の内にこだまし続ける。朱雀は考える。弥生は外の世界で何を見たかったのだろう。娘でも、妻でもないとしたら、何者になりたかったのだろう。
「剣を教えてください。朱雀さま。もうすぐここを発つのでしょう。どうか私を、」
 窓の隙間から注いでいた月光は、朱雀のいる暗室を少しずつ満たし始める。
本当にいいのか。朱雀は自身に問う。一度誓ったはずだ。私の残りのこの命は、弥生を殺した仇を討つことだけに使う、と。時を刻む鼓動の音を耳の奥に感じながら、朱雀は左胸を抑える。
「連れて行って!」
 襖の向こうで龍香がそう声をあげた時、天上では雲が薄くちぎれて、満月が輝きを散らした。宿命的な光は窓から部屋に注ぎ込み、ついに朱雀の左胸に触れる。朱雀さま、そう呼ぶ声の方へ、朱雀は今、手を伸ばした。
 
第2幕 第6場
 明くる朝、龍香は母屋から西へと全速力で駆けていた。於菟の住む棟割長屋の一室を握り拳で激しくたたき、出勤前の家主を強引に起こす。明らかに不機嫌な様子で出てきた於菟は「おい、起こすなら超勤代を払えよ」と返事した。龍香はまったく気にしない。
「聞いて於菟! 朱雀さまが私に剣術を教えてくださるんですって!」
「はあ?」
 於菟は顔に冷や水をかけられたかのように目を覚ました。なんだって? 龍香は得意になっている。
「なんとね、昨日の夜約束してくれたの。朱雀さまは近いうちに私を連れて、玄鉄館にお帰りになるつもりだって。私、玄鉄館で志心流の稽古を受けるの。朱雀さまから」
「ちょっと待てよ。屋敷から出るのか? 朱雀さまと?」
「そう!」
「そりゃ無理があるだろ。いや、ほら、だって……。お、お前も一応は、一応、未婚の女子だろ? 一応な?」
 於菟は狼狽していた。
龍香が屋敷からいなくなる? そんなことがあってたまるか。俺は龍香に仕えてこの屋敷に置いてもらっているのであって、主人がいないと給金が……。そこまで考えて於菟は首を振る。違う、そういうことじゃなくて。俺には龍香が必要だ。いや、いや、出ていくわけがない。龍香が男と二人で旅することなど、俺以前に雅茂さまが許すはずないからな!
於菟はひとり合点して何度も深くうなずいた。
首を横に振ったり縦に振ったり忙しい於菟を眺めながら、龍香は飛び跳ねて喜んでいた。
「そこをなんとか父上に取り合ってくれるって! 朱雀さまが!」
「なんとかって……」
「どんな知略をお持ちなのかしら。ねえ、一緒に盗み聞きしてくれるでしょ?」
「なんで俺が……」
 言いながら、於菟は気になって仕方がなかった。朱雀は雅茂になんと説明して龍香を連れ出すつもりでいるのだろう。そんな交渉は無謀としか思えない。どこの世界に、娘を男との二人旅に出してやる親がいるっていうんだろう? しかも行き先は道場だなんて。道場で剣術を習うために男と家を出る? 朱雀さまは一体何を考えているのだろう。
「今日の昼過ぎ、父上のお部屋で話すんですって。一緒に聞くでしょ? だから今日は午後の仕事も午前中に終わらせておいてね!」
 龍香は於菟に無理を申し付けると大手を振り、軽やかな駆け足で母屋に戻っていった。
 まったく、と於菟は吐き捨ててぴしゃんと長屋の戸を閉めた。しかしどうやらこの話は無視できそうにない。
 
