「侍少女戦記」 第7幕(全7幕)

はじめから読む→「侍少女戦記」 第1幕|青野晶 (note.com)
前回の話→「侍少女戦記」 第6幕|青野晶 (note.com)

■第7幕 第1場
玄鉄が朱雀を連れてくるまでに、龍香は千度の冬を越した気になった。松林の影に隠れた於菟・秀夜・安凪とグリフィンは体力温存のために休んでいたが、龍香だけは落ち着かずに立ち歩いていた。「龍香」と時々於菟が呼びかけても、まるで声は届かなかった。龍香を見つめる於菟の横顔を、秀夜は他人事とは思えずにいた。
やがて枯草を踏む足音がゆっくりとこちらへ向かってきた。玄鉄の肩を借りて朱雀がこちらへ歩いてくる。
よかった、朱雀さま! 歩けるのですね!
龍香がそう言おうと駆け寄った時、朱雀は地に倒れ伏した。龍香はすぐさま朱雀に寄り添う。何度も朱雀の名を呼んだ。
朱雀さま。
玄鉄は踵を返して、向こうへと歩いていってしまった。於菟も玄鉄についていく。秀夜と安凪、そして二頭のグリフィンも、同じように姿を消した。
黄金の細い三日月が、空の一角についた傷のようにまばゆく光を散らしていた。松葉は風に触れ、幾何学的な影を地上に描く。研ぎ澄まされた静謐の気配に、龍香の鼓動は速まった。龍香は朱雀を仰向けに横たえ、指先で胸を優しく叩いた。
「朱雀さま、朱雀さま」
その声は、子どもの頃の自分の声に似ている気がした。
朱雀はゆっくりとまぶたをあげると、龍香を見た。
「腹を、切らせてくれ」
それは龍香にも予想できた言葉だった。わかっていた。わかっていたはずなのに、龍香は首を横に張った。強く強く振った。
 
自分に腕があるのかどうかも、朱雀にはもうわからなかった。それなのに右手が骨噛を握っているのは、執念としかいいようがない。
ああ、侍は死に際を選ばなければならないというのに……。
情けなく思うのと同時に、朱雀は腕の骨を折ってしまったことを、ほんの少しだけ幸運に思うのだった。
「龍香、頼みがある。私の骨噛を受け取ってくれ」
「いけません。刀は侍の命です」
龍香は喉が裂けるほどに叫んだ。熱い涙が束になって顎先に集まり滴る。目から溢れる血が無色透明であることが、今の龍香には不思議だった。これがちゃんと赤く濁っていれば、いま私がどんな気持ちでいるものか、正確に、朱雀さまに伝わるはずなのに。龍香は温度だけが本物である血をとめどなく流し続ける。
「そう。骨噛は私の命だ」
龍香、と呼びかける朱雀の声は優しい。けれど、龍香は優しさなんかいらないと叫びだしたかった。何もいらない。何もいらない。だから。しかしその願いに行き場のないことは、龍香自身が一番よく知っていた。
「龍香、どうか私の望みを聞いてほしい。私の命を、骨噛を、お前の命にかえてくれ」
 朱雀は骨噛の巻柄から手を離した。自由になった指先を龍香の頬へ伸ばす。震える指先で、朱雀は龍香の涙を拭った。
腹を切るための力をこんなことに替えるなど、私は侍失格かもしれない。
朱雀は思う。しかし唇の端からこぼれるのは悔恨ではなく、微笑だった。
「私はお前のそばで生きよう。約束する。私は龍香を救おう。龍香が、私を救ってくれたように。龍香。お前は、あの日からずっと」
 
 雲の隙間から透き通る月光が溢れてくる。龍香は朱雀の青白い頬に触れた。朱雀は白い歯を見せて口角を上げる。朱雀の笑顔は、初めて見た気がする。龍香はたまらず朱雀の額に自らの額を押し付けた。見ていられないほどに、朱雀が幸福そうだったのだ。朱雀は安らかに微笑み言葉を紡ぐ。幸福を湛えた朱雀の瞳はたった今、静かに閉ざされた。
「眩しすぎる月明かりであったな」
 龍香はとっさに朱雀の左手を強く握った。
