「侍少女戦記」 第6幕(全7幕)

はじめから読む→「侍少女戦記」 第1幕|青野晶 (note.com)
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■第6幕 第1場

明くる日、玄鉄は於菟を伴ってマシュー邸を訪れた。以前から約束があったのだ。

邸宅に続くゆるやかな坂道はアスファルトで舗装され、鉄製の門へ導く小道にはツツジが植え込まれている。敷地内には巻貝のようにカーブを描く坂があって、それをのぼった先にマシュー邸はあった。

古今折衷の異国様式を基調とした屋敷を見るのが初めてだった於菟は、無意識にぽかんと口を開けていた。於菟の生家とも、中沢家の奉公時代に借りていた棟割長屋とも、玄鉄館とも造りの異なる建築物を目の当たりにして、於菟はこんなにも立派な建物に人が住んでいるということを信じがたく思った。

マシューの邸宅は二階建てである。円孤状に迫り出したベランダの柱頭飾りは一階のポーチを支える柱とは微妙にデザインが異なっていた。ポーチの床は一面の市松模様で、外壁は白いタイル張りだった。玄関にたどりつくまでには階段をのぼらなければならない。偉い人というのはどうしてこうも高い場所に住みたがるのだろうかと、於菟は不思議に思った。

石階段を上り終えた先にドアがあった。木製ドアの上部にはステンドグラスが嵌め込まれている。火を灯したロウソクに絡まるオリーブの葉と、それを束ねるリボンが描かれていた。鮮やかな色彩の渦の中央に配置された縦長楕円のオリーブの実は透明に磨き上げられている。鏡みたいだ。

玄鉄はドアについた金の円環を握ってノックする。まもなくドアが開いた。於菟はドアの向こう側に現れるはずの男こそマシューだと予想したけれど、ドアを開けてくれたのは白い丸襟が付いた黒いドレスを着こなした女性だった。

「どうぞ」

玄鉄の顔を知っているらしいメイドは、微笑んで玄鉄と於菟を招き入れた。

邸宅の床は一面、赤色の敷物が敷かれている。絨毯というらしい。汚したら悪いと思って草履を脱ごうとした於菟に、玄鉄は「そのままでいい」と笑った。

足音は絨毯に深くきゅうと吸い込まれるように響く。二階へと続く階段の手すりは丸みのある木製で、艶やかに磨き上げられていた。壁は一面、金唐革紙である。白壁には炎のように舞う草花の模様が、ワニスの結晶に覆われて黄金に輝いていた。階段の踊り場の窓には巨大なステンドグラスがはめ込まれている。長方形の上に半円を積み重ねたような形をした窓で、オリーブの葉で形成したリースを、長い剣で貫くデザインだった。於菟の足元には翠の光がリースの形のまま落ちている。

二階広間のシャンデリアの下、淡いオレンジの光がぼんやりと漂うそこに、マシューはいた。四つ置かれた長ソファのひとつに深く腰掛けている。どうやら玄鉄を待っていたらしい。

「やあ、よく来たね玄鉄!」

近付いて来る足音に気付き、ひらりと身軽に立ち上がったマシューは玄鉄と似た黒服を着ていた。しかし素材や装飾は全然違う。マシューの黒服は玄鉄のそれに比べると身体にぴったりとして、簡素なデザインだった。その代わりに、胸ポケットにはツツジのような鮮やかなピンクのチーフがのぞいている。

マシューは玄鉄を足の先から頭の先まで眺めるとあっけにとられた。

「なんだ玄鉄、そんな恰好で来たのか! パーティーだって言っておいたのに!」

マシューはメイドを呼び止め「着替えを」と指示する。メイドは一礼して向こうへ歩いて行った。玄鉄は呆れたように「これでいい」と言う。マシューは碧眼を煌めかせて激しく首を横に振った。

「ダメダメ、もっとサムライらしいやつがいい。あっ、でも玄鉄がサムライルック嫌なら燕尾服でもいいよ。用意するから。ああメイドさん、燕尾服! 燕尾服を!」

マシューは大きな手を派手に打ち鳴らした。玄鉄は苦笑いでその手を制す。

「そういうことじゃない。それよりな、マシュー、お前ヒュドラを」

「私のヒュドラがどうかしたか?」

「脱走していた」

一瞬、マシューの表情が冷たく固まった。と、於菟は思ったけれど、そんなことは嘘であるかのように、マシューは大仰に笑った。

「まさか。あとで庭園を確認しておこう。『それより』はこちらのセリフだよ玄鉄。そちらさんは? 紹介してくれ」

話題をすり替えたな、と玄鉄は睨む。しかしここで争っても仕方がない。マシューはこの調子でのらりくらりかわすだろう。玄鉄は於菟と一度目を合わせるとマシューに向き直った。

「私の弟子だ。名は於菟と申す」

於菟は玄鉄の紹介を受けて頭を下げた。弟子、という言葉に胸をくすぐられた。にやけそうな唇を引き締めて顔を上げると、マシューがこちらに手を伸ばしていた。握手を求められているらしい。於菟がそれに応えると、マシューは上下に激しく腕を振り「よく来たね! 於菟!」と陽気に笑った。マシューの全てが、於菟には眩しすぎて目が回りそうだった。

「さあ、於菟もパーティーの衣装に着替えるといい」

マシューは強引に提案すると、於菟を着付け部屋に押し込んだ。

 

全身鏡の前に立った於菟は、自分の姿に眺めいった。マシューがデザインしたという「サムライルックの着物」は、紺と水色の二色を左右で割った陣羽織だった。見たこともない動物の柄が何種類も織り込まれている。全て西洋怪物だろうか。履くのは細袴だ。裾が広がらないから、どこかにひっかける心配がなく歩きやすい。

於菟は感嘆し、鏡をしばらく眺めた後、部屋を出た。草履も革靴に履き替えてある。絨毯を踏むきゅうとした音も、さっきより冴えたような気がした。

於菟が二階の広間に戻った時、マシューの隣には揃いの燕尾服に身を包んだ玄鉄が座っていた。白い手袋。塗り革の靴。玄鉄は普段から洋装をしているはずなのに、於菟にとって、なぜだかこの時ほど玄鉄が遠く感じられたことはない。黒燕尾の布地は滑らかに玄鉄の肢体に吸いつき、玄鉄を芸術作品に昇華しようとしているようにさえ見える。思わず足を止めた於菟に気付いたのはマシューだった。

「於菟! 似合うじゃないか。それは私からのプレゼントだよ!」

マシューは革張りのソファに腰を深く沈めたまま、左肘を玄鉄の肩に乗せて体重を傾かせ、右手でひらひら於菟を呼び寄せる。

「いいんですか!?」

駆け寄った於菟にマシューはウィンクする。

「もちろんだ」

於菟は頬の筋肉が綻ぶのを感じたが、玄鉄が面白くなさそうに腕を硬く組んでいることに気付いてすぐに表情を正した。

ふと、於菟はマシューと玄鉄の背景にある暖炉と、その上に置かれた時計に目を止めた。マーブル模様の大理石でできた暖炉は使われていないらしく、よく磨かれていて冷たい。グリフィンの翼とバラの花が立体的に彫られている。その上に、時計の置物があった。円形の文字盤を掲げあげる少女の置物である。文字盤の縁はブリリアント・カットのダイアモンドが隙間なくはめこまれていた。

