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【講演会レポート】バレンタインに愛の話をしよう。兵庫ひきこもり相談支援センター阪神ブランチ「ひきこもりと愛」(前編)

「愛」といえば私は真っ先に、恋愛が発展して行き着く先の「愛」を思い浮かべる。

私は元ひきこもりである。10代〜20代の頃、睡眠障害、社交不安障害、うつなどを発症し、ひきこもっていた時期がある。

ひきこもりというと、人間関係が希薄になりがちだ。少なくとも私はそうだった。ひきこもりと恋愛の先の「愛」は、頭の中でいまひとつ結びつかない。そういう類の愛に、ひきこもりは縁遠い気がする。ひきこもりが愛を手に入れるにはどうすればいいんだろう?

そんな疑問のヒントを得られるかもしれない講演会に行ってきた。

兵庫県西宮市・宝塚市を拠点に活動されている「一般社団法人いきがいさがし(兵庫ひきこもり相談支援センター阪神ブランチ)」が主催する、その名も「ひきこもりと愛」である。

「ひきこもりと愛」チラシ

いきがいさがしは、ひきこもりの方を「こもりむし」と呼んでいる。2017年9月からひきこもりの居場所「こもりむしの会」を開催し、現在は「地域活動支援センターnecoris」も運営している。

私がこの講演会を知ったのは、「Break」というひきこもりの自助グループの対面イベントに参加した折に、今度こういう講演会があると教えてもらったことがきっかけだった。

聞いた当初は「愛…!」となんとも壮大なテーマに戸惑った。だからこそ、どんな話が飛び出るのか気になったので、参加してみることにした。

2月12日土曜日、会場は阪急小林駅から徒歩10分ほどの場所にあるくらんど人権文化センター。
当日はカラリとした快晴に恵まれた。

くらんど人権文化センター

新型コロナウイルスの感染拡大が懸念されるなか、受付で検温・消毒を行ってから2F大ホールの中に入る。40名ほどの参加者が集まり、年齢層は30代〜60代くらいと幅広い。男女比率は6:4といったところ。

13時になり、いよいよ講演会のスタートだ。
まずは主催のいきがいさがしの代表を務める岡本さんから挨拶があった。岡本さんは柔らかい雰囲気の、感じの良い女性だ。

冒頭で流された講演会の紹介動画は、こもりむしの会に参加されている有志に作ってもらったそうだ。

挨拶が終わったところで登壇者にバトンタッチされる。

この日の登壇者は3名。ファシリテーターを務めるのは、心理カウンセラー歴16年、現在は個人オフィス「フロンティア」や学校でのカウンセリング、講師など多方面で活躍する小島俊久さん。にこやかで柔和な雰囲気から、話しやすさを感じる。

小島さんの司会進行により、2名の登壇者の話が始まった。

最初にお話されたのは、渡辺聖史(わたなべさとし)さん。
現在37歳の渡辺さんは、丹波篠山でNPO法人「結」のスタッフ・相談員として活動している。ひきこもりの居場所で出会った奥様と結婚し、一児のパパでもある。落ち着いた声の話し方に安心感を感じる人だ。

まず自己紹介として、不登校になった中学時代から振り返る。

「ひきこもった原因はハッキリとはわからないんですよね。ただ、小学校時代の友達とクラスが別れて周囲と馴染めなくなりました。また、勉強・部活・塾で環境が変わったことからプレッシャーを感じ、漠然と不安を抱くようになり、学校を休むようになりました。そうすると勉強や行事から取り残されたように感じ、ますます行きづらくなり、結局ほとんど行かないまま中学を卒業しました」

筆者も専門学校に進学したが、徐々に不登校になり、3年制のところを2年で退学してしまった過去がある。そのとき何故不登校になったのかは、当時自分でも説明がつかなかった。今でこそ恐らくこれが理由であろうと言えるようになったが、あくまでも推測の域を出ない。不登校やひきこもりになった理由は一概にハッキリ言えるわけではないところに共感した。

