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さよなら名前のない私

人差し指の関節を刺されたところが痒い。赤く膨らんで触れると少し熱を持っている。

蚊は血を吸う時に唾液を注入するが、それは彼らが栄養とする血を確実得るために必要な機能である。唾液は針の麻酔、又は血液の非凝固剤としての役目を果たす。私の身体はその異物へのアレルギー反応として痒みを感じる。

刺された人差し指はいつまでも痒い。私のアレルギー反応が過敏だからであろうが、それにしても自分よりもかなり大きな生き物に対して一撃でこれほどの影響を与える蚊は恐ろしい。しかしそうでなければ彼らは生き残ってこなかったのだろう。

どちらにしても、蟷螂しかり、身体の大きさで勝っても私は生き物として奴等に負けている気がする。


夜中仕事をしている時に手元に近づいてきた奴を、蚊だと思って仕留めようとしたら、別の虫だった。

三角形の胴に薄い霞んだような茶緑で細い手足がやけに目立つ。机の上の灯りは白い紙を照らしている。奴はその一番明るい場所で、細い前足で顔を洗った後、熱心に前足を擦り合わせ、何かを拝んでいるようだった。繰り返し同じ動作をする様は一心不乱に何かを願っているようだ。

あまりに熱心で愚かにみえるからなのか、それとも奴が小さいから、愛らしく見えるのか。

これ以上奴の動きを見てしまうと私は血を吸いにきた蚊を叩くことも出来なくなりそうだと思った。そっとペンの先で三角の胴に触れると、灯りの前で大きくくるりと一回転して、どこかに飛んでいった。

あまりにも綺麗な弧を描くので、あらかじめ決められた動きを見せられたような気がして妙な気持ちになった。


最近のひぐらしは朝4時35分に鳴き始める。

薄明るい中一匹が鳴き始めれば一斉に、夜中、当たり前になっていた静寂を簡単に切り裂いていく。

夜通し仕事の終わりかけだったが、鳴き始めたひぐらし達がうるさくて頭の中でものを考えられない。仕方がないので考えていることを紙に書いたら、書くまでもない簡単なことで別に忘れても良いことだった。

あんな小さな体で大声で鳴くよりも、小さい体なりに持った力を分散させて使えば長生きでいるのに、と言ったら、長生きしても仕方がないと言う。お前は何故長生きしたいのかと問われたので、長生きしたいと思っていないと答えると、それは死んでから考えればいいと言われる。

気がつけばひぐらしの声は聞こえなくなっている。奴等は鳴いているけど私の耳が聞こえなくなっただけだ。

夕方にふと聞こえたけれど鳴き始めたのかずっと鳴いていたのか分からない。


昼間、買い物に行く途中、上る坂道の向こうの開けた空に入道雲が見える。

このまま一本道を進むとどんどん近づいてしまいそうな気がして、道を変えたいなと思い始めるが、脇道はどこにもない。

雲の奇妙な立体感と大きさは、私をだんだんと心細くさせる。

ただ大きい。ただ遠い。

そのうちに心細さは怖さになって目眩のようになっていく。

それ以上は考えない。

どれだけ一本道を走らせてもあの入道雲に近づくことはないし、夕暮れに近づくころには、きっと空気に馴染んで消えているだろう。





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