「天使っていうんだ」

 於菟の見つめる時計にマシューは指さして言った。

「天使?」

「私の故郷には昔からいるけど、この国にはどうやらいないらしいね」

 天使の掲げる時計は午後十一時を示していた。マシューは立ち上がる。

「さあ、ガーデンパーティーに行こうじゃないか!」

鼻歌まじりにマシューは赤絨毯の階段を降り出す。それに距離をとって続きながら、玄鉄は於菟に「これも仕事だ」と耳打ちした。

 

■第6幕 第2場

レモンの木の向こうに、ツツジの低木群が山脈のように積み重なっていた。ツツジの花は株ごとに白、濃紅色、赤と、鮮やかに配色されている。ここからは見えないが、奥にはバラ園があるとマシューは言った。

庭園にはマシュー邸に仕えるメイドたちがもてなす出店が並んでいた。その中心には簡易的に組まれた舞台があって、三人の踊り子が音楽に合わせて舞っていた。

ほとんど裸にも見える踊り子たちは薄く白い布を薄い体躯に貼り付けるように纏っていた。腰のあたりで何枚も重ねた紗のような裳裾が揺れ動く。三人は同時に右足のつま先で立ち、左脚をまっすぐ後方に伸ばした。そうかと思うと次の瞬間には脚を前方に振り上げ、軽く膝を曲げて柔らかな曲線を見せる。素早く細かい足さばき。小さく跳びあがって両足を打ちあわせる。踊り子たちは片脚軸で独楽のように回転したり、跳躍したり、お互いを持ち上げたりした。異国の神話を物語るように、三人は音楽に合わせて短い裳裾をひらめかせる。

「あれは詩のカリオペ、劇とマイムのポリヒュムニア、舞踏のテレプシコレ。バレエを見るのは初めてかな?」

マシューは金髪を陽の光に輝かせ、底の深い碧眼を於菟に向ける。於菟は「えっと……?」と呟きマシューを見つめ返した。

「あの踊り子たちは……いったい……?」

於菟は舞台で踊る小柄な少女たちを指差した。見たこともないほど美しい形をした人間だと思う。いや、もちろん龍香ほどではないけど……。

「バレエ芸術のミューズだよ。君たちはこう呼んでいるそうだね」

マシューは笑顔を崩さぬまま於菟との距離をぎゅっと詰めた。

「西洋怪物、だっけ?」

刹那、於菟の腕にはハーピーを斬った感触がよみがえった。閃く切っ先が羽根に覆われた肉を切り開き、重力に従って物打ちが通る爽快感。命を奪った時に思った「やった!」。

これが同じ西洋怪物……?

於菟の脳裏には安凪の姿もよぎった。そうか、ミューズと呼ばれたあの者たちも西洋怪物の一種であるなら、安凪さんだって西洋怪物でもおかしくはない、と思う。しかし於菟はミューズたちや安凪を斬ろうなどとは思わない。

他の来客を歓迎しにマシューが立ち去ると、於菟は玄鉄におずおずと尋ねた。

「玄鉄さま、西洋怪物には、斬るべきものと、そうでないものがいるのでしょうか?」

「わからない」

 玄鉄は庭園の端にあった巨大な二枚貝の殻に腰掛けると、出店で振る舞われた西洋料理を於菟に分けた。黒い皿には魚介の出汁で炊いた米が盛られている。肉、エビ、白身魚、異国の野菜らしきものなど、色とりどりの素材が散りばめられていた。味は濃くて油っぽいが、レモンを絞ればいくらでも食べられそうである。

「しかしこうしていると、西洋の文化がこの国に入ってくることも悪いことではなかったのではないか、と思ってしまうことがある」

玄鉄は異国の料理を咀嚼し、小さな盃で酒を飲んだ。見慣れないものを見る目つきの於菟に、玄鉄は微笑む。

「白い葡萄からできる酒だそうだ」

於菟は玄鉄から杯を受け取ると一口飲んだ。きりっと舌の先を刺す酸味と鼻に抜けていく果実の香りが心地よい。肉と魚介で炊いた米とよく合う酒だ。

庭園に広がるツツジの植え込みの奥から、マシューがグリフィンの手綱を引いてきた。良く晴れた庭園の青くみずみずしい草原に、優雅な足取りでグリフィンが来る。村人たちの歓声が広がった。

「於菟、試しにグリフィンに乗ってみないか?」

 マシューは手招きする。村人たちは於菟を見て拍手で道を開けた。

「行ってくるといい」

 玄鉄は於菟にささやく。於菟は高揚を自覚しながら、青く光る芝の上を歩きだした。マシューから手綱を受け取る。グリフィンは生きた赤い宝石のような瞳でマシューと於菟を交互に見ると、地面に伏せた。

「良い子だ」

 マシューはグリフィンの耳羽根に唇を寄せてささやく。於菟は目を丸くした。

「人間の言葉がわかるのですか?」

「どうだろうね。でもある程度はわかるんじゃないかな。我が国では犬と同じくらい太古から愛されてきたペットだしね」

 於菟は玄鉄が言っていたことに信憑性を感じた。西洋の異国と戦争することになれば、敵は必ずグリフィンを使う。確かにそうなのだろう。そしてこんなものを使われてはまったく勝ち目などない。刀ではどうこうしようがない……と思うが、朱雀はこれを刀で討伐したのだった。

 使いこなすこと。それと同じくらい、どう勝てばいいかを知ること。その両方が大事だという玄鉄の考えに、やはり異論はない、と於菟は思う。

 於菟は伏せたグリフィンの背にまたがり、グリフィンの首の背を撫でた。羽根に覆われたグリフィンの首は白い。太陽の光を吸収して、羽根の芯だけは黄金に燃えていた。硬質な羽根は風に揺れてこすれ合い、かすかに雅楽的な音色を奏でる。グリフィンの背は筋肉が複雑に隆起して暖かく、毛並みは思っていたより柔らかだった。宝石をすいて作ったような透明な和毛は冷ややかだが、毛皮の下で筋肉が熱を帯びているのがわかる。

 グリフィンが立ち上がった。急にぐっと目線が高くなる。於菟は緊張した指先で手綱を握り締めた。

「すばらしいだろ?」

 下からマシューの声が聞こえる。しかし畳まれたグリフィンの翼の影に隠れてマシューの姿は見えない。それでも於菟は「はい」とうなずいてみせた。グリフィンがゆっくり草の上を歩き始める。

於菟の腿の内側ではグリフィンの筋肉がカラクリのようにうごめいていた。慣れない騎手のためにグリフィンは気を遣っているらしい。火炎を閉じ込めたような丸い瞳がたびたび於菟の様子をうかがってくる。賢いな、と於菟は思わず呟いた。

「於菟! 友好の印に、それをもらってくれないか?」

 背後からマシューの声が聞こえる。庭園は人々の笑声と拍手に満たされた。新しく運ばれてきた料理のにおいがする。舞台では次の演奏が始まる。ミューズたちは疲れ知らずに踊り続けていた。

やっぱり、西洋怪物は斬るべきではなかったのかもしれない。

そう思ってしまったことに、於菟は自分でも驚きを隠せなかった。しかし……とも思う。ハーピーを斬らなければ、ヒュドラを斬らなければ、龍香を失うことになったかもしれない。それでもやっぱり今の於菟にはっきりとわかるのは、「西洋怪物の討伐は完全な正義ではない」ということだった。

於菟は本当のところ怖い。ここに集う人々がいつか、いや、すでに、西洋怪物を「善なるもの」として受け入れ始めているのではないかということが。もしそうだったとしたら、西洋怪物を討伐してきた自分たちはどうなるのだろう。間違っていた、ということになるのだろうか。

