掌編小説|桃幻狂ジュルネ| 【白4企画】
桃幻狂ジュルネ
シャワシャワと鳴く蝉の声が重なりあって廊下まで響いている。相当に外は暑いのだろう。近頃は気温が上がりすぎるせいか、朝、カーテンを開けて曇り空が見えると「今日はいい天気ね」なんていう患者がいる。晴天・青空というのは、もはや歓迎されない時代なのだろうか。だけど、世の異常気象がどうであれ、ひんやりとした廊下を一日中歩き回っている僕には関係のないことのように思えた。
見慣れた廊下を進む。ナースステーションに戻る道すがら、病棟内に二つある病室のうち、手前の病室の前で立ち止まり患者のネームプレートを読み上げていく。各病室とも四名の入院患者の名が連ねられている。今となっては見知った名前ばかりだ。
先月、どうにも折り合いの悪かった患者のネームプレートが突然消えた。驚いたが、それよりも心底安堵した。だからその日は一名欠けたネームプレートを何度も何度も繰り返し読み上げたんだ。
「あら、佐々木さん?」
名前を読み上げることに夢中になっていた僕は、後ろから声をかけられ、はっとして振り返った。
「ああ吉備津さん、こんにちは。お散歩ですか。今日は随分と調子が良さそうですね」
僕が笑顔で話しかけると、まあ、と言って俯いた彼女は五十代前半のマダムだ。僕に会うといつもはにかんだ態度になる。なぜだろう。昔の恋でも思い出すのだろうか。
「それ、いいわね。良くお似合いよ」
顔を上げた吉備津さんが僕の首に下げられたものを指さし微笑んでいる。
「ああ、妻からプレゼントされました。どうやら〝付き合った記念日〟だったらしくて。正直、交際記念日なんて照れくさいですよ。男はそんなこといちいち覚えていないですからね」
そう言いながら首にあたるシルバーの部分に触れた。この廊下同様、ひんやりと冷たい。吉備津さんはゆっくりと頷き、僕に軽く会釈をして去って行った。
二つ目の病室の前を通ると、中から女性の笑い声がした。ネームプレートを確認すると、これまでに見た記憶のない名前が一つ増えている。
「馬場敦子(ばば あつこ)」
知らない。先月いなくなった例の患者のベッドだ。いつの間に入院して来たのだろう。このフロアの担当である自分が知らないはずはないのに妙だ。だけど、まあいい。そんな細かいことをいちいち気にしていてはこの病棟では務まらない。
僕はネームプレートを見ながら新入りの名前を何度かつぶやいてみた。
一回、二回。その名は僕に馴染まない。
「馬場敦子」
三回、四回。段々と手応えを感じる。
五回、六回。ようやく言い慣れてきて下半身が疼く。もう限界かもしれない。
七回目。舌を噛んだ。直後、鉄臭い液が薄いヴェールのようにじわりと口内に広がっていく。それは舌の表面のでこぼこをじっくりと這い上がり、徐々にその赤黒く染まる範囲を広げていった。
「たまんねえ」笑みがこぼれた。
「失礼します。回診です」
ドアをノックした。力が強すぎたせいか、それにつられて思ったより大きな声が出た。
「おう、佐々木さんか。なんだかやけに元気そうだな」
手前左側のベッドに寝そべり、本を読んでいた初老の男性が僕を見上げて言った。
「こんにちは、智晴さん。お陰様で、僕はいつもと変わらず元気ですよ」
そう言いながら僕は智晴さんを視診する。顔色は良い。ベッドまわりも荒れていないし、入浴をしたばかりなのか、多くはない髪の毛もふわふわとして全体的に清潔感が漂っている。
「ちょっと失礼しますね」
僕は智晴さんのベッド脇にある丸椅子に浅く腰掛け、入院着の上から智晴さんの胸に聴診器を当てた。
「ぐうう」と低く声を出し、背を丸めて聴診器から逃げようとする智晴さんに、僕は自分の人差し指を立てて唇に当てた。
聴診器を通して躍動する心音が響いてくる。目を閉じて智晴さんの鼓動を感じながら、音に合わせて喉を鳴らしてみた。
「んん、んん、んん、んん……」心地いい。
すっかり夢中になっていたからか、しばらくすると背後から誰かの手が伸びてきて、聴診器を当てる僕の手首を掴んだ。
「佐々木さん、もういいんじゃないかしら。智晴さん、困ってるわよ」