 朱雀さま! 朱雀さま! あなたこそです。あなたは、あなただけが、私を……。
 朱雀の指先は龍香の震える手の内をすり抜けた。
空から星が尽きていく。数々の神話を留めた天球図を、朝陽が白々と燃やした。三日月だけは金を湛えて眠らないでいる。それはまるで夢の欠片が、現実の空に嵌め込まれているかのようだった。
松の林から、枝葉のさざめきが立ちのぼる。黒々とした夜露のにおいが波になって押し寄せ、骨噛の白刃は時を吸い込み、その細い身を銀に研ぎ澄ましていた。骨噛に命を吹き込むように、月光は優しく降り注ぐ。
朱雀の指先が崩れるように地に落ちた時、薄明の宙を、一羽の鳥が飛び去った。
 
龍香は懐からヒュドラの毒を取り出した。指先は迷いなく小瓶の栓を抜く。朱雀と同じ世界へと導いてくれる毒は、龍香を誘い込むように、黄金に波打っていた。
「いけない!」
秀夜は松の木の影から叫んだ。小瓶に見覚えがあったのだ。あれは、秀夜が龍香に渡したものだ。龍香は空の小瓶を受け取って、必ずヒュドラの毒を持ち帰ると言っていた。小瓶の中身はここからはよく見えない。しかし今、龍香がそれを煽ろうとしているのは明らかだった。
龍香の手のひらは固い意志とともに冷たい小瓶を握り締めていた。龍香はこの時初めて、ヒュドラの毒を秀夜に渡さずにいてよかったと思った。朱雀を救うために採取したヒュドラの毒は今、龍香の救済のために残されている。
ところが小瓶の縁が龍香の下唇に触れようとした時、熱い手のひらが龍香の手に触れ、小瓶を遠ざけた。小瓶からは毒の飛沫が飛び散る。それが龍香の顔を傷つけることのないように、広い袖が龍香の眼前を覆った。青地に白のストライプ、袖に金色の細布が縫い付けてある。
毒の飛沫を浴びた於菟の陣羽織は、じゅうと音をたててまだらに溶けた。それでも於菟は龍香を背から抱きしめて離さない。右手でヒュドラの毒を握りあげたまま、左腕で龍香を抱きしめていた。
「離して!」
 龍香は噛みつくように叫びながらヒュドラの毒に手を伸ばす。於菟は黙ったまま、右手を遠ざけ、左手で龍香の腕を無理やりにおろした。龍香は於菟の力に抗えない。
 どうして。
 龍香は内にこもった無力感が涙に変わるのを感じた。
「やめて。於菟! これが私の、最後の、唯一の救いだというのに。どうしてわからないの。離して!」
 龍香は背後を振り向き於菟を睨みつけようとした。しかし於菟は龍香の首の根に顔を埋めている。於菟は腕に宿る強さとは不釣り合いに湿った声で、龍香にささやいた。
「わかっている。俺では朱雀さまの代わりになれない」
 於菟の囁きは、龍香の胸を鋭く傷つけた。
「だから馬鹿みたいにこんなことしか言えない。頼む。生きてくれ、龍香」
 於菟はヒュドラの毒を握る龍香の手のひらを、龍香の身体を、全身全霊で包み込む。
「於菟、私は……」
 いつから、あなたでなくなったのだろう。私はあなたを守るために、侍になるはずだったのに。
「お前の命はいま、朱雀さまの命だ」
 その時、地面に横たわる骨噛の明潔な輝きが、龍香の目を鋭く射貫いた。
私はここにいる。
朱雀がそう言っているようだった。
 龍香は左手の指をゆっくり開く。手のひらにこめていた栓を、小瓶の口に押し込めた。毒の小瓶はまだ手離せない。だから龍香はただ握り締めた。
これで、朱雀さまを救うはずだった。救えると思っていた。
「私は、何もできなかった」
 龍香は静かな絶望の沼に沈潜していく。しかしその冷たい奈落へ沈んでいくのは、龍香一人ではなかった。
「何もできなくたっていい」
 於菟は強く龍香を抱きしめる。舶来品の陣羽織が、毒に焼ける匂いがした。