早足になったグリフィンは庭園を回走する。やがて「飛んでもいいか」と確認するように、グリフィンは何度か於菟を振り返った。畳まれていたはずの翼はふくらみ、柔らかくほころんでいく。於菟は手触りで、熱で、においで、羽根のこすれる音色で、グリフィンの強さを感じた。グリフィンを知るほどに、於菟の心は震える。こんなにも強大なものに、龍香は枝一本で立ち向かったのだ。於菟を守るために。

あいつはまことの侍だ。

俺は龍香からあまりにも遠い、と於菟は思った。初めて会った時から今日までずっと。於菟の行く手に、今にも龍香が立ちふさがる気がした。サンザシの枝を握った、あの日の龍香が。於菟がその幻影を見そうになった時、グリフィンは地面を蹴り、天へと高く飛びあがった。

 

■第6幕 第3場

朱雀の家は都の裏通りにあった。簡素な造りの門構えは黒い瓦に覆われている。木戸は雨の滴る跡をなぞったように薄く苔むしていた。屋根の裏側には蜘蛛の巣がかかっている。足元では粗粒の砂利が鳴った。玄関の大戸のすぐ左手には出格子の窓がある。朱雀が大戸を引くと、玄関の向こうには、縁の黒い畳が敷き詰められているのが見えた。

龍香は朱雀と結婚して以来……いや、中沢家を出て以来、朱雀も龍香も玄鉄館で別々に寝泊まりしていたから、朱雀が家を持っているとは想像していなかった。龍香は意外な心地で家の中を見回す。

家には生活に必要な何もかもが完璧にそろっているのに、一番大事な何かが欠けているように静まり返っていた。生きていない部屋、と龍香は思う。長く人の住んでいない家はそうやってひっそり「生きていないもの」になってしまう気がする。それをよみがえらせるために龍香は今、ここに立っているのかもしれなかった。

「龍香、よかったのか。私についてきて」

 寝室に布団を敷きながら、朱雀は龍香に背を向けて問う。

「於菟と一緒でなくて、いいのか」

 部屋は暗い。それは日が暮れたせいだけではなくて、空間にしみついた影が消えないからなのだと、龍香は思った。朱雀の問いは形を持たないままで影に吸収されてしまう気がする。龍香はそれを逃さないために、なかったことにしないために、心で、言葉でつかまえる。

「朱雀さま。私は誓いました。私たちの旅立ちの日に。どこまでも、ついていきます。私を侍と認めてくれた、ただひとりの朱雀さまを置いて、いったいどこへ行けというのです」

 龍香がきっぱりと答えた直後、朱雀は胸を押さえて布団に倒れ込んだ。肩が激しく上下している。

「朱雀さま!」

 龍香は駆け寄り、朱雀の背をさすった。朱雀の背に触れて、龍香は瞳が潤っていくのを感じた。

 朱雀さま、もしかして、お痩せになったのではないですか。

 ヒュドラ討伐の時にも朱雀はこうなったのだ。その時も同じように、龍香は朱雀をさすった。その時の筋肉の硬さを、厚みを、龍香はしっかり覚えている。

今、指先で感じる朱雀の背は硬い。しかしそこに厚みはなく、この硬さは、骨のものではないかと思うのだ。怖くなって、龍香は指を離す。朱雀は息を切らして龍香を見上げると微笑した。大丈夫だ、と言いたげだが声にはならない。その表情はなんだか、子供のように思えた。

朱雀さまは、本当は今でもまだ十歳の子供なのかもしれない。魔法か何かで、無理やりに大人の姿に変えられてしまっただけで……。

龍香は母になった気で、朱雀の背を抱きしめる。耳を押し当てると、朱雀の心臓は不規則に早鐘を打っていた。

「大丈夫だ。薬を飲めばすぐにおさまる」

 朱雀はようやくそう言って体を布団に横たえた。懐に手を伸ばし、印籠を探る。龍香がくっついている背中はずっと温かかった。温もりの中で、朱雀はまどろむ。寄り添う龍香の健康的な心音が、朱雀に正しい鼓動の仕方を教えてくれた。

 朱雀が寝息をたてていることに気付くと、龍香は寝室を抜け出した。懐に入れておいた小瓶を、龍香は手に取ってみる。秀夜からもらった、空の薬瓶だった。

 ヒュドラの毒をとりにいこう。

 龍香は提灯をひとつ握ると家を出て、夜の森に向かった。

すれ違う人々の日常が、龍香には恨めしかった。今日のような一日がまた明日も続くと信じられることが、こんなにも羨ましいと感じられたことはない。朱雀さまに、今日と同じ明日はあるのだろうか。そんなことを考えると、龍香は不意に孤独を感じてしまう。考えたくなどないのに。雑踏を抜け、王宮に続く大通りを外れて、提灯を片手に森へ入っていく。龍香は朱雀からもらった勇気を胸に灯し、太刀の巻柄をぎゅっと握りしめた。

 川のせせらぎとフクロウの鳴き声の響く森で、ヒュドラの死体は岩のように転がっていた。燃え残っている牙がないか、龍香は注意深く確かめる。やがて龍香の肘から指先まである長さの牙を一本見つけた。蛇の頭はグリフィンの炎で焼き尽くされ、炭化している。龍香は見つけた牙に手拭いを巻きつけて握った。深く息を吸うと手首を左右にひねりながら、ヘビの上顎から牙を引き抜く。焦げ臭い。提灯で牙を照らすと、牙の中には細い空洞があって、その中に、黄水晶にように輝く液体が入っていた。

 ヒュドラの毒だ!

 龍香はゆっくりと牙を傾け、中の液体を慎重に小瓶に注ぎこんだ。猛毒だと聞いたから、栓をした瓶は川に持って行った。手を滑らせないよう気をつけて、瓶の外側を川の水に浸し、手拭いでこすりながら洗う。作業が終わった時にはもう、朝が来ていた。

 この毒から、朱雀さまの病気を治せる薬が作れるかもしれない。

 龍香は冷たい小瓶を両手で持って朝日にかざした。黄金に透ける毒液は小瓶の中で揺れている。ガラスの小瓶にはまだ拭われていない水滴がついていて、龍香はそれを丁寧に拭った。

川面の光は稲妻で割られた鏡のように美しかった。光はそのまま龍香の目を通し、胸に落ちる。龍香は希望と小瓶を懐に入れて、玄鉄館へ、秀夜のもとへと走り出した。

 

■第6幕 第4場

朝、於菟は全部が夢でないことを確かめるために玄鉄館の中庭へ足を運んだ。

玄鉄館の敷地を四角く囲うのは竹で編んだ柵だ。柵の手前には桜、紫陽花、紅葉、松の木を植栽してある。中庭に広がる芝生の上には細い散歩道が切り拓かれ、蛇行や枝分かれをしていた。右手の向こうには四阿と雪見灯籠が見える。どこからか鹿おどしの流水音が聞こえた。草の青いにおいがする。於菟は粗粒と小粒の入り混じる砂利道を踏みしめて歩んだ。

中庭の中央では、一頭のグリフィンが地に伏せて眠っている。朝露が羽根の一枚一枚を煌かせていた。グリフィンの頭には、ミミズクのように耳に見える羽根が立っている。それをひくひく動かすと、まぶたを上げた。こちらに歩いてくる於菟を認めるなり、グリフィンはすっくと立ちあがる。猛禽類を思わせる黄金の前脚を太陽で照り輝かせ、獅子の後ろ足で伸びをした。両翼をはためかせて風を起こす。おはよう。於菟にはそう言っているように思えた。