そう言って僕の肩をぽんぽんと叩いたのは、智晴さんの前のベッドを使用している仁美さんだ。
「ああ、そうですね。つい長くなってしまいました。ご親切にどうも、仁美さん」
僕は仁美さんと目を合わせ、笑顔を作った。仁美さんも笑顔だった。だけどその後に深いため息をついた。
僕らに背を向け自分のベッドに戻っていく仁美さんの後ろ姿を目で追った。いつだって仁美さんの背中はどこか寂しげだ。まだ六十代、見た目は若々しいのにだいぶ腰をつらそうにしている。ベッド脇の小さなテーブルには何も置かれておらず、一輪挿しの花瓶には今日も何も生けられていない。仁美さんは最近、散歩をしていないのだろうか。庭くらいは出ても問題ない患者のはずだが。もしかしたら持病が悪化したのかもしれない。後でカルテを確認しよう。
仁美さんは昼寝でもするのか、こちらを振り返ることなくさっとカーテンを閉めた。
仁美さんの隣、窓際のベッドには誰もいなかった。勇作さんのベッドだ。荷物はある。退院したわけではなさそうだがどこへ行ったのだろう。僕は丸椅子から立ち上がり、智晴さんに軽く会釈をして勇作さんのベッドに近づいていった。ベッドの上にはきれいに畳まれた替えの入院着やタオルが置かれている。勇作さんはまめにランドリーサービスを利用して小綺麗にしているし、大きな問題はなさそうだ。
僕は三人の患者の最新情報を頭の中で書き換えた。そうしていよいよ振り返ったのだ。
「おやおや。そこにいるのは桃太郎かね」
振り返った先、ベッドの上で身体を起こし、くすくすと笑いながら僕に話しかける老女がいる。肩につく長さのボブヘアはまっすぐに毛先を切り揃えられ、その色は見事なまでに完璧なグレーだ。そんな彼女こそが、新入りの馬場敦子だった。彼女をまじまじと見ながらようやくそこで気が付いたが、隣には夫と思われる小柄な男性が付き添っていた。男性は窓際に丸椅子を置いて座っているせいか、日差しの暑さで汗をかき、しきりに首にかけたタオルで拭っている。
「桃太郎や」
馬場敦子は再び僕の目を見つめてそう言った。隣の夫を見ると、僕に向けて拝むように顔の前で片手を立てた。「すまんが付き合ってやってくれ」とでも言うように。やれやれ。僕は馬場さんのベッドに近づき、彼女の足元の丸椅子に腰掛けた。
「どうですか、具合は」
第一声、どうとでも答えられる質問をしてみた。すると馬場さんは嬉しそうに頷いてこう答えたのだ。
「随分と立派になったもんだなや。おめえのそんな姿ぁ見てっと、どんぶらこ、どんぶらこと流れてきた桃を引き寄せたあの日が、えれえ遠くに感じてしまうもんだよなぁ」
「ああ……そうか。僕はあの日、桃から生まれたのでしたね」
少し照れくさくはあったが、高校の時分、演劇を嗜んだことがあった。ここは新入りを歓迎すべく堂々と役になりきってやろう。
「桃から生まれたおめえは玉のようにつやつやとしてよう。かわいかったもんなあ。そんなおめえがついに鬼退治に行くんだってなあ。おらぁ誇らしいでよう」
「ああ。そう……だね。僕ももういい歳だし、ゆくゆくはそういうことになると思う。だけどさ、鬼を退治するには僕だけでは無理なんだよ。仲間が必要なんだ。ほら、猿に犬にキジ。僕はまだ彼らと出会っていないから」
額にうっすら汗をかいた。斜め前のカーテンがわずかに揺れて、隙間からこちらの様子を伺っている仁美さんと目があった。
「そったらこといってねえで、仲間は自分で探しにいけて。ほら、団子は用意したから」
馬場さんはそう言いながら夫に合図をおくる。夫がチェストの引き出しから取り出したのは〝東京ごまたまご〟の箱だった。
「ほれ、もってげ。三つと言わず、あるだけもってけて」
「いや、大丈夫。三つでいいよ……」
わはは、と隣で笑っている。智晴さんだ。馬場さんと智晴さんのベッドの境にはカーテンが引かれていて姿は見えない。僕は立ち上がり、そんな智晴さんに向けてカーテン越しにセリフを吐いた。
「やあやあ、そこにいたのかい、お猿さん。僕と一緒に鬼退治に行きませんか。仲間になってくださるのなら、この……きび団子を差し上げましょう」