「お前が生きてさえいてくれるのなら、その願いひとつ叶うのであれば、俺は今すぐにでもヒュドラの毒を煽ったっていいんだ」
「だめ、それは」
 龍香はきつく叫ぶと於菟の手を振り払い、小瓶を懐にしまった。懐をかたく押さえつける。於菟に奪われぬように。猛毒を心臓に押し付けた時、龍香は初めて気付いた。於菟は、龍香と同じ気持ちでいるのだと。
「於菟、どうして私なんかを……」
 率直に聞くのはあまりにも残酷すぎる気がして、龍香は続く言葉を口にできない。
私のことなど考えなければいいのに。それが全部、於菟の苦しみになってしまうというのに。どうして私のことなど考えてしまうの。於菟を苦しめたくない。それなのに私は、朱雀さまのことが……。
 龍香はどうしたらいいのかわからない。心を自由にできるのであれば、於菟に同じ思いを返してあげたかった。龍香の心は龍香のものであるはずなのに、どうして龍香の心は、龍香の思い通りになってくれないのだろう。龍香にはそれが苦しかった。また無意識のうちに龍香の瞳は骨噛をとらえている。この地上につなぎとめてくれた於菟の体温を、背に受け止めながら。
「頼む。俺に守らせてくれ、龍香。お前の臣下として。まことの侍として」
 於菟は両腕に力をこめて龍香に囁きかけた。
わかっている、と於菟は思う。どんなに近くにいようと、龍香は於菟の主人だ。領主の娘と赤貧の百姓では身分が違いすぎる。そんなことは出会った日からわかっていた。それでも守りたいと願ってしまった。刀に、武士道の精神にかけて。身体の芯に燃えるただ一つの、この忠義を果たすことを、於菟は静かに誓い続ける。
「どうして於菟が泣くの」
 龍香は振り返らない。それでも、於菟が嗚咽する震えは感じられた。
「お前の痛みは俺が代わろう」
言うなり、於菟は慟哭した。頭上では松葉が揺れる。さざめきは夜露を散らし、清らかな湿気にあたりは満たされていく。暁の海の底に落ちたみたいだ。
朱雀さま、朱雀さま、朱雀さま!
於菟は繰り返し朱雀の名を叫ぶ。グリフィンを斬る朱雀の甲冑姿。玄鉄と交える冴えた視線。ヒュドラの頭を落とす刀筋。全ては灰となり、今、龍香となって於菟の腕の中にあった。
於菟の哭泣に、同じ叫びと水晶粒の涙を重ねて、龍香は心に誓った。これ以降、もう二度と泣いたりはしない、と。
 
 朝の気が近い。ケルベロスの目がきくようになる前に倒さなければ。
 玄鉄が湿った腐葉土を踏みしめ出すと、足音に気付いて二人は立ち上がった。
「龍香、戦えるか」
 玄鉄の問いに、龍香は深く頷いて頬を拭った。
玄鉄は困ったような、憐れむような、複雑な眉根の歪め方をして微笑む。龍香の隣で、於菟もそれを無意識に真似ていた。
於菟の着物に縫い付けられた細布は風に吹かれて龍香の袖の金色の細布に触れ、交差して離れた。
「無傷のケルベロスを一人で討伐するのはさすがに無理だろうが、幸い、朱雀が深手を負わせてくれた。今なら倒せるかもしれない」
 玄鉄は初めて港でケルベロスを見た日の記憶と、現在のケルベロスの様子を重ね合わせる。朱雀によって一頭と尾の蛇を葬られたケルベロスは、出血しすぎたのか足元がおぼつかない。これなら。
玄鉄は視線を下げ、安凪の瞳を見つめた。
「歌ってくれるか?」
 玄鉄の優しい声色に、安凪は意志を確かに首肯した。
 頼んだぞ、と玄鉄は安凪の肩に手を置く。そのまま安凪の横を通り過ぎて秀夜の前に立った。
「秀夜、私とともに安凪を守ろう」
 はいっ、と秀夜は若く透き通る声で返事をした。瞳に月光のかけらを取り込み、安凪を見た。安凪の双眸にもまた、光の銀箔が瞬いていた。
「龍香、」
 玄鉄が向き直った時、龍香は朱雀の元にしゃがみこんでいた。
 大丈夫か?