於菟はグリフィンに近寄っていく。昨日、マシューからもらった左右で色の違う陣羽織を着て。於菟が目の前に立つと、グリフィンは広げた翼をたたんだ。於菟が背に乗ると思っているらしい。

於菟は太刀の柄と帯をくくる組み紐を解き、手綱の代わりにしてグリフィンの首輪に結び付けた。そうか、と不意に思い当たる。ヒュドラ討伐の時、玄鉄もきっとこうしたのだ。弥生さんの墓を守るグリフィンを指笛で呼び寄せ、こうして首輪に紐を通して手綱の代わりにして……。於菟は玄鉄になった気分でグリフィンの背に乗る。手綱を握り締めると、グリフィンは黄金の前脚と、獅子の後ろ足で立ち上がった。

飛べ、と言ってみる。通じるのだろうか。わからないけれど。於菟が不安になったのも一瞬のことだった。グリフィンは強靭な四肢で助走をつけると、両翼で突風を起こし、見えない流れに乗った。於菟の陣羽織は青い風になったようにはためく。高度はぐんぐん上がっていく。朝の陽ざしが近かった。

「すごい!」

於菟は叫んでグリフィンの首を撫でる。硬い羽根がしゃらしゃら歌った。

 こんな西洋怪物を扱いこなせたら、どんな敵だって倒せそうだ。

 於菟は純粋に力を手に入れたことが嬉しかった。空から見れば、村は本当にちっぽけだった。向こうに見える都は立派に栄えてはいるが、王宮ほど豪奢な建物はないし、その王宮だって、天から見下ろせば小さな模型にすぎない。夢の続きみたいだ。

 まだ誰も起きていない朝だと思ったのに、森の方から少女が走ってくる。黒い羽織に黒い裁付袴、赤い帯を締めた少女は腰に太刀と小柄を差して……。

「龍香!」

 於菟が叫んで手綱を引くと、グリフィンは翼を緩やかに上下させて高度を下げた。

 玄鉄館に続く道を走る龍香は、於菟の呼び声に気付いた。声は上空から聞こえる。眩しい風が一陣二陣と吹き抜けて、龍香は足を止めた。目の前に降り立ったのは太陽の化身のようなグリフィンだった。黄金のくちばしとかぎ爪は爽涼とした空気に磨かれ、獅子の身体は透き通るように発光している。羽根で覆われた鷲の頭も、背中から天に伸びる両翼も、白に金に目まぐるしく色を変える。その羽根の茂みの中から、於菟が顔を出した。

「龍香、どうしたんだ?」

 於菟が龍香に話しかけていることに気付くと、グリフィンは地に伏せた。賢いな、と於菟はグリフィンの首を撫でてやる。

 

 龍香は唖然としていた。

 於菟が、グリフィンを乗りこなしている……?

 しかし龍香の驚きはそこでとどまらない。グリフィンの翼に隠されていて気付かなかったが、於菟は異国風の陣羽織を着ていた。紺と水色の布地を左右でぱっきりと割ったもので、柄に使われている動物は……見たことがない。西洋怪物をかたどったものだろうか。袴も見慣れたものではない。異国風の細袴だった。

 於菟、どうしてこんな……。

 龍香は裏切られたような気分になった。

「戻ってきてくれたのか?」

 グリフィンの背から降りた於菟は淡い笑みを浮かべて龍香に尋ねる。龍香はハッと、今はこんなことを考えている場合じゃない、と気を持ち直した。

「朱雀さまが、朱雀さまが!」

「朱雀さまが、どうかしたのか?」

「お体の具合が悪いの。このままだと死んでしまうかもしれない、と思って。それで、秀夜さんに薬を」

 言いながら、龍香は泣き出した。ずっと不安だったのだ。於菟の顔を見て、なんとかなるかもしれないと思った。全部を聞いてほしかった。朱雀さまを失うのが怖いこと、ひとりでヒュドラの森に戻ったこと、猛毒をこれから薬に変えてもらうこと。龍香、よくここまで頑張ったな、と、肩を抱いてほしかった。

 於菟はグリフィンにつないだ手綱を握り締める。再びグリフィンの背に乗ると、龍香に手を差し伸べた。

「乗れよ。玄鉄館まで送る」

 龍香は頬を拭うのをやめた。ところがその手は於菟の手を取らない。早く、と於菟は催促したが、龍香は屹然として答えた。

「いやよ」

「は? 何言ってんだよ?」

「朱雀さまの仇を頼るわけにいかないじゃない!」

 龍香は心臓が高鳴るのを感じた。

 西洋怪物は朱雀さまの仇だ。それを一匹残らず斬るために、朱雀さまは玄鉄さまとさえ離れる決心をなさった。

私は朱雀さまについて行く。私だけは、朱雀さまの味方でいる。

そう決めたのだ。それなのにどうして、グリフィンの背に乗ることができるだろう?

 龍香は激しく首を横に振る。

 於菟は腹の底で怒りが燃えるのを感じた。

「敵じゃない。グリフィンは無実だ」

 しかし龍香も退かなかった。

「於菟、忘れたの? 私たちだってグリフィンに襲われたことがあるじゃない!  朱雀さまが助けてくれなければ、私たちだって今頃」

「グリフィンには墓を守る習性があるんだ。あのグリフィンは俺の親父の墓を守ってくれてたんだよ。グリフィンは俺たちを墓荒らしだと勘違いしただけだ! それなのに朱雀さまは……」

「朱雀さまや私たちがやってきたことは全部間違っていたというの? ハーピーを倒したことも、ヒュドラを倒したことも」

「そんなことまで言ってない」

「同じことじゃない!」

龍香はそう叫ぶと、於菟を通り過ぎて玄鉄館の方へと走り出した。於菟は何度も龍香を呼ぶ。しかし龍香は振り返らなかった。於菟の中で煮えたぎる怒りは、理不尽な言葉になって噴出した。

「朱雀さまには想い人がいるんだ!」

これは自棄だ、と於菟は思う。しかし急騰した怒りを押しとどめられなかった。

「龍香、お前だって本当はわかっているんだろ? 朱雀さまが何度も名前を出していたじゃないか。弥生さんだよ。弥生さんはもう亡くなってる。けれど朱雀さまは、お前よりも先に弥生さんと結婚の約束を」

 龍香は踵を返し、駆けて戻ってきたかと思うと於菟の陣羽織の合わせの胸を両手でつかんだ。龍香の瞳には涙がよみがえる。於菟はたまらなくなって叫んだ。

「龍香、俺にしておけ! 朱雀さまのことなんか忘れて、俺にしておけ! 俺が必ずお前を守ってみせる!」

「私は」

 龍香は両目にたまった涙をはらりとこぼすと、赤い目のまま凛と頬の筋肉を締めた。

「守られるために侍になったんじゃない」

 龍香は太刀の柄を硬く握りしめて、玄鉄館に背を向けて走り出した。今すぐに朱雀に会いたかった。後方に飛んでいく景色が涙に滲む。滲んではこぼれて、景色は輪郭を取り戻し、また歪んだ。夜から動かし続けた足はもう感覚がない。それでも都のあの家に戻りたかった。朱雀との時間が少しでもほしかった。