第2幕 第7場
 朱雀が「近いうちに玄鉄館に帰ろうと存じますが」と告げると、雅茂はやはりという顔をした。雅茂としては朱雀に悪感情はない。しかし臣下たちが朱雀をよく思っていないことはわかっている。朱雀がグリフィンを焼き尽くしたことに文句を言う臣下たちの気持ちはわかるが、雅茂としては龍香の命が助かっただけで十分だった。
「朱雀さま。娘の命を助けて下さり、なんとお礼を申したら良いやら……。何か礼を。なんなりとおっしゃってください」
 雅茂は侍らしく正座して頭を下げた。朱雀もそれにこたえて礼をする。
 応接間に面した廊下では、龍香と於菟が壁に耳を当てて息を殺していた。二人は向いあい、互いに表情を確かめ合いながら朱雀と雅茂の会話を聞いている。龍香はこれから起こる朱雀の計略を楽しみに目を輝かせていた。於菟は龍香が物音を立てぬよう見張り、定期的に眉間に皺を寄せては人差し指を自身の唇に当て「静かにしろ」と念を送った。しばらく部屋は静まった。朱雀も雅茂も黙っているらしい。龍香は壁に耳を強く押し付けたが何も聞き取れず、於菟に目で問う。なにか聞こえる? 於菟はかすかに首を横に振った。
 朱雀は正座した膝に両手を乗せ、切れ長の目尻を尖らせると、腰をまっすぐに立てて言った。
「では、龍香殿をいただきたい」
「……えっ?」
 雅茂は思わず素の反応をしてしまった。目の前に座しているのがグリフィンをも倒せる剣豪であることを思い出し、慌てて咳払いをして居住まいを正す。
「あ、あの、朱雀さま、それは、つまり」
「むろん、結婚の申し込みでございますが」
「あっ、え? いや、しかし……」
 雅茂はしどろもどろになった。
「娘は花嫁修業に一向励みません。料理も、裁縫も、恥ずかしながら一切できないという有様でございまして……」
「構いませぬ」
 朱雀は言い切った。雲母を散らしたような黒い瞳は、まっすぐに雅茂に向けられている。雅茂は朱雀の視線に妙にどきどきしたが腕を組み、低くうなってみせ、よくよく考えた。
なるほど。龍香にはまるで結婚をする気配が見られず心配していたが、相手が命の恩人である朱雀さまとなれば、話が変わるかもしれない。それに朱雀さまはグリフィンを一人で討伐できる侍のなかの侍だ。
雅茂がちらと顔をあげると、朱雀はまだ凛とした鋭い視線を雅茂に向けていた。雅茂は思わず顔を伏せてしまう。中沢家に来た初めの日から、利発そうに引き締まった男だとは思っていたが、こうして正座でさし向かうと、朱雀は実に硬派な侍だった。
龍香は壁に耳を預けたまま呆然と固まっていた。無音に過ぎてゆく時間の中で龍香はやっと朱雀の提案を理解し、震えだした。耳の奥では心音が遠雷のように響き、頬が急激に熱くなって目頭が潤んだ。どうしよう。どうしよう。どうしよう?
青くなったり赤くなったり忙しない龍香の横顔を見つめて、於菟は呼吸を止めていた。背骨に冷えた針をゆっくり差し込まれていくような心地がする。雅茂の部屋では、於菟が何度も夢に見たやりとりがなされているのだった。「構いませぬ。龍香殿がたとえ料理ができずとも、裁縫ができずとも。私は構いませぬ」。於菟が胸に秘め続けた言葉を今、朱雀が声にしていく。
龍香は突如立ち上がり、足音も気にせず廊下を走り去った。両足は力いっぱい木板を踏み切り、蹴り上げる。龍香の走る間、廊下の板は軋み続けた。於菟も負けじと龍香を追いかける。龍香、龍香、龍香! 胸の内で何度でもその名を叫んだ。しかしひとつも声にならない。
叫ぶことができたとして、龍香に追いつけたとして、於菟に何ができるだろう。龍香、結婚なんかするな! そう言えたとして、於菟の願いは叶うのか。龍香は侍の子で、於菟は百姓の子だ。侍の子は侍の子と、百姓の子は百姓の子と結婚するのが道理であって、龍香との結婚など、百姓の分際で於菟に望めるはずもない。
於菟の足先は冷えて感覚を失い、ついにつまずいて転んだ。龍香は廊下を曲がったらしい。姿が見えなくなってしまった。
 