うひゃひゃ、と笑った智晴さんがカーテンの隙間から手だけ出して、僕が差し出す東京ごまたまごを受け取った。それを見ていた馬場さんは「あんれ、まあ」と驚き、ついで楽しそうに笑い声をあげた。
猿を仲間につけた僕は、今度は仁美さんのカーテンの前に立ち、先程よりも声を張り上げ、こう言った。
「もし。そこの犬どの。僕と一緒に鬼退治に行ってくださいませんか。お礼にはきびだんごを差し上げます!」
ほとんど叫んだに近い僕の声は、狭い病室の中に響いて、その後に訪れた静寂をより強く感じさせた。
「犬どの」
反応を示さないカーテンの奥に向けてもう一度呼びかけた。僕の額から流れた汗が首筋を伝う。
「犬どの……」
自分の声が震えたのがわかった。ぽかんとした表情で馬場さんが僕を見ている……そんな気がした。次第に焦燥感から鼓動が激しくなり、息苦しさを感じ始めた。
「ウキキ、ウキキ!」
猿が騒ぐ。僕は苛立ち、一度大きく足を踏み鳴らした。するとカーテン越しに小さな悲鳴が聞こえて、数秒の後にカーテンの隙間から細く頼りない手が伸ばされた。
「あ……ありがとう」
僕は礼を述べて、握りしめて平らに潰れてしまった東京ごまたまごの包みを仁美さんの手の平に押し付けた。
無事に犬も仲間にしたことで安心したのか、僕は体中の力が抜けて、立ちくらんだ。耐えられず、床に膝をつきうずくまる。項垂れた拍子に首に下げていた聴診器が床に落ち、軽やかな音を立てた。シルバーの部分以外に鮮やかな水色のプラスチックで作られたそれには〝ST〟というシールが貼られている。
「佐々木拓人の頭文字よ」という妻の言葉が蘇る。
「大丈夫かえ、桃太郎や」
馬場さんの心配そうな声を聞き、僕は息を整えながらゆっくりと顔をあげた。遠くで、颯爽と廊下を進む誰かの足音が聞こえる。
「ああ、大丈夫さ」とかすれた声で答えて聴診器を拾い、再び首にかけた。その時、廊下で響いていた足音が止み、勢い良くドアが開けられた。
「さあて、さて。皆の衆、おやつの時間だ」
その声は中年の男性にしては甲高く、底抜けに明るい。勇作さんだ。
「おやつの時間だ〜、おやつだ、おやつ」
歌うようにそう繰り返す勇作さんの声には表情がある。まさしくそれは〝満面の笑み〟だ。
「おや、佐々木さん。どうしました? 今日は珍しく、おやつの前にお菓子なんて握りしめて」
勇作さんは僕が握っている東京ごまたまごを見て、不思議そうにした。
「お土産ですか? もしや東京へ行かれた? いつの間に!」
僕は首を振った。そして力なく手に握っているそれを勇作さんに差し出した。
「いやいや、潰れすぎてますって。いくらなんでも」
ガハハハっと笑う。そんな勇作さんに事の顛末を話したくても、僕はいまだぜえぜえと息をしていて言葉が出ない。
「ちょいと、佐々木さん。本当に具合が悪いみたいじゃないですか。俺、誰か呼んできますよ」
しゃがんでいる僕の顔を覗き込んだ勇作さんは、立ち上がると再びドアから出ていった。しかしすぐに戻ってきた。
「ちょうど今そこで会ったんで伝えておきました。すぐ来るそうです」
そう言って僕の前を通り過ぎた勇作さんは「いやー、しっかし暑いなー」と言いながら自分のベッドへごろんと横になった。
そんな勇作さんのことを口をぽかんと開けて見つめていた馬場さんが、突然、今までになく大きな声をだした。
「おお、桃太郎。帰ったか。おめえ、こんな時間までどこさ行ってただ!」
馬場さんがそう言い放った刹那、病室は静まり返った。だけどよく耳をすませば、相変わらず蝉は鳴いているし、馬場さんの夫がぱたぱたとタオルで自らに風を送る音はするし、仁美さんがカーテンの布にこっそり振れる音だって聞こえる。何より、僕の鼓動は外に漏れ聞こえていそうなほど大きな音を立てていた。
僕の聞き間違えでなければ、たった今馬場さんは勇作さんのことを桃太郎と呼んだ。つい数分前までは僕が桃太郎で、猿と犬をお供につけ、これからキジ役に勇作さんを誘おうとしたところだった。
急な主役の交代に、なにかが狂い始めたと感じた。狐につままれたようだ。
