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掌編小説 | 変わる時 | シロクマ文芸部

 〝変わる時〟という文字が見えた。そんな気がした。坂田は身を翻し、数歩戻った路上に落ちている紙くずを拾うと上着のポケットに押し込んだ。誰かが落としたか、もしくは風で飛んできたチラシだろう。踏まれたような跡があった。それくらい、普通の人の目には留まらない、悲しい紙くずだった。それでも拾ったのだ。クリーニング店から受け取ったばかりの上着のポケットを汚してでも、その紙くずを拾いたい衝動にかられた。
 〝変わる時〟
 その文字が坂田の心を捉えた。
 街の清掃の一環だと思えば気持ちがいい。盗みを働いたわけではない。坂田はそう、自分に言い聞かせる。蚊の一匹も殺さず逃がすような男だ。店員が間違えて多く渡したお釣りを、わざわざ電車に乗って返しに行くような男だ。たとえ路上で踏まれて風に流されるような紙くずでも、自分の物ではないそれを隠し持っていることに気が引けて、坂田はいつも以上に混乱していた。
 
 そう、坂田はいつだって混乱していた。美しい女性を見ては混乱し、いつものスーパーで坂田の好物が値上げされれば混乱し、小指の爪だけが異常に伸びていたときにも混乱した。
 混乱した坂田は、自宅までの道の途中にある行きつけの喫茶店へ向った。その店のマスターと奥さんの顔を見れば、いつだって心を落ち着けることができた。
 「カランカラン」
 中から声がした。ドアベルの音真似を「いらっしゃいませ」の代わりにする風変わりなマスターは、今日もはしゃいだ口ひげを撫でながら迎えてくれた。
 「今日は早いじゃん」とマスターが言った。
 「非、日常ってやつかも」坂田が言う。
 何だよそれ、と言いながらマスターはカウンターに座った坂田の前に水のグラスを置いた。次に、もうもうと蒸気の上がる蒸し器からおしぼりをトングでつまみ上げ、放り投げるようにして坂田の前に置いた。その熱々のおしぼりを、坂田が大騒ぎしながら広げるのを見ることはマスターの楽しみだった。この日も坂田は、熱いとわかりきっているおしぼりを手に取り、まるでお手玉でもするように何度か空中に放った。小さく悲鳴をあげながらそんなことを続けて、なんとか手に持っていられるだけの熱さになった瞬間を逃さず、坂田はおしぼりで顔を拭いた。
 「奥さんはどうしたんです? 」
 熱さで顔を赤くした坂田は訊ねた。
 「今日はね、メンテナンスの日だよ」
 マスターがそう言うと、ああ、と坂田は頷いて、壁掛けのカレンダーに目をやった。この夫婦のプライベートな予定がすべて記されたカレンダーには、今日の日付の枠内に〝京子メンテナンスデー〟と書かれている。今日は奥さんが一日かけて病院各所をまわる日だった。
 「そうだ、坂田くん。妻から伝言代わりに預かっているものがあるよ」
 そう言ってマスターは奥の部屋に入って行った。坂田はその僅かな時間にカレンダーに記された夫婦の夜の営みの回数を素早く数えた。それはどうしてもやめられない坂田の癖だ。
 少ししてマスターは一枚の紙切れを持って戻ってきた。やはり今日は非日常だ。いくら常連であると言って、この店の奥さんから伝言など、いまだかつてないことだった。坂田は酷く混乱した。今日に限って奥さんは不在で、不在だというのに、その奥さんからは坂田に伝えたいことがあるという。
 坂田はどうにか心を落ち着けたくて、上着のポケットにこっそり手を突っ込むと、例の紙くずを握りしめた。
 「これなんだけどさ」
 マスターが坂田に一枚のチラシを手渡した。坂田はまだ飲み物を注文すらしていないのに大事になってきたような気がして、額に汗をかき始めた。
 マスターはそんなことには気づかずに、カウンターの中にある、店の中で一番値段のしそうな椅子に腰掛け、自分は優雅に珈琲を飲んだ。
 そんなマスターからの視線を気にしつつ、坂田は渡されたチラシに目を落とした。チラシの見出しにはこう書いてある。

 〝髪の毛が生え変わる時期の抜け毛って、気になりますよね? 〟

 坂田は無意識に頭を撫でた。
 「妻がさ、いつも言うんだよ。坂田くんは素材がいいのに、まだ三十路半ばでもったいないって。その……ほら」
 マスターははしゃいだ口ひげを撫でつつ、もう片方の手で自分の頭頂部を撫でて示した。
 「ご心配、いただいてたんですね」
 「いや、心配っていうかさ。俺らにとったら、坂田くんてなんていうか、息子みたいなもんだから」
 マスターが目を細めて坂田を見る。いつもより見られているからか、坂田は挙動不審になり視点が定まらない。それでもどうにか、カレンダーに書かれた京子の生理日数を数えることで心を落ち着けた。
 坂田は少し落ち着いたところで、ポケットの中で握りしめていた紙くずを取り出した。マスターの目が光った。坂田がゆっくりと広げていくその汚い紙くずに目が釘付けになっている。坂田は紙を破かないよう、慎重に皺を伸ばし、広げていった。
 やがて完全に皺を伸ばされたその紙を、マスターは黙って見つめた。続いて坂田の髪も見つめた。
 「なーんだ」
 そう言ったマスターは笑顔だった。
 「そういうの無頓着なんだと思ってたけど、ちゃんと気にしてんじゃん」
 マスターは笑いながら坂田の頭を撫でた。坂田もマスターの頭を撫でた。二人でひとしきり頭を撫で合ったあと、マスターは坂田に言った。
 「君はまだ間に合う。今こそ変わる時だよ」
 坂田は、マスターのずれた頭頂部の髪を見ながら、深く頷いていた。




[完]


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