 於菟はグリフィンに乗ったまま、小さくなっていく龍香の背を見つめる。追わなくていいのか、とグリフィンは心配そうに於菟を見た。しかし於菟は指示を出さない。グリフィンの羽根に埋もれて、朝の陽ざしの輝きが増してくるのを、於菟はただじっと待っていた。どうしてだ、と於菟は思う。紅葉の光るあの日、龍香に出会ったあの日から、紅葉の火は於菟の胸に燃え移って消えない。

 龍香を守りたいと願うことは間違っているのだろうか? 大事な人を守るために侍になりたいという思いは、龍香と同じであるはずなのに。どうして伝わらない。無理だということは初めからわかっていた。それなのにどうして、俺は龍香を諦められない。龍香、どうかわかってくれ。どうか俺の心のひとかけらでいい。間違っていると言われても、俺は俺のすべてをかけてお前を守る。どうかいつか気付いてほしい。お前の想う朱雀さまの影に、俺がいるということを。

 於菟は奥歯を噛みしめ、ぎゅっと瞳をつむって太刀の柄頭を握り締めた。

 

■第6幕 第5場

 走りながら、龍香の涙の意味は少しずつ変わっていった。怒りと不安と他にどう言い表せばいいのかわからない感情が複雑に絡み合って、一雫の涙になり、筋を描いて頬から空中に消えた。

龍香は朱雀を信じたい。たとえ弥生の代わりであったとしても、朱雀は龍香の恩人だ。「侍になれない」と言われ続けた龍香を、まことの侍だと認めてくれた、たった一人の侍なのだ。朱雀に弥生という婚約者がいたところで、その事実は揺らがない。朱雀が西洋怪物を追う理由が弥生の敵討ちであったとしても、龍香はそれに協力したいと思う。尊敬する師の志を支えるのも「まことの侍」であると、龍香は信じた。

朱雀さまが死んじゃったらどうしよう。

ヒュドラの毒瓶を持ったまま道を引き返してしまった龍香は、雨雲が体中に凝り出すように感じた。感情的になるんじゃなかった、と今更思う。於菟のことなんか無視して玄鉄館に走ればよかったのだ。

それなのにどうして私は……。

龍香は懐の内側で小瓶の毒がとぷんと揺れるのを感じた。ヒュドラの毒は龍香の懐で揺れ続けていた。

 

日の暮れだした都の表通りは幸福な人々の笑いにあふれて走りにくくて、龍香は裏路地に入った。この道の先に朱雀の家がある。龍香の帰るべき……。

引き戸を勢いよく開ける。龍香は擦り切れた草履をひきずり、息を切らせて寝室の襖を開けた。朱雀が額に脂汗の珠を浮かべて、荒く呼吸を繰り返している様子が脳裏に貼りついていたから。

ところが朱雀は、すっかり布団を畳んでいた。畳の上で胡坐をかき、呼吸の音も立てないほどに凛として書を読んでいる。日は暮れだしていたから、窓から差し込む光は弱い。朱雀は眉を歪め、墨字を見つめていたけれど、龍香の帰宅に気付いて顔を上げた。

「龍香」

 その声の抑揚があまりにも普通であったから、龍香は膝の力が抜けてしまった。生きていた。それも、こんなにも普通に。龍香は安堵のあまりに口がきけなかった。

 朱雀は龍香の着物に泥が跳ね、木の枝をひっかけたようにほつれていることに気付いた。龍香の手には、破れて使い物になりそうにない提灯が握られている。いったいどこで何をしていたのやら……。朱雀は弱々しく笑った。

「龍香、どうした。知らないうちに出て行ったから、もう帰らないのかと」

 朱雀が読んでいた書を畳に置いた時、龍香は畳の上に這い上がり、朱雀の胸にすがりついた。

「朱雀さま! 私が気付いていないとでもお思いですか! 私は、私は初めから、弥生さまの代わりなのですか!?」

 全身に満ちた思い黒雲が一気に凝縮されて、瞳から雨があふれた。

 朱雀は薄い唇を引き結んだ。龍香の赤い頬を眺め、汗でからまった髪を指先ですいてやる。

「だから、初めに言っただろう。私には全国に三十八人の妻が」

「嘘です。一人です。弥生さまおひとりです。一人だから許せないのです」

 龍香は朱雀を押し倒しそうなほどに強く、その胸に額を寄せた。朱雀は拒まない。夕日の残照は次第に弱くなる。それでも部屋は、昨日より少し、「生きていないもの」から遠ざかった。家は二人の住む、生きた空間になっていく。背に回された朱雀の手のひらから生きているものの温もりを感じて、龍香はそう思った。

「話しておくべきだったのかもしれないな」

 朱雀は龍香の背中を繰り返し撫でてやる。昨日、龍香がそうしてくれたように。そうして朱雀はようやく、この小さく輝かしい運命と向き合うことに決めたのだった。

「私は生まれながらに心臓病を患っていた。十歳の頃に森の中の空気の澄んだ病院に入院することになって、その時に同じ病室で出会ったのが弥生だ。弥生はまだ八歳だった」

 目を閉じれば手に取るように当時のことを思い出せると、朱雀は信じていた。けれど、今はそうする必要もない。思い出よりも大事なものが、今ここにある。

「私たちは一年同じ病室で過ごした。弥生は私よりも重度であったから、私の方が先に退院したのだ。症状がよくなっても、私は病院に通った。弥生に外の世界のことをいろいろと教えてやりたかった。弥生は生まれてから一度も、病院を出たことがなかったから。それから十年が経って……私は弥生に結婚を申し込んだ。弥生の命は永くないと見えたが、私たちは残りの時間を共に過ごそうと決めた。ところが病院を出る前夜、弥生は西洋怪物に殺された」

 弥生がケルベロスに噛まれた夜、朱雀は心臓が変に鼓動するのを感じて目を覚ました。何か不安で病院に駆けだした。病院に着き、窓際に回ると、弥生の部屋の窓が開いていた。嫌な予感がした。病室に忍び込んだ朱雀は弥生を看取り、朝が来るまで茫然としていた。

「私は腹を切って死のうと思った。そこに現れたのが玄鉄だ」

「玄鉄さまが……?」

「ああ。小刀を奪われてな」

 朱雀が肌脱ぎになり、横腹に小刀を当てた時、玄鉄が窓から飛び込んできた。玄鉄は朱雀から小刀を奪い取ると正座して深く頭を下げた。そして言った。「私と戦ってくれ」と。

「弥生の命を奪った西洋怪物を協力して討伐しようと持ち掛けられた。私は弥生の敵討ちのために生きてきたようなものだ」

 龍香、お前に出会うまで。

 朱雀は言葉を飲みこむ。しかし言わなければならない。朱雀は心を決めた。

「弥生が死んだ日、私は、朱雀という人間も同時に死んだのだと思っていた。しかし龍香、お前が現れた。お前に出会って、私の心臓はもう一度鼓動した。私に救いをくれたのは龍香、お前だった。お前こそが私を死の淵から救ってくれた。龍香、私は」

その時、地響きが家を揺らした。表通りで人がわっと悲鳴をあげて、四方八方に駆けだす。龍香と朱雀は顔を見合わせ、窓の外に目を向けた。都の家々に混乱の灯っていく気配がある。どこからか、犬の遠吠えが続けて三つ、夜の底に轟いた。

 