どうにか心を落ち着かせようと、ひとまずここまでを振り返る。そうして考えてみると、一番の失態は新入りである馬場さんのカルテを、僕が事前にチェックしていなかったことなのかもしれないと思い至った。もしかしたら馬場さんは目に疾患があり、それ故誰かと誰かを見間違えやすいということがあるのかもしれない。記憶障害も抱えていそうだ。そのために僕と勇作さんを間違えてしまうのだろう。きっとそうだ。
僕があれこれ失敗を悔いている間、勇作さんは動揺することなく、こなれた様子で馬場さんの質問に答えていた。
「俺はいつもどおり、朝から村の若者を全員集めて相撲をとっていたさ。そんでもまあ、未だに俺に勝てる者はない。だからさ、俺はそろそろ行くことにしたよ。鬼ヶ島に」
ウキャキャと猿が騒ぎ、カーテンを揺らす。それを横目に睨んで、僕は膝に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「そうか、そうか、ついにな。そりゃあ、誇らしいのう」
馬場さんが目を細めて勇作さんを見ている。隣では馬場さんの夫がペットボトルのお茶を飲んでいて、一瞬、僕と視線が合ったが、何事もなかったかのように彼の方から目をそらした。
「だけどさ、なにせ今は暑いから。こんな真夏に船を漕いで鬼ヶ島へ渡ったら、辿り着く前に干からびちまう。だからさ、俺は思うんだけど、夏から秋にかけてゆっくり準備をしてさ、んで、涼しくなった頃を見てぼちぼち出かけていくのが良いと思うんだな」
そういうと勇作さんは大きくあくびをした。
「そったら呑気なこと言って。鬼の方から攻めてきたらどうするんじゃて。村で一番の強者を息子に持ちながら家で暇させるなんて、おらにはできねえ」
馬場さんが厳しい口調で言った。
「そうはいってもねえ」
勇作さんは面倒くさそうに尻をぼりぼりと掻いた。
「鬼なんて言ってるけどさ、実際は誰も見たことがないだろう?」
勇作さんが窓の外を眺めながらつぶやいた。
「それなのに小さい頃はさ、言うことを聞かせるためにあんたら、『鬼がくるぞ』『鬼に喰われるぞ』って、散々俺を怖がらせたよな」
笑っているのか、背中が震えている。
「自分らに都合の悪いことが起きるとすぐに〝鬼〟を出す。俺を叱るのはいつだって〝鬼〟だ。保護者じゃない」
勇作さんがゆっくりと体を起こした。汗か涙かわからない水滴がこぼれ落ちた。
「一番嫌だったのはあれだ。〝鬼電話〟。恐怖で支配するために鬼と電話させるんだ。怖かったよ。何を正せば許してもらえるのか教えてもらうより先に、恐ろしい鬼の声を聞かされる。あの声を聞いた日から数日は悪夢にうなされた。それなのに、どうしてかあんたらは、受話器を耳に押し付けられて泣き叫ぶ俺を見て笑ってたんだ。そして最後に必ずこう言う。『だから言ったでしょう? 言う事を聞かないとこうなるの。次は本当に鬼がやってくるよ』ってな」
勇作さんがベッドから降りた。一歩一歩、大きく左右に体を揺らしながら馬場さんに近づく。
「大人はみんな嘘つきだ。大人はみんな、責任を押し付け合う。俺の両親はそれぞれ独立した子供がいるバツイチ同士でさ、それなのにいい年して恋愛して子供なんて作ったもんだから、羞恥心からしばらく周りに隠してたんだよ。まるでかわいそうな養子を引き取ったみたいな体で俺に接してさ。笑えるだろ」
ぎりぎりと歯ぎしりをしている。その音に混じり、がりっと妙な音も聞こえる。まるで歯の一部が欠けたような音だ。思えば勇作さんは歯がぼろぼろだった。僕は頭の中で彼のカルテを読む。幼少期、ネグレクトからひどい虫歯になり、大人になってからは歯周病とストレス性の歯ぎしりで、ほとんどの歯はまともな形で残っていない。
「結局、両親はすぐに離婚してさ。母親は俺を育てていけないってんで、その後は大人の都合でどこへでも流されたよ。大人たちは俺を厄介払いするためには何度でも嘘をつく。ひどい里親、悲惨な施設。追いやられ転々とする俺に安らげる場所なんてどこにもなかった」