渡辺さんは高校に進学はしたが、そこでも体力的・精神的に辛くなりひきこもるようになった。

「その頃父親が月1回ひきこもりの親の会を運営しており、ひきこもりの居場所があることは耳にしていました。でも自分は”ひきこもり”じゃないと思っていたから、中々足を運ぶ気になれませんでした。その一方で、同じ不登校経験を持つ人となら深いところで理解して合えるのではないかと、知り合いたい気持ちも抱えていました。それに、新たな出会いがあれば恋愛にも発展するのではとないかという期待もありました」

しばらくひきこもる日々が続いたが、20歳の節目を迎えるにあたって「何かしなければ」と思ったことが転機となる。そのとき居場所で海水浴イベントが開催されることを聞いた。もともと海が好きだったこともあり、このイベントをきっかけに居場所に足を運ぶことになる。

「最初は自分から関係性を作ることが苦手だったので、悩みました。それに周りの皆が活発に見えることに驚きましたね。人との距離感が分からなくて、どこまで敬語でどこからタメ語で喋っていいかも分かりませんでした。でも、何度も居場所に通ううちに慣れていき、自分なりの接し方がわかるようになりました」

その居場所で出会ったのが、現在の奥様だ。主催者の娘さんで、当時はアルバイトをしながら居場所のスタッフとして運営を手伝っていた。中性的な魅力があり、明るい性格で皆から好かれていたという。
1人の時間が必要なところなど奥様とは共通点が多く、馬が合った。自然と仲良くなり、徐々にメールのやり取りが増え、2人で遊びに行くようになった。

「昔から『これがしたい』という欲が薄かったんですけど、奥さんと2人で出掛けるようになってからは、興味と行動の範囲が広がりました。相手が好きなものに興味を持つようになり、自然と相手を喜ばせたいと思うようになったんです。何もない『空白』だった部分に、奥さんの好きなものがスッと入ってきた感じでした」

自分のためではなく、誰かのためだから頑張れる。渡辺さんにとっての「愛」や「生きがい」が、奥様の存在によって生まれたのかもしれない。

「以前は不登校はマイナスの経験と捉えていましたが、その経験があったからこそ『今』があるのだと、プラスに考えられるようになりました。居場所での楽しい時間や妻との出会いによる充実感が得られたのは、不登校経験があったからこそだと思っています」

現在息子さんは小学校1年生。やんちゃ盛りを迎えていて、土日はボコボコにされているという。しかしその中でも可愛さを感じており、これが「愛」なのかなと思っている。実際に親になってみると、自然と「親子愛」が芽生えると感じているそうだ。

渡辺さんは、実に自然な流れで「愛」を得て与えてきた方なのではないかと思った。居場所に行くまでの葛藤や行き始めてからの悩みは共感を覚える部分も多く、過去の経験に対する捉え方の変化は、参考になると感じた。

続いて2人目の登壇者、泉翔(いずみしょう)さんにマイクが渡される。

泉さんは大阪府豊中市を拠点に、2014年からひきこもりの当事者団体「NPO法人ウィークタイ」の代表理事を務めながら活動を行っている。
大学時代に知り合った奥様と学生結婚し、現在35歳。主に専業主夫として過ごしている。ジャケットに身を包んだ姿から、どことなく上品さと知的さを感じる方だ。

「なぜ不登校になったのか、ようわからんのですよね。考えないと出てこない。とりあえず渡辺さんを習って、子ども時代を振り返ります」

泉さんは、一人っ子として祖父も父も経営者の家庭で育った。専業主婦の母からは溺愛され、サッカー、少林寺拳法、バイオリン、射的…やりたい習い事はなんでもやらせてもらえた。
小学校の運動会には社員が総出で応援に駆けつけ、運動場の一角を泉少年の応援団が占拠していたという。それが当たり前の光景だと思っていた。