 その問いかけは玄鉄の喉から転がり出そうになったが、どうやら杞憂であったらしい。
龍香は自らの赤い腰帯から太刀を鞘ごと引き抜き、朱雀のそばに横たえた。
「朱雀さまの仇を討ちます」
 立ち上がった龍香の手には骨噛があった。鮫皮の凸が星のようにちりばめられた鞘は今、正しい持ち主の手の内にある。天の川を漆で閉じ込めたような黒鞘を、龍香はぎゅっと両手に握り締めていた。
「それでいい」
 玄鉄は龍香に、骨噛に頷く。
 強くなったな、龍香。
 朱雀のかわりに、玄鉄は胸中でつぶやいた。
「於菟は龍香とグリフィンに乗れ。上空から攻めろ。私と秀夜と安凪は地上を行く。安凪が歌っている隙に、二人でケルベロスにとどめを刺せ」
 玄鉄は改めて説明した。安凪が歌えばケルベロスはその歌声の指示に従う。眠らせるから、その間に二人で二頭の犬の頭に致命傷を負わせる。これで倒せるはずだ。あとは安凪が歌ってくれると信じるしかない。
 於菟はグリフィンを連れてくると龍香に手招きした。龍香はグリフィンの首輪につかまり、前のめりになってまたがる。龍香のすぐ後ろに於菟は慣れた様子で騎乗した。緩んだ手綱をビッと打つと、グリフィンは立ち上がった。頭上の松葉が、その向こうに透ける天が、ぐっと近くなる。龍香は、鼓動の理由が緊張から好奇に変わっていくのを感じた。
「行ってまいります!」
於菟の精悍な声が旅立ちを告げる。
グリフィンは白雷のように松林を駆け抜け、無限の宙へと飛びたった。
 
■第7幕 第2場
歌えなくなった私に価値などないと思っていた、と安凪は思う。前を行く玄鉄を眺めて。最後にケルベロスを歌で従えたのは一年ほど前になる。そう、ケルベロスが朱雀の婚約者の命を奪った、あの夜だった。
 冷たいハサミの音が安凪の耳の内によみがえる。空を飛んで逃げ去ったりしないようにと、マシューは定期的に安凪の羽根を切っていた。痛くはない。風切羽根は切ったって何度だって生えてくる。ああでも、と安凪は思う。羽根よりもずっと大事なものを、そうやって少しずつ、落としてしまっていた。歌えなくなったあの夜に、それがわかってしまった気がする。後に新しい羽根が生えなくなってしまったのは、安凪の意思によるものなのかもしれない。
最後にケルベロスにマシュー邸に帰るよう歌で命じた後、安凪と玄鉄を乗せたグリフィンは山に降り立った。そこに粗末な墓があって、グリフィンはそれを守りたがった。マシューが帰ってくるまでの間、安凪は玄鉄の隣に座り、静かに息をしていた。空の奥底に輝く、昴を見つめて。この人は信用できる、と安凪は思った。いつかマシュー邸のあの庭から、救い出してくれる日が来たらいいと願った。そんなことは声に出して言えはしなかったけれど。しかし安凪の望み通りに、玄鉄がマシューから羽根切りハサミを取り上げ、安凪の手を引き、玄鉄館に導く日は来た。
助けてくれた玄鉄のために。いや、今は玄鉄のためだけじゃない。安凪は隣を歩く秀夜を見た。頭上で松林が途切れる。うねる枝枝の樹皮は蛇の鱗のようで、足元では月光の作る木漏れ日の幾何学模様が青く波打っていた。
「安凪、歌えるか」
玄鉄は左足を前に踏み出し、拵を斜め外側に傾けて巻柄を握る。
「ケルベロスが攻勢に出たら俺が斬る。安心していい」
