じぶんが死んだあと、何が残るのだろうか?【研究者日記】
不確実性が高いなぁと知覚させられざるを得ない世の中で思ったことをつらつらと。
病んでるわけではないのだけど、ときどき、死は怖いものだなぁと思うことがある。
※この記事は2022年の6月に書きました。
死んだ後に社会におおきなものごとを残したり、芸術作品を残すというのもあるかなと思いつつ、自分は別にそういうのではなさそうだ。
死んだ後に残るもので、おそらく確実なのは、相手への記憶である。その記憶の中に居続けるとき、どう居続けたいだろうか?
傷つけられた対象として?幸せな対象として?
そう考えると、日々の振る舞いは必然と決まっていくなと思った。じぶんが死んだあとも相手にとって幸せな対象物でありたいと。
優しい記憶というのは、世代間で伝達する。優しい記憶を持つ人は、次の世代にも優しい記憶を残そうとする。
解釈はいろいろあるだろうが、自死を良くないとするのも、死ぬことによって相手に対して意図的に傷つけてしまうからなのだろう。
ひとの記憶に残ることが死ぬことの意味だと考えると、死ぬ間際になってろくでもない記憶が人に残りそうだとは考えたくないなと思った。
よく日々やりたいことをして満足できていれば良いというのは、じぶんにとってはひとにどういった記憶に残ったか?が満たされていたらじぶんにとっては良かったなと思うことができそう。
あ、そうか、だから自分の価値は社会に役立つじぶんでいることなのか。こういうじぶんが形成されてるのも、いろいろなひとがやさしかった記憶がじぶんのなかに大きくある。
相手の評価に左右されたり、奉仕をするということとは違って、じぶんはじぶんである。じぶんはじぶんであったうえで、相手への記憶にどう残るのか?を考えて生きる。
優しくすることも、厳しくすることも、そのひとにとっての必要性を考えてせっするのが良い。優しい記憶も厳しい記憶も自分なりに必要なことだったとあとになって気づくこともある。
いつまで経っても、ひとの思いを見る目は養い続けることが必要である。よい人であろうというのも少し違う。
そう考えたとて、日常でそう過ごすのはなかなか難しいことなのかもしれないし、その考えがまた違うかったと気づく日がくるかもしれない。
そのときにはまた考えてみるのがよい。いつ死ぬかなんてわからないので、今日1日をそういう意識で過ごしてみようと思う。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!!!
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筆者 あおきしゅんたろうは福島県立医科大学で大学教員をしています。大学では医療コミュニケーションについての医学教育を担当しており、臨床心理士・公認心理師として認知行動療法を専門に活動しています。この記事は、所属機関を代表する意見ではなく、あくまで僕自身の考えや研究エビデンスを基に書いています。
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