勇作さんは完璧な錯乱状態に陥っていた。川に流され見知らぬ赤の他人に育てられた桃太郎と自分の半生を重ねて、ひどく混乱している。
「それなのに無責任なお前らは……こんなふうに生きてきた俺に、今度は鬼ヶ島に行けという。そこに一体なにがある? どこへ行ったって同じなんだよ。悪い奴らをとっちめようが、仲間にしようが、俺自身の幸せなんて、この世のどこにもありゃしない」
そう言いながら少しずつ馬場さんににじり寄っていく。勇作さんの表情、声すらいつもと違っている。飄々とした明るさはとうに消え、眼光鋭く、獲物を狙う獰猛な獣のようだ。まるで何かに取り憑かれたよう……いや、それを言うならむしろ、今まで勇作さんの中に潜んでいた凶暴な何かが顔を出そうとしていると言ったほうが近い。まるでそれは――〝鬼〟だ。
「なあ、馬場さんよう、俺はさあ、俺みたいな人間のクズはさあ!!」
鬼の形相で叫んだ勇作さんは、罪のない馬場さんに今にも危害を加えようと飛びかかった……! ように見えた。だから、僕はとっさに止めようとして一歩踏み出したんだ。しかしそこで足がもつれて無様に転倒してしまった。
急激に天地がひっくり返り、見上げた天井の蛍光灯が眩しい。飛びかかったのではなく、馬場さんの足元に突っ伏し泣き出した勇作さんを床から見上げ、その苦悶の表情と対象的に無表情な馬場さんの顔を交互に見比べた。
「あらあ、ちょっと! 佐々木さん!」
すぐに来ると言っていたのは吉備津さんだったのか。真上から僕を覗き込み体を起こそうと脇をかかえた。倒れたときに首から下げていた僕の聴診器はまたしても床に落ちたらしく、慌てて近づいてきた吉備津さんに踏まれて、プラスチックの部分が粉々に砕けた。
「あーあー、ごめんなさい。だけど体起こすのが先ね。ねえ、智晴さん! よかったら手伝ってくれない?」
ウキキ、と一声あって、智晴さんが顔を出した。まるで本物の猿のような仕草でこちらにやってきて、助けるどころか僕の頭を拳で殴った。
「あらら、こりゃだめだわ。ちょっと応援を呼びます」
そう言うと僕を再び床に寝かせ、よっこいしょと立ち上がった吉備津さんは携帯電話で電話をし始めた。
「ちょっと何人かこっち寄越してくれる? そう。第一保護室。ここに第二の佐々木さんもきてるわ。錯乱状態が二名と、佐々木さんは転倒。こんな状況だから、そろそろ仁美さんにも発作がでるかも」
吉備津さんがそう言い終わるか終わらないかのタイミングで絶叫する仁美さんの声が全ての音をかき消した。
大混乱の中、吉備津さんが僕の体を再び起こしながら耳元で囁いた。
「ここの四人にも例の新薬を試したんですけどね、佐々木さんほど上手く効かなかったみたい」くすっと笑った。
「〝おいしゃさんごっこ〟のセット、また買ってきてもらえるように姪御さんに頼んでおきますね。聴診器、すごくお似合いでしたよ。だけど、ご自分のお歳をよく考えて行動してくださいね。こんな風に転倒して、どこかひびでも入ったら寝たきりになりかねませんから。まぁ、その方がこっちとしては楽かもしれませんけど……」
吉備津さんと目が合った。その目に、人としての温かさは感じられなかった。
僕を床に座らせ、立ち上がった吉備津さんの入院着のポケットから携帯電話が落ちた。ピンク色の小さな携帯電話は床に弾かれ弾むように転がった。
「あらいやだ」と言ってそれを拾い上げた吉備津さんは、ピンク色のボディに貼られた剥がれかけのシールを指で撫でた。『ST』という頭文字のシールだ。僕はそれを見て思わず笑った。さては吉備津さん、昨日面会に来た弟さんに買ってもらったのだろうか。これは病棟の売店で売られている、ある基準をクリアした安全な玩具だ。
「投薬のお時間です。それぞれの部屋の前に並んでくださーい」
本物の看護師がドアから顔をのぞかせた。
「佐々木さんと吉備津さん、ご自分の部屋の前に並んでくださいね」
無表情にそう言うと看護師は去っていった。僕はため息をついて立ち上がった。
午後三時。投薬を終えればおやつの時間だ。
了
白鉛筆さん、no+e4周年おめでとうございます°・*:.。.☆