はらはらと撥る真珠の月光が玄鉄の黒い軍服を洗っていた。安凪は深くあごを沈めて頷く。隣に立つ秀夜は安凪の震える手を握った。
「安凪さん、僕らがいます」
微笑んだ瞳が安凪の心の凍った部分を溶かしてくれる。安凪は瞑目した。小さな声でなら、龍香の病だって癒せた。ケルベロスを従えるにはもっと大きな声で、もっと上手に歌わなければならないだろう。しかし一度はできたことだ。ケルベロスを従えてこの国まで来たのだから。歌わなければならない。
歌える。私に、もう一度。
安凪は深く息を吸い込んだ。
 
■第7幕 第3場
上空で、龍香の耳は金琴の声をとらえた。
「安凪さんが歌ってる」
「歌?」
龍香の後ろで於菟が首を傾げる。確かに、琴のような音色が聞こえる。しかしそれは聞いたことのない種類の音で、言われるまで歌とは気付けなかった。
「これが、歌なのか」
「うん。ハーピーにつかまって破傷風になった時、たしかにこの声を聞いたの」
龍香の耳へささやかに流し込まれた安凪の声は、龍香を快方へと導いてくれたのだ。
ああ、そうだ、この心地良い声を聞いた。
龍香は心を落ち着けて鼻で深く呼吸する。
「眠るなよ」
後ろで於菟があくびをした。
龍香も閉じかけていた瞼をあわてて上げ、地上に目を落とす。ケルベロスはまどろんでいた。
「上手くいっているみたい」
龍香は笑みをこぼした。
「油断するな」
於菟は保護者のような口調で警告する。
 まもなく、グリフィンはケルベロスの背に離陸した。漆黒の草原を歩むように中央のケルベロスの頭を目指す。ケルベロスは傷口から染み入る歌声に瞼を優しく撫でられていた。
龍香と於菟は眠るケルベロスの中央の頭の上を歩いて行く。頭蓋は硬いから、眉間のあたりに骨噛を刺しに行かなければならない。
「於菟、覚えてる? 道場で朱雀さまと玄鉄さまが切り結んだ時のこと」
「忘れないさ」
 龍香と於菟が初めて玄鉄館に来た日、朱雀は刀の扱いを教えると言って、玄鉄館道場で玄鉄と真剣を交えた。あの日、朱雀は玄鉄を組み伏せたのだった。
「玄鉄さまが朱雀さまに負けた理由は、刀の横をとられたから、でしょう」
「そうだったな。玄鉄さまが言ってた」
 二人の声が重なる。
「刀は、横からの攻撃に弱い」
 そう、そうなの、と龍香の声が震える。
「朱雀さまも、ケルベロスに横をとられたの。一頭斬った時に、中央の頭が横から……」
 これ以上は言えない、というように龍香は言葉を飲みこむ。でも、於菟には十分だった。龍香は泣かないように宙を見上げた。白々と押し寄せる朝は、夢の汀のようだった。
「だから於菟、お願い。私と骨噛を握ってほしいの。もしケルベロスが横から攻撃してきても、負けないように」
於菟は微笑んだ。
「俺たちは負けないさ」
ケルベロスの和毛は硬く尖って膝に痛かった。袴の繊維を突き抜けて、それは細い剣のように二人の皮膚を細かに傷つける。しかし気にしてはいられない。今、果たすべき仇討ちのために、龍香は左足を前方に踏み出した。鋼が鞘走る。
 龍香が骨噛を抜いたその時、風向きが変わった。於菟は骨噛の柄に指先を触れる。しかし直後、生暖かい生き物の気配を感じて、於菟は骨噛から手をひいた。自らの腰帯に下げていた太刀を抜く。刃の沸は、うたかたのように白くさざ波立っていた。