第2幕 第8場
中庭に現れた朱雀は、地面にうずくまる龍香に「おい」と呼びかけた。
「知っていると思うが話はつけたぞ。盗み聞きをするならもう少し上手くやれ」
 朱雀は青い月代を右手で掻くと、左腰に帯びた太刀の柄頭に触れた。
 龍香は顔を上げて朱雀を見たが、紅潮した両頬をおさえてぱくぱくと口を動かすだけである。
 朱雀は落ち着かない龍香に半ば呆れながら目を細めて言った。
「そういうわけで剣術を教えてやる。私が出発するのと同時に、お前も玄鉄館に来い」
「あ、あの、朱雀さま。その話ですが、あの、きゅ、急に、そんな、結婚なんて」
 龍香は目が回ってきた。これまで「侍になりたい」と、ただそれだけで、誰かの妻になることなど考えもしなかった。これが面識のない適当な侍だったらきっぱり断っていただろう。しかし相手は朱雀さまだ。「花嫁修業とは結婚したい人ができた時のためにしておくものです」。ふいに母の言葉を思い出し、龍香は熱くなった頬を両手で隠して激しく頭を振った。朱雀はその様子を眺めて口をへの字に曲げる。
「勘違いするな! 私には全国各地に三十七人の妻がいる。お前が三十八人目だ!」
 朱雀は声を張り上げて腕を組み、すんと小鼻を鳴らす。
数瞬の後、龍香は膝からくずれ落ちた。
「なんだ……そういうこと……?」
龍香は「あああ……」とか「ううう……」という呻きをかすかにあげながら顔を隠してうなだれていた。
朱雀はおおげさに袴の裾を翻し、龍香に背を向ける。
「結婚をしなければお前は家から出られないだろう」
 龍香は顔を上げた。ああそうか、と思う。ここで朱雀にずっと稽古をつけてもらうわけにはいくまい。しかし家の外に出ようにも、未婚の龍香に長期間の外出など許されるはずもなかった。ということは。
「これは偽装結婚、ですか?」
「便宜的結婚だ」
「違いがわかりません」
「耳障りが違うだろうが!」
 朱雀は下唇に右手の人差し指を添えてあたりを見回すと「声が大きかったようだな」と呟いた。
あの岩陰で下手な盗み聞きをしているのは召使いの小僧か。まあ、あの小僧になら聞かれても問題はなかろう。中沢の臣下だとまずかったが。いかんな、もっと慎重にならなければ。どうもこの娘相手だと調子が狂う……。
朱雀は踵を返し、「旅の準備をしておけ」とだけ残して離れの方へと歩き出した。
まったく、慣れないことをして疲れたものだ。
口を尖らせ額から月代を手のひらで撫で上げる。
龍香は朱雀の仕草を眺めて口角を上げた。形式的とはいえ夫となる、不器用だが心根の優しい侍の広い背に向かって叫ぶ。
「連れて行ってください! 朱雀さま。私、」
 それが弥生の声に重なって聞こえて、朱雀は勢いよく振り返った。
弥生は同じことを言いかけたのだ。最期の時。弥生の命が失われる、その直前。聞けないままで永久に失われた、弥生の言葉。朱雀の心臓は急速に高鳴った。弥生に触れた指先の感覚がみずみずしくよみがえってくる。
「どこまでもついていきます!」
 龍香がそう微笑んだ時、大きく脈打った心臓が輝かしい熱を放ったのを感じて、朱雀は、高く透き通る空を見上げた。

続き→「侍少女戦記」 第3幕|青野晶 (note.com)

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