■第6幕 第6場

 マシューは人魚を伴って空へ舞い上がった。グリフィンの腹には人魚を縛りつけてある。マシューはグリフィンの背で手綱を握っていた。人魚は時折不安気にマシューを見上げながら、手琴を奏でて歌う。地上のケルベロスに呼びかけるのだった。私たちについてきて、と。地上では森の中を、ケルベロスが駆け抜けていく。

ひとつの胴体を共有する三頭の犬は黒い毛並みを夕陽に艶めかせていた。筋肉でぎっちり締まった四肢は、力強く地を蹴り上げる。そのたびに鋭い爪が土に食い込み、通り道にはその爪痕が残った。

人魚の歌に導かれ、ケルベロスは木々を避けて走る。しかし前方に行く手を遮る岩が出現して、ひたと足を止めた。のぼれそうである。ケルベロスは半歩下がると後ろ足に力を溜め、前足の爪を剥き出して岩につかみかかるとよじのぼって行った。ケルベロスの重みに耐えかねて岩は崩れる。その様子を、マシューは上空から眺めていた。

なんだ? ただの岩ではないな。

崩れた岩はさらさらとして軽い。ケルベロスが踏み潰せば粉になってしまう。ケルベロスが岩を踏み荒らすほど、焦げくさいにおいが深まり、煤が舞い上がった。やがてマシューは気付いた。これは全ての頭を落とされたヒュドラだ。それも炭化するほど焦げてしまっている。

「サムライか」

マシューは舌打ちした。この国にたいした軍事力はないと踏んでいた。しかしサムライと呼ばれる戦士は、研ぎ澄まされた精神力と刀で怪物にさえ立ち向かってくる。まったく信じられない、とマシューは首を振った。

侮れないな。ミスタ玄鉄。大事をとって計画してきてよかったよ。

マシューはケルベロスに崩されていくヒュドラの亡骸を眺めて息をついた。

 

■第6幕 第7場

王宮に着くなり、マシューは用意されていた深い水瓶に人魚を入れてやった。人魚は手琴を弾き続ける。歌声は王宮の庭に芳しく満ちた。ケルベロスは人魚の歌に従い、砂利の上に三つの頭を伏せる。尻尾の蛇もしっかり口を閉じてとぐろを巻いた。

「これは……」

昼が灼け落ちてすみれ色の夜が煤け始めた薄暮に、まだ夕陽の温度を含んだ庭園には国王が姿を現した。召使いたちは巨大な鉄製の檻を運んでくる。底の深い人魚の水瓶はその隣に置かれた。マシューは人魚に「ケルベロスに檻に入るよう指示してくれ」と命ずる。人魚は詩を変えて琴の弦を弾いた。

 マシューは国王に向き直って礼をする。

「先日話した、陛下がご所望のケルベロスです。我が祖先が冥界より連れ帰り、従えてきた犬の末裔でございます。上質な音楽のしもべです。人魚がハープを弾く限り、大人しくしています。これが一頭あれば玄鉄に与えたグリフィンなどたやすく」

 その時、琴の弦が不自然に振動し音楽がやんだ。マシューは振り返る。その場の全員の視線が人魚に集まった。人魚はハープを取り落とし、左手で右手首を強く押さえている。指の隙間から血が滴っていた。水瓶が深すぎるのと、怪我をしているのですぐに琴を拾い上げられない。人魚の手首を覆う硬鱗が割れていた。

人魚の円鱗は薄いゼリー状の膜で保護されている。長時間外気に晒せば膜は乾燥してしまうのだった。保護膜がなくなってもハープを演奏し続けた場合、いつか必ず鱗は割れる。

人魚がハープを地に落とし、割れた鱗が皮膚に食い込む痛みに歌をやめると、ケルベロスは目覚めた。四肢に繋がれた鎖は金属でできた嵐のようにうなりをあげ、檻はただ決壊の運命を待つのみという様相で波打っている。

その場の全員が一目散に逃げだした。人魚に構う者はいない。檻に背を向けて走り出したマシューは指笛を吹く。すると庭園で羽を休めていたグリフィンが、翼をぴんと伸ばして上下させ、風をとらえてマシューの元へ舞い降りた。手綱はつけたままである。マシューはひとりでグリフィンの背にまたがると、グリフィンにすがる国王と召使いたちを蹴落として空へ退避した。グリフィンは涼し気に高度を上げていく。

「マシュー、はかったな!」

 地上では国王が叫んでいる。しかしもう構うことはない。マシューは悠然と手を振る。檻を破壊したケルベロスが国王に挑みかかるのを、マシューは上空から見届けた。

 

 ケルベロスは王宮の庭で殺戮の限りを尽くすと、一頭ずつ順に遠吠えした。庭園を囲う塀を超え、城下町へと猛進する。目の前を遮るものは無差別に破壊した。想像以上に上手くいったな、とマシューは上機嫌に口笛を吹く。

港からケルベロスを走らせれば反撃にあうだろうが、この国にどれだけの戦力があるかもわからなかった。ケルベロスを無傷で都に解き放てたのは幸運だった、とマシューは思う。玄鉄と丁寧に表向きの友情を築いた甲斐もあったということだ。あまりにも思い通りになるので、マシューには玄鉄も国王も愚かしくてこみ上げる笑いが止まらなかった。

「壊し尽くせ!」

マシューは夜の迫る空からケルベロスに命ずる。ところがケルベロスは内より溢れる破壊衝動に忠実なだけで、マシューの指示に従っているわけではなかった。ケルベロスの尾である蛇が牙をむいてグリフィンに襲いかかってくる。間一髪、グリフィンはその猛攻を避けた。ケルベロスの犬たちは前方の障害の全てを爪で引き裂き、鮫のような歯で噛み砕く。瓦礫の下で人間たちは喚き続けた。ケルベロスの尾の蛇は執念深くマシューとグリフィンを狙っている。腹が空いているのかもしれない。ぬめるように動く鱗はひとつひとつに厚みがあった。蛇というより龍に近い。手足のない龍は空中でうねり、鋭い牙を光らせて獲物を狙い続ける。

「まずい……!」

グリフィンは尾の蛇から逃げることに必死になって、ケルベロスの頭の方へ躍り出てしまったのだ。鼻先に現れたグリフィンの翼に、中央の犬が噛み付いた。


■第6幕 第8場

木材と瓦の瓦解音に気付いた龍香と朱雀は、慌てて戸口へ飛び出した。四方八方から瓦礫の破壊音がする。人々は叫び、泣き、どちらへ逃げれば良いとも判断のつかないまま駆け回っていた。龍香は顔を上げる。夜の一部だと思っていた黒い艶は、ケルベロスの和毛だった。

三つの頭を共有する一頭の巨大な黒犬が、家々の屋根を踏み潰していく。三つの頭は白い翼の鳥を噛み、奪い合っていた。

鳥……?