「於菟?」
 ただならぬ緊張感に、龍香は声を潜めた。何が起こったのかは、すぐにわかった。ケルベロスの右頭が目を覚ましている。翡翠色の瞳の奥は深い業火に燃えていた。
 安凪の淡い歌声は風に流されていた。中央のケルベロスの耳には入るが、それが盾となり、右頭のケルベロスには届いていないらしい。目覚めたケルベロスの右頭は牙をむき、龍香と於菟を狙っている。
「於菟! 早く! 骨噛を握って!」
 龍香は叫びながら、於菟に初めからその意思がないことを悟った。
 於菟は広い背を龍香に向け、正眼の構えをとっている。於菟は閃く瞳を細めると、一度だけ龍香を振り返った。
「ありがとう。龍香。俺を、侍にしてくれて」
「於菟!」
次の瞬間、襲いかかってきた右頭の大きく縦に開いた口に、於菟は自ら飛び込んだ。ケルベロスが口を閉ざす。主人を飲みこまれたことに動揺して、グリフィンは空に舞い上がった。グリフィンは狂ったように鳴きながら、黄金のかぎ爪でケルベロス鼻先をひっかこうとする。くちばしで瞳を狙う。それでもケルベロスはグリフィンの猛攻をかわし、口を閉ざしたままでいた。
ケルベロスの歯は於菟の細袴に食い込んだ。半円状に何重にも並んだ細かな白い歯は細袴を引き裂き、於菟の腿を、ふくらはぎを傷つける。於菟の脚は少しずつ、歯の中に沈んでいった。それでも於菟はケルベロスの口の中を前進する。死への恐怖が脂汗とともに吹き出し、叫び出しそうになって、於菟は着物の袖を噛んだ。袖口に縫い付けた金色の細布が、闇の中でかすかに金箔をまたたかせていた。於菟はケルベロスの喉の方へと這い進む。ついに突き当たりを見つけた時、於菟は頭上の肉の粘膜に触れた。
 この奥に脳があるはずだ。
 その時、ケルベロスの熱い息が於菟を吹き抜け、上顎が一気に迫ってきた。於菟の脚は圧迫され、腰にまで犬歯が食い込む。ケルベロスは強靭な顎で於菟の脚を、腰を噛み砕いた。恐れていても、恐れなくても、その時は確実に来る。於菟は噛んでいた袖を口から落とすと、両手に握った太刀を頭上に突き刺した。
「於菟! 於菟!」
 龍香は喉が切れるほど叫んだ。絶望がひたひたと頭の芯を冷やし始めている。直後、龍香の願いを聞き入れたかのようにケルベロスの右頭はうなだれ、於菟を吐き出した。
龍香には初めそれが、血の滝にしか見えなかった。それまで鳴き吠えていたグリフィンが突然ケルベロスを離れ、血の滝の落ちる先へと飛び、何かを背に受けて飛び去ったのを見て、ようやくそれが於菟であることに気付いた。
グリフィンは背で於菟を受け止めると、そのまま東の空へと飛んでいった。
 
■第7幕 第4場
秀夜は安凪の手を握り、その横顔を熱心に見つめた。安凪の頬に真珠の涙が滴る。それでも歌はやまない。安凪が深く息を吸い込むと、歌声はさらに透き通り、磨かれ、夜を切り裂きだした。安凪の背中はまばゆい白光に包まれ、隆起し、服を突き破る。翼だった。伸びてゆく翼は輝きを放ち、歌に強い魔力を宿す。
中央のケルベロスは眠ったまま、地に伏していた。右頭が於菟によって討たれたことに気付いていないらしい。最後のケルベロスは規則正しく呼吸し、肩を上下させていた。
 
■第7幕 第5場