「そんな環境で育ったので、思ったことは何でも言っちゃう性格になりました。おかげで小学校時代は人気者でしたね」

しかし中学受験に失敗したことで、人生で初めての挫折を味わう。

「公立中学に進学したんですが、そこに体罰教師がいたんです。『おかしい』と思って。さらに中学になると、人気者の基準が変わるじゃないですか。何でも言う性格やと疎まれるようになりました」

そして徐々に学校に行かなくなり、ゲーセンに入り浸るようになる。同じように学校に行けないひきこもりや不良に共感し、一緒に遊ぶようになり仲良くなった。中学はほぼ3年間不登校のまま卒業した。

親のすすめもあり通信制の高校に入学したが、そこは自分と同じような生徒ばかりだったので楽しかった。提携する予備校で知り合った浪人生達からは、弟のように可愛がられた。

「関西大学に進学してからもしばらくは楽しく過ごしましたが、就活になると周りが一変したんです。それまで茶髪に染めてた女の子が黒髪にしだして、同じリクルートスーツに身を包んでいる光景が『おかしい』と思って気味悪くなったんです」

これには筆者も共感した。昔からスーツやオフィスカジュアルといった、会社の服装規定の意味がわからなかったからだ。なぜ自分の個性を出してはいけないのか?とずっと思っていたので、似た違和感を持つ人の話を聞いて嬉しくなった。

就活による自身の価値を値踏みされるしんどさを感じた泉さんは、「農業なら牧歌的に暮らせるのでは」と思い立ち、4年生のときに北海道の富良野へ農作業をしに自転車で旅立った。

「富良野で目の当たりにしたのは、北海道の農家の資本主義でした。僕たちのもとには美味しい野菜は行き渡らないんです。しかも秋・冬には工場労働で、延々と生姜を折る作業をさせられるんですよ。結局、1年で自転車を置いて大阪に帰りました」

大阪―富良野までは約1500km、車でも約24時間はかかる計算である。それを自転車で行ってしまうとは…泉さんの行動力の高さを感じる。

奥様と知り合ったのは、富良野に旅立つ前。1年生で入学してきた奥様と、サークルを通じて知り合った。

大学院に進学してからは教授のすすめで高知へ研究しに行くことになり、奥様も同行することになった。現地で一緒に暮らすとなると、何故名字が違うのかと周りに説明するのが面倒くさい。そこで籍を入れることにした。

しかし高知での生活は順風満帆というわけにはいかなかった。上司にひどいパワハラを受けてしまい、自殺未遂を図るまでうつが悪化してしまったのだ。夜中に奇声をあげながら車に乗り込もうとしたこともある。そのとき必死で止めてくれたのが、奥様だった。

「振り返ってみると、僕の人生は支えられることばっかりなんです。母にしろ妻にしろ、なんか気にしてくれる。主体的な愛をくれている。妻を試すためにひどいことをたくさん言ったこともありました。でも一緒にいてくれるんです。それで『好き』がなんとなくわかるようになりました」

2020年7月、泉さんは免疫疾患の病気で大阪の某病院に入院することになる。40度の高熱が続き、毎日泣いていたという。しかし、それまでうつが悪化して「死にたい」と思っていたのが、「生きたい」に変わった。

「妻を1人にしたらアカンと思いました。人工呼吸器でなく、主体的に生きたいと。それが、愛してるってことなのかなと思います」

泉さんのこの発言からは、紛れもない奥様への「愛」を感じた。

泉さんの人生は、波が激しい。しかし一貫しているのは、周囲から愛され続けていることだ。そのことがひきこもりの方に共感を得づらいのではと懸念されていたが、これは不登校やひきこもりが必ずしもネガティブな人生に繋がるわけではない証明にもなるだろう。

個人的にはこの後の質疑応答が、お二人の話をまとめ上げるいいコーナーになったと思う(後半に続く)

※タイトル画像はリンクフリー(PexelsのKarolina Grabowskaによる写真

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