哲学者・内山節さん「森と哲学」がガツンときた
みなさん、こんにちは。淡路島在住のファシリテーター、青木マーキーです。みんなの森のサロンのゲスト・トーク「森の日」で、哲学者の内山節さんのお話しを伺いました。テーマは「森と哲学」とても深くて、ためになり、僕自身の人生にもガツンと大きな影響を与えて頂いた感じがあるので、忘れないうちにレポートを書いておこうと思います。
山里を歩く哲学者
内山さんは、群馬県上野村と東京都の二拠点生活をなさっている哲学者です。東京の大学で教えたり、NPO法人森づくりフォーラムの代表理事をなさったり、地方の農村を回って講演などもなさっています。
子どもの頃から川釣りが好きで、イワナやヤマメを釣ってきました。内山さんの著書を読むと、釣りに行ったついでに「山あいの村人から聞いた話で、こんなのがあって、、、」という話題がちょくちょく出てきます。哲学ときくと、東京の研究室でうんうん唸って考え込んでいるイメージが僕にあったのですが、どちらかというと、日本中を釣り歩きながら、村人の声を聞きつつ考える哲学者のようです。
今回の「森と哲学」のために内山さんはこんなレジュメを用意してくれました。「森の日」トークは毎月一回森にまつわる各分野の専門家をお招きして行うトークイベントです。パワーポイントでスライドを用意してくださったり、動画を支度して頂くことが多いのですが、シンプルにレジュメ。学生時代の講義を思い出す気持ちに。
おお、すごい。はじめの問いが謎すぎる。「森の機能とともに暮らすのか、森と結ばれた世界とともに暮らすのか」。うん、これ、なんだろう。僕はこのレジュメを受け取った段階では、ちょっとピンときてませんでした。
森の本質は機能か?
「森と哲学」をテーマにトークが始まったのは20時。それからノンストップで90分の講義で、ぼくはガツンとやられました。始めに「森には様々な機能があると言われています。CO2を固定する機能、生物多様性をたもつ機能、文化や保健的な機能や、降った雨をたもつ保水機能など、いろいろ言われています。仮に、それらの機能を他のもので代替できたとしたら、森はいらなくなるのでしょうか?」という投げかけがありました。例えば別な機械を使ってCO2をもっと高性能に固定できたとすれば、森林はなくてもよいのか? ということ。うむ、合理的に考えたらいらなくなっちゃうかも、と僕は少し心配になりました。
こんな投げかけのあと、内山さんは自身が訪れた日本各地の森の話をしてくれます。関東に育ち、川魚を求めて東北などに足を伸ばしたこと。白神山地のブナ林や秋田のスギなどは、北限のちょっと南で一大群落を構成するという樹木の性質ではないかという話。東北の奥山ではゼンマイやマイタケがとれて、一度山に入ると米1年分の収穫を得て下山できるほど豊かな森であること。それに引き換え、もう少し里に近い山の利用方法は、また異なること。薪のための山があり、その奥に炭のための山があり、さらには別な場所に霊山のような場所もあり。地域によって、森とのつきあい方は一様ではなく、多様であることなど、豊富な体験に基づくトークが面白く続きます。
生きている人間だけで話し合うとモメる
僕が、これは!と膝を打ったのは「日本では、自然を対象化する発想がなかった」というお話しです。哲学はヨーロッパで展開されてきた論理的なものの捉え方。ヨーロッパでは、人間を個としてとらえ、生きている人間が構成するのが「社会」で、人間が接する対象としての「自然」がある。私という個が、他者と何が違うのか? それぞれがどう感じ、考えているのか、を意見交換したり捉えたりしていく、とのこと。ふむふむ、なんかそれは、分かる。
それに比べて、日本をはじめとする東洋思想のエリアでは「すべてのものは結ばれている」と捉えるようです。「生活世界のなかで真理をつかんでゆく」東洋の人たちは、西洋の哲学とは違うアプローチを持っているとのこと。
例えば、ある村で、道を新しく付けよう、という話になったとき、西洋だと個人のAさんはこう思い、Bさんは別の意見があり、それを戦わせるも、基本的に「生きている人間がどう思うか?」で話が進んでゆく。しかし、東洋では「すべてのものが結ばれている」ので、道ひとつを通すにしても、「生きている人間」だけが構成メンバーではない。「死者」も「自然」も「神仏」もまた、私たちと同じ構成メンバーと、とらえる傾向があるので、西洋の人のような話し合いとは、違う感じで前に進むのだ、というお話しでした。
僕の本職は会議のファシリテーターなので、このあたりでグラっと来ます。そんな背景を持っているので、内山さんが住んでいる群馬県の上野村など山里の深い集落の「よりあい」では、話し合いをしてもモメないそうです。もしも人間だけで話し合って、個々人の利害を話し合ってしまったら、道を一本通すにも侃々諤々して合意に至らない。でも「ここは龍神さんのいるところだから」とか「ご先祖さまがどう思うか」みたいな視点で話し合うと、大筋でズレることなくまとまってゆく、というお話し。
日本人は意見を言えない?
そういう意味で、よく「西洋の人に比べて、日本人は個が確立していない」とか「自分の意見を主張できない」とか言われているが、実はそうではなく「自分以外の構成メンバーと、ともに生きている」感覚があるのではないか、という指摘には、ぐーんと深く感じるものがありました。そうか、僕はちょっと大きく誤解をしていたぞ、日本人!
山の神に誰も会ったことないのに
また、お話しのなかで、かつて日本の言葉に「宗教」とか「信仰」という言葉があまりはっきりとはなかったという話題から、「山の神や龍神様に誰も会ったことがないし、特別な教義もないのに、とても大切にしている」という話は、うん、うん、と深く頷けました。日本人は古来から、そうやって信仰や宗教としてではなく、日常に埋め込まれた習慣として、自然との関わりを保ってきた。なので、本質は森の機能ではなく、森との関わりなんじゃないか、と。そういう関係こそが本質で、大切にしたいことなんじゃないか、というメッセージを頂きました。加えて、江戸時代の「講」の話や、モンゴルの「雨乞い」の話、仏教の「華厳経」の話や、ショーペンハウエルが学んだ仏教の話など、興味深いトークが満載で、しびれる2時間でした。とても面白い話だったので、ご興味ある方は、ぜひアーカイブをご視聴下さい(有料/2000円/その価値あり)。
おまけ:みんなの森のサロンでは入会希望者を募っています。10月中にお申し込みくださると早割が適応されるので、年会費28,000円のところを8000円お得に入会できます。年会費2万円で12人のゲスト・トークと、24回の森のスライドショーを楽しむことができます。ご興味ある方は、年会員になって下さい!
森をご縁に1年じっくり学びましょう。
他者なんかどうでもいい
最後に、一番僕に響いたお話しを、もう少しだけ。日本人は武士道とか商人道とか、農民でも自分なりの道ややり方を深めてゆくことを追求してきました。そういう意味で「進歩」に関心があるというより「深化」に関心がある、といえるそうです。他者との比較なんかどうでもいい。自分の技を確立して、どんどん深く探究してゆく。そんな生き方って、格好いいなぁ。だから昔の日本人は名人とか達人を重んじることがありました。僕自身も、自分にしかできないことを、もっと深く、深く、掘り下げてゆこう!という気持ちになるありがたい時間でした。よし、熊野古道を始めとする森を歩き深化をうながすファシリテーターとして、探究を愉しもうと思います。