龍香は鼻で深く呼吸を繰り返した。松林の青く清らな湿気と、流された血の鉄くささが混ざり合い、龍香の鼻腔を通りぬけ、丹田に落ちていく。そうすることで不思議と、龍香の手の震えは和らいでいった。柄を握る手の、手首の力はふっと抜く。そうだ、刀は全身で振るものなのだ、と龍香は思った。腕の力に頼るだけではいけない。手首をしなやかに、余計な力をかけずに、膝を落として全身の力で切っ先を落とす。骨噛なら、龍香の実力のもっと先へ、もっと奥深くへ、導いてくれる気がした。
龍香は眠るケルベロスの鼻の上に立つ。皺のない穏やかな眉間が呼吸に合わせてかすかに上下していた。尖った和毛は、朝を運ぶ風になびいてビロードのように黒くさざ波立っている。
於菟。朱雀さま。
ケルベロスの鼻先にひとり立つ龍香は、胸の内で二人の名を呼んだ。龍香の魂に息づくその名は、まばゆい勇気となって龍香の心臓に燃え広がる。龍香は懐を探ると、ヒュドラの毒の小瓶を握り、栓を抜いた。
龍香は小瓶の口を骨噛の鍔元に当てた。ヒュドラの毒は細身の刃に滴っていく。琥珀色に輝く毒は骨噛の反りの輪郭をなぞり、鎬に照りを与え、刃文を鮮やかにした。白銀の刀身に、毒液はヘビのように絡みついていく。
「朱雀さま、どうか私に力を貸してください」
龍香は瞑目し、骨噛の柄巻を握りしめた。鼻で深く呼吸する。幅広の鎬。鉄色は明るい。地鉄に映る残月は刃文を白く波打たせていた。この命、まことの侍として生きることに捧げよう。龍香は強い思念を指先に灯し、今、ケルベロスと対峙する。手首の力を抜き、切っ先のふくらをすっと振り落としてみる。骨噛はしっかりと真剣の重みを宿していた。刹那、龍香の握る骨噛は、ケルベロスの額を流星のようにうがった。
 
龍香は初めてグリフィンに対峙した時のことを思っていた。今、龍香が握るのはサンザシの枝ではなく、銘刀骨噛である。目の前にいるのはグリフィンではなくケルベロスだ。そして手の内にあるのは。空を切る枝の軽さではなく、怪物の肉を裂く重みであった。
ケルベロスは夢から覚めて慟哭し、激しく首を振った。それでも骨噛はケルベロスの額に刺さったまま抜けない。
朱雀さま。
龍香は骨噛を手離して微笑む。
ありがとう。
宙を舞った龍香の身体を、地上の草原が受け止めた。赤黒く濡れた向こうの血だまりに、於菟が仰向けに転がっている。そのそばではグリフィンが悲しげに首をもたげていた。
ケルベロスは額に刀を刺されたことに怒り狂い、鼻をしきりにひくつかせて龍香を探していた。しかし血のにおいが濃すぎる。すぐに龍香を探し当てることができない。
龍香は体中の力を振り絞り、於菟の方へと身体を引きずっていく。於菟。龍香は何度も、胸中でその名を叫んだ。脚は動かないけれど、幸い腕は折れていなかった。龍香はただ夢中で於菟の方へと進む。羽織を脱ぎ捨て、帯を解き、肌脱ぎになった。
その肌の白さが朝焼けに映えたか。ケルベロスは視界に龍香をとらえた。鼻筋に皺を寄せてケルベロスは牙をむき、龍香の方へ猛然と走り出す。龍香は手を伸ばし、於菟の身体に触れる。よかった、ここまで来られた、と思うと、龍香は仰向けに倒れた。