それにしては大きすぎる気がして、龍香は目を細める。やはり、鳥ではなかった。

「グリフィン……!」

龍香は身体の底から恐怖が湧き上がってくるのを感じた。

ケルベロスが呼吸をするたびに、グリフィンの羽根は粉々にばらけて空中に舞う。グリフィンの強靭な翼はケルベロスの吐息の風圧に耐えられず折れて、散っていく白金の羽根には血飛沫がまじった。ヒュドラを寄せ付けなかった黄金の前足は無惨にもがれている。

やがて遊び飽きたという様子でケルベロスはグリフィンを放り出した。宙に投げ出されたグリフィンの翼はすでに赤いボロだった。傷ついた肢体には異国風の装いの人間がしがみついている。龍香にも朱雀にも、その服には見覚えがあった。

「玄鉄さま……!?」

龍香は声をあげる。それは確かに、玄鉄の異国装に見えた。

「落ち着け龍香。あれは玄鉄ではない」

駆け出そうとした龍香を朱雀は抱き止める。騎手を乗せたまま、グリフィンは民家の屋根に墜落した。瓦を粉砕し、壁を押しつぶし、道へと身体を投げ出したグリフィンには、ケルベロスの歯形が残っていた。グリフィンの首にしがみつき絶命している男は、金色の髪を爆風になびかせている。朱雀は抱き止めた龍香の耳元でささやいた。

「おそらく、玄鉄が言っていたマシューという男だろう」

朱雀は思い出す。中沢家の依頼でグリフィン討伐をした後、玄鉄館に帰ってから、玄鉄はこれと似た装いをしていた。「マシューとの付き合いだから仕方がない」と言っていたが、そのマシューという渡海人がこの者ではないだろうか。そう考えながら、朱雀はあることに気付いた。

まさか……。

朱雀は龍香から離れた。傷口をよく見るためにしゃがみこむ。

グリフィンで遊ぶことに飽きたケルベロスは都の破壊を再開した。圧倒的な力で文明を踏みにじっていく。

龍香は信じられないという気持ちで首を振り続けていた。

「朱雀さま。玄鉄さまは確か、その、マシューさまという方が港に来た時、西洋怪物を斬ろうと港に向かったとおっしゃっていましたね。船を引いて大海を渡ってきたという……。それは、ひとつの身体を共有する三頭の犬で……」

龍香は視線を上げる。今、世界を壊し回る猛獣が、三つの咆哮を上げた。三つの犬の頭を有するケルベロスは、小さく繊細なこの国の都を、いとも容易く蹂躙していく。

これが、玄鉄さまの見た西洋怪物……。

龍香は呆然とした。

「こいつだ」

龍香は現実に引き戻されるように朱雀を見る。

地面にしゃがみこみ、グリフィンを見つめる朱雀の肩はかすかに震えていた。

グリフィンは失血死している。獅子のような後ろ脚に食い込んだらしいケルベロスの牙は肉体に空洞を作り、血は押し花のように和毛を濡らしていた。

「私が、ずっと追っていた西洋怪物だ。あの猛獣が弥生を殺した」

朱雀は弥生の遺体を思い出す。胸にも腹にも腿にも、同じ傷跡が残っていた。間違いない。あれは、ケルベロスの歯型だったのだ。

朱雀は立ち上がると、まっすぐにケルベロスを見据えた。すっと鼻で息を吸い込み目尻を尖らせると、左足を一歩前に踏み出す。鞘に添えた左手は傾き、親指が鯉口を切った。

龍香は目を見張る。

「いけません! 朱雀さま!」

 龍香は朱雀の藍色の羽織の袖をつかもうとした。袖口には龍香と同じ金色の細布が縫い付けてある。つかみそこねた合印は金色の残像となって、龍香の手のひらに吸い込まれた。朱雀は骨噛を抜刀し、今、破壊れゆく世界の深奥へと駆け出した。

 

■第6幕 第9場

グリフィンの背に乗り空中を回遊していた於菟は、都の異変に気付いて玄鉄館道場に飛び込んだ。太刀の素振りをする玄鉄の姿を認めて、ようやく気持ちを鎮める。上がる息を落ち着ける暇はないまま、於菟は玄鉄に訴えた。

「都の方が騒がしいです」

於菟は外の方へ指をさす。道場に入って来られなかったグリフィンが、翼をすぼめて小首を傾げた。

玄鉄は刀の素振りをやめて納刀する。

どんなふうにだ?

そう問う前に、村人たちが次々と玄鉄館に駆け込んできた。

「玄鉄さま!」

騒々しい足音が玄鉄館道場に殺到する。慌てた村人たちは口々に要領を得ない説明をしたが、「都に西洋怪物が現れて、侍が戦っているらしい」という声を聞いて、玄鉄は勢いよく於菟の方を振り返った。

まさか……。

 玄鉄も於菟も、同じことを予感した。

「どういうことだ? 誰か詳しく説明してくれ!」

玄鉄は叫ぶ。村人のひとりが代表して説明した。

「へえ、玄鉄さま。都から逃げてきた者たちがおります。その者らによると、突然王宮の方から犬の怪物が現れたと。ひとつの胴体に三つも頭のついた大きな黒犬で、尻尾は大蛇らしい。どうやらその怪物と戦っている侍がいるそうです。それはもう、鬼神のごとく強い侍だとか」

玄鉄は息を飲み込むと、悲鳴をあげるように弟子の名を呼んだ。

「於菟!」

玄鉄の震える瞳を見て、於菟は全てを悟った。息の凍るような思いで立ち尽くす。朱雀と龍香が危ない。

騒ぎを聞きつけた秀夜が、安凪の手を引いて道場にやってきた。二人の姿を見た玄鉄は、気を乱してはならない、しっかりしなくては、と両頬を叩いた。玄鉄は西洋衣の右肩に垂れる編み込みの飾緒を揺らして光らせ、秀夜に歩みを寄せる。

「急用ができた。於菟と共に都へ向かう」

 承知しました、と秀夜が答えた時にはすでに、玄鉄は踵を返していた。ところがその時、安凪が玄鉄に走り寄った。玄鉄の腕にしがみつく。

「安凪、悪いな。どうしても行かなければならない」

 玄鉄は白いワンピースからのぞく安凪の細腕をそっと解こうとしたが、安凪は強い意思を宿した瞳で玄鉄を見上げ、秀夜を見て手招きした。

「一緒に行きたいというのか……?」

 玄鉄の問いかけに、安凪は深くうなずく。

「安凪さんが行くなら僕が留守番する意味はありませんね」

 秀夜は息をつき、於菟の方へと歩き出した。

「僕もグリフィンに乗せてください」

「いや、え、でも……」

 於菟は玄鉄の顔色をうかがう。玄鉄もまた困惑の表情を浮かべていた。安凪に向けられた瞳は於菟に向くことがない。ゆがめられた柳眉は横顔でしか確認できないが、於菟は玄鉄の心を推し量る。

玄鉄さまも、朱雀さまに似ているな。

 於菟は口に出さずに、秀夜に向き直る。

「安凪さんは歌うつもりかもしれません」

 秀夜のまっすぐな眼差しは、於菟ではなく安凪に向けられていた。

「声が出ないんじゃないのか?」

 於菟は秀夜の横顔に問う。

「わかりません。でも」

 二人は足並みをそろえ、グリフィンの待つ方へと進む。秀夜は続けた。

「でも、可能性はあります」

 秀夜は思う。マシューはこの国に来るとき、ケルベロスに船を引かせた。ケルベロスにそれを歌で指示していたのは安凪だ。

もし、もし安凪さんが歌えれば……。

秀夜は考えた。玄鉄ひとりの力ではどうにもできなかったケルベロスでも、安凪の助力があれば倒せるかもしれない。それに都にはすでに朱雀がいる。そこまで考えて、秀夜は背筋が寒くなった。

「於菟、朱雀さまが危ない」

「わかってる」

 秀夜と於菟はそれ以降、沈黙を絆にして歩んだ。

 二人の様子に気付いた玄鉄は、ようやく安凪の頼みに首を縦に振った。腕にしがみついた安凪を伴って、グリフィンを呼ぶために、中庭へと歩んでいく。


■第6幕 第10場

 龍香は何かしなければならない、と思っていた。しかし思うだけでどうしたらいいのかわからない。きっとケルベロスを前にした時、玄鉄も同じことを思ったのだろう。震える膝が、腕が、身体の内側を巣食う恐怖がそう教えてくれた。

