金縛りと、にゃあにゃあにゃあ
17歳の頃に始まった金縛りは未だに続いている。
当時は思春期病のようなものかと思っていたが、加齢しても収まらないので不思議に思い調べれば、レム睡眠の筋肉弛緩中に意識だけが目覚める睡眠麻痺によるもので、金縛り中に起きている出来事は夢だと判明しているらしい。思春期病どころか、睡眠の取り方に問題のある生活習慣病に近いのであった。
青春をほどほどに運動に捧げ、根が体育会系になってしまったのか、不意に根性のようなものが湧き上がると無意味な事にチャレンジしてしまいがちである。金縛りになっても、肉体に対して何かせずには気が済まず色々試すうちに、先日ようやく金縛りに合いながら片目を開けるということに成功した。片目から見た枕元には、野良猫がいた。
その野良は私が刺身を買ってくると必ず玄関前にいるやつで、まあまあ肉付きの良い、背の辺りが黒で腹と足元のあたりが白のブチである。毛並みは野良らしく少し「ダマ」になっていた。
先日鰹を買った日にも、玄関前で待機していたので、これはダメだよと抽象的に諭すと、プイと黒い毛並みの背を向け自宅前の門のところまでスタスタと歩いて行き、振り返ってこちらを見ている。玄関の鍵を開けながら振り返ると、フイと顔を背け、私が背を向ければ視線を感じる。我々は磁石の同じ極同士のように等間隔を保っているのだな、と思いながら刺身はやらずに家に入ったのだった。玄関の扉を開けた途端に猫のことは忘れた。独り占めした刺身は美味かった。
今枕元で、その野良猫が香箱座りをしてこちらを見ている。
「身を守る手段は数あるが、そいつにだけは、手を出しちゃいけない。そいつは、違法じゃないが危険だよ。」
野良は、少し面倒くさそうに目を細めながらも、語り続けるのであった。
「戦う時に戦わず、すべてを回避しつづける手段、自ら、他人の自尊心を満たす存在に成り下がること、防御のつもりが身を食い尽くす、謙虚の皮を被った偽物。それが自虐。」
猫のセリフの後ろには小さくBGMが流れている。猫は口を開けて何か言っているような気がするが、猫がその歌を歌っているような気もする。
『掴んだ拳を使えずに 言葉を失くしてないかい
傷つけられたら牙をむけ 自分を失くさぬために
今から一緒に これから一緒に殴りに行こうか
YAH YAH YAH YAH YAH YAH YAH
YAH YAH YAH YAH YAH YAH YAH』
『YAH YAH YAHYAH YAH YAH YAH』
と野良猫が曲に合わせて大きく口を開く姿は、腹話術の人形のようで奇妙であった。開いた口からは微かに生臭い匂いがした。
『いっそ激しく切ればいい 丸い刃はなお痛い
後に残る傷跡は 無理には隠せはしない
夜明けだ朝だと騒ぎ立てずに その眼を開ければいい
生きることは哀しいかい 信じる言葉はないかい
わずかな力が沈まぬ限り 涙はいつも振り切れる
今からそいつを これからそいつを殴りに行こうか
YAH YAH YAH YAH YAH YAH YAH
YAH YAH YAH YAH YAH YAH YAH
hang in there! 病まない心で
hang in there! 消えない心で』
音量は少しずつ小さくなっていき、そのうちに野良猫の言葉は分からなくなった、YAH YAH YAH は、にゃあにゃあにゃあとしか聞こえなくなり、そのうちに猫が口の中でぐにゃぐにゃと転がすような音を発するだけになり、あたりは静かになっていった。
たしかに、野良猫の言う通りである。若い頃に、説明や解釈を面倒くさがって謙虚のふりをした自虐でやり過ごしたツケはしっかりと溜まっていく。
本人としては、処世術として「あえて」腹を見せて「上手く」やり過ごしているつもりなので、ツケている意識さえもないのだが、積み重なってからよくよく確認すれば、ちゃんと破産しかけているのである。仕方がないのである時からはツケを払うべく、必要な場面では、所謂『今からそいつを これからそいつを殴り』にいったり、逆に殴られたりするようにしているのだが、慣れない接近戦はなかなか骨身にこたえるのであった。
全くこの野良の言う通りだ、骨身にこたえようとやらねばならぬ。鼻息荒く夢枕の野良猫の顎下を撫で褒め讃えたかったが、金縛りが継続しているので体が動かなかった。声も出なかった。
野良は香箱座りのまま、こちらを向いていたが、細めた目はすっかり閉じ切っていた。
私の片目もいつのまにか閉じている。
大体なぜ枕元には野良猫がいるのだと思う。あの時刺身をやらなかったから?むしろ刺身をあげてこその夢枕だろう。
猫の姿は見えなくなった
いつものように、体の隅々まで水が行き渡るような感覚が押し寄せる。
動く、と思うと同時に、見慣れた天井があり、寝床で仰向けの自分がいた。
ふらふらと寝床から這い出て、カーテンを開けて、食事をとる。昨日の続きの仕事をして、買い物に行く。刺身を買わなかったので、玄関先で野良猫は待って居なかった。
何か思い出しかけたが、いつも玄関の扉を開くと同時に忘れてしまう。
電話をし、風呂に入り、髪を乾かそうと思った瞬間に、ふと今朝の夢を思い出し、夢を忘れていたことも忘れていたのだな、などと考えている。
夢枕とはいえ、あの野良猫があんなに私の近くまで来たのは初めてだった。近くで見たあいつの毛並みは、全く正式な野良らしくダマになっており、それは艶々とした毛並みよりもヤツに説得力を与えていた。振り返れば等間隔を保ちながらプイと顔を背ける姿が今となっては、誇り高く思えるのであった。
馬鹿らしいと思いながらも、今度刺身を買うときはサクではなく切ったものを買って来ようと考えている。施しのようでもどうするかは、野良が自分で決めるだろうし。
※『』内はCHAGE&ASKA のYAH YAH YAH歌詞を引用
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