ケルベロスは地を揺らして龍香に迫りくる。ところがその歯牙が龍香を引き裂くことはなかった。ケルベロスの足は龍香を前にひたと止まると硬直し、やがて天を向いて激しく四肢をかきだした。翡翠色の瞳は濁り、空いた口からは長い舌がだらしなく垂れ、全身がひきつけを起こしている。ヒュドラの毒がまわり始めたのだ。
龍香は帯から小柄を抜いた。旅立ちの時、朱雀から譲り受けた小柄である。龍香は脱ぎ捨てた着物の布を口の中に突っ込んだ。舌を噛み切って死ぬことのないように。龍香は小刀の柄を両手で硬く握りしめると、左の脇腹に刃を深く突き刺した。
硬く鋭い刃が、柔らかい腹の皮を、肉を暴いていく。一瞬の猶予もなく苛烈な痛みが奔騰した。火花のように暴発する苦痛を体内に閉じ込めるため、龍香は着物の袖口に縫い付けた細布を噛みしめる。暁の風が、龍香と於菟を、龍香と朱雀を、三人を繋ぐ合印を、金色に閃かせた。
血で指も手のひらもぬめり、朦朧とする意識の中、柄を握る力は衰えてゆく。果たさなければならない。龍香は潤む目を見開いた。最後に見たのは、ケルベロスの眉間に刺さったままの骨噛が、月光を受けて燦然と放つ白銀光だった。
朱雀さま。私は、龍香はこの通り、まことの侍として生きました。
白刃を握り直し、左の脇腹から、右手へと引き回す。激痛の根源から、命が噴き出した。
 
■第7幕 第6場
玄鉄は軍服の上着を脱ぐと、龍香と於菟の身体にかけた。秀夜もそれにならう。世界は永遠を思わせるほどの黎明の中にあった。
「これが、この国最後の、まことの侍の姿だ」
龍香と於菟のそばでは、肢体も翼も血に染まったグリフィンが伏していた。長い尾は二人を守るように赤黒い草原に横たえられている。
「こんな終わり方しかなかったのでしょうか」
秀夜はうなだれたが、安凪はその隣で顔を上げた。
安凪は生えたての翼をはためかせると、膝で弾みをつけ、しなやかに空へ舞った。
玄鉄と秀夜は安凪を見上げる。安凪は宙に浮いたまま、秀夜に目線を合わせた。秀夜の頬を両手で包み、額を合わせる。
そんな顔をなさらないで。
安凪の声が、秀夜の頭に直接響いた。やわらかで、眩しい、春風のような声だった。
安凪は蝶のように音もなく羽ばたき、玄鉄の頬にも手を伸ばした。互いの額を合わせた時、玄鉄もまた、安凪の声を聞いた。
どうか、二人に祝福を。
玄鉄を離れ、舞い上がった安凪は細い指先で天上をさす。
玄鉄は安凪の指さす先を見上げた。その視線の先に安凪は舞い上がっていく。輝かしい歌声が空気を磨きあげ、あたりを黄金色に染めていく。朝日に向かって両腕を伸ばした安凪は、どこかで見覚えがあった。ああ、そうか、と秀夜は目を細める。マシュー邸の暖炉の上にあった置き時計だ。丸い文字盤を掲げ上げる、翼の生えた少女。マシューの国には古くから存在するという西洋怪物の名。安凪の正体は「天使」だ。
 玄鉄は静かに染み渡る朝日の中で、安凪の翼に見えない祈りを託した。祈りは安凪の羽根の輝きになって、安凪の羽ばたきを支えた。
たとえ他の誰に見えなくても。
二人の侍が手を取り合い、かたく抱き合い、天へと昇っていく姿は、今、安凪の瞳に映っている。

続き→「侍少女戦記」 ★フィナーレ★|青野晶 (note.com)

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