 頭上を見上げても空は見えない。視界を支配するケルベロスの和毛は青光りするほどに黒く、この世の全ての光を吸収してしまったかのように見えた。三頭の犬がむく牙は、鮫の歯のように何重にも口内に層を作っている。刀を通さないというグリフィンの硬質な羽根ですら、あの歯にはかなわない。マシューの乗ったグリフィンがケルベロスの口の中から粉砕された羽根を吹き散らす様子が、龍香の頭に刻み込まれて消えなかった。

 刀でどうこうできる相手じゃない……。

 龍香は正眼に構えていた切っ先を地面に落とした。人間の、刀の、限界がある。この島国を囲む海の向こう。そのずっと西には、龍香の知らない世界がある。龍香は自らの無力を思い知った。私たちはもう戻れないのだ、と思う。西洋怪物のいない世界に、侍は引き返すことを許されない。今なら、玄鉄が言うこともわかる気がした。この怪物を倒すために、怪物の力を借りなければならないこと。生身の人間だけではもう、きっとどうしようもない。それなのに。

 朱雀はひとりでケルベロスに立ち向かっていった。朱雀の握る骨噛は白銀に閃き、ケルベロスの血を求める。朱雀にとっては相手が何者であっても変わらなかった。弥生の仇を必ず討つ。それが、朱雀が弥生と結んだ約束だ。朱雀が侍として生きるために、この戦いは果たされなくてはならない。

 

 朱雀は、サンザシの枝でグリフィンに立ち向かった龍香の横顔を思い出していた。枝でグリフィンに勝てるわけがない。それなのに龍香は立ち向かった。私も同じだ、と朱雀は思う。

 刀一本で、ケルベロスに立ち向かうのだからな。

朱雀は自嘲する。龍香にも朱雀にも、どうしようもない、武士道の血が流れているのだった。

この刀に、骨噛に誓おう。私は必ず、まことの侍として生きる。

朱雀はひとりケルベロスに向かって駆けていき、その巨大な前脚にたどり着くと、ためらいなくケルベロスの左足の指を骨噛で傷つけた。骨噛は抵抗なくケルベロスの手の甲の和毛を斬り払い、その下にある厚い皮膚を、硬い筋肉を、太い骨を断った。

ケルベロスは突然指先に走った激痛に吠えた。何事かと目を凝らすと、一人の侍が刀で前脚の指を斬り刻もうとしている。

人間ごときが。

ケルベロスは尾の蛇を操り、朱雀を飲みこもうとした。龍のような黒蛇は牙をむいて朱雀に襲いかかる。しかし朱雀は冷静でいた。

ヒュドラの大蛇よりずっと細い。

朱雀は骨噛を振って血脂を弾き飛ばすと、手首の力を抜いて正眼の構えをとった。尾の蛇を眼前まで引き寄せる。その牙が朱雀に触れようという距離にまで近づいた時、朱雀は右に身を翻し、前かがみになって刃先を振り落とした。激しい斬り込みに太刀風が起こる。骨噛の描いた軌道にしたがって、蛇の首は落ちた。

尾の蛇を失ったケルベロスは怒りの咆哮をあげた。三頭のうちの左頭が、朱雀に狙いを定めて歯牙をむく。ところがケルベロスの強靭な顎は虚無を噛んだ。朱雀が後方に跳んで攻撃をかわしたのだ。飛びあがった朱雀は骨噛を上段に構え、振り下ろしてケルベロスの左目の表面を斬った。一瞬の出来事にケルベロスは何が起きたかわからなかった。

朱雀は素早い刀捌きでもう一方の目を潰した。ケルベロスの左頭は悲痛に吠えて顔を地上から天へ上げる。しかし朱雀はここで逃しはしない。左頭の眉間に突きを入れ、下方へ引き裂こうとした。

その時。朱雀は左胸を強く押さえた。心臓が不規則に鼓動する。大きく波打ち全身に血を送り出したかと思うと一瞬止まり、見える世界のすべてが早送りと一時停止を繰り返して時がほつれていくような錯覚を覚えた。どくん、と鼓動のたびに血管に血の激流が狂い、手首には余計な力が入ってしまう。ケルベロスの眉間に差した骨噛を力任せに下方へ引いた時、朱雀の左側から、中央のケルベロスが迫ってきた。

 朱雀は左頭の眉間から骨噛を引き抜こうとしたが、深く刺さった骨噛は簡単には抜けなかった。骨噛の反りを返さないように注意して、朱雀は手を、手首を、腕を、胴を、膝を、足首を、全身を連動させて斬りあげた。ザクロのように艶やかな傷口から一本の妖刀が生まれるようにして、骨噛は姿を現した。刃こぼれはない。まだ戦える、と朱雀が身を翻そうとしたその時、ケルベロスの鼻先は朱雀の身体を横から殴りつけた。強烈な小手を受けても、朱雀は骨噛を手離さなかった。衝撃波が右腕にまで到達する。今、朱雀にできることは、骨噛を手離さないこと、それだけだった。ケルベロスの鼻先に触れた骨噛は薄く一線、その黒く濡れた皮膚を裂く。身を投げ出した空中で、朱雀は、滅びという概念がじわじわと全身をむしばんでいくのを感じていた。

 

朱雀さま……?

龍香は呆然と、宙を舞う朱雀を見つめた。止まったと思い込んだ時間は、無慈悲にも急速に突き進んでいく。朱雀はあっけなく地に落ちた。龍香の見つめる空には何もない。ただぼんやりとした闇だけが広がっていた。闇の正体はケルベロスの毛並みであるのかもしれないし、星のない宇宙であるかもしれない。それが、龍香の視野を支配する全てだった。

なんでもいい。ケルベロスの鋭いかぎ爪でも、牙でも。

できるだけ鋭くて力強いものがいい、と龍香は願った。一瞬で朱雀のもとへと導いてくれる何か。龍香はそれが今、宿命的に、この身に下されることを強く望んだ。

「龍香」

 呼びかける声がする。聞き慣れたその声は、脱力した龍香の膝に希望を与え、救い、手を引き走った。しかしそれは朱雀のものではない。龍香の手を強く握ったその手は、朱雀の手よりもずっと、ずっと温かだった。

「しっかりしろ、龍香」

「於菟……」

 龍香を無理やりに立ち上がらせたのは於菟だった。於菟は龍香の手を握り締める。離れないように。どこまでも走るつもりだった。龍香の生きるべき世界を。

「於菟、どうして……」

「俺が守るって言っただろ」

「そんなこと望んでない」

「お前が望んでいなくても俺がそうするって決めてんだよ」

 於菟の頭上では秀夜が不安そうにグリフィンの手綱を握っていた。グリフィンは於菟の行く方へと翼をはためかせる。大丈夫ですか、と秀夜は叫んだ。於菟は秀夜を見て軽く手を挙げる。

「朱雀さまは!」

 龍香は後ろを振り向こうとする。しかしそれを許さぬほどに強く、於菟は龍香の手を引いて走った。

「朱雀さまのことは玄鉄さまが何とかしてくれる。今は逃げることだけ考えろ」

 於菟は龍香の手をひき、都のはずれにある松林の奥深くへと駆けていった。


続き→「侍少女戦記」 第7幕|青野晶 (note.com)

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