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高速移動する今

今、高速船の中にいます。本州から100キロ離れた島から、そして本州へと向かう船で、これは2時間で100キロという距離をすいすいと進んでしまうようです。しかしこの揺れ具合と言ったらすいすいとは言えない具合。ゆらゆらよりもぐらぐら。私が今、と言葉を手の中の光る板に打ち込むだけで、この今は、今、という言葉の中に閉じ込められてそのまま保存されて、その今、という言葉はこの今、をそっくりそのまま孕んでいることになるわけです。それはなんとも面白おかしい事だけどやはりこの今、は今の中にしかないのであり、文字に残そうとすること自体が野暮な事なわけであって、しかしそうしないと上手くこの感じは伝わらなくて、でもどうにかしてどこかの、どこか遠くでも近くでも誰でもいいから誰かに、伝えたいと思っているので、そうやって今私は、今、という言葉の中にこの今、を孕ませるというような無粋な作用に頼らざるを得なくなるわけです。そしてそうこうしているうちにこの純粋な今は、今という言葉にこの今を孕ませようとしているという今、に変わってしまって、本当の純粋の私が感じた筈のあの今を、どうにかして切り取っておくようなことは出来ないのだと今、悟ったのです。そもそも今というのは本来存在しないというか、今ある今を今であると感じた瞬間にそれはもう今では無くなっていて、本当に純粋で綺麗なままの私の考える部分でない静かなところに宿った今は、誰にも感知することはできないという事なのです。そうしてどうどうどどと揺れてどこからも遠い海をずんずん進んでいく船の中で、本来私と一緒にあったはずのそれらの今を、一瞬よりも短い単位で海の中に棄て続けていっているのですね。

船の客室の中にはテレビがあって、座席は前向きに固定されているので嫌でも視界に入ってくるわけですが、窓の外には海と曇りとしか見えないこんな所にでも電波は絶え間なく飛んできていて、どこにも逃げ場は無いのだという感覚。テレビの前には時計があって、こんなに早く移動している中にでも時間はどこかしことも同じように流れていて、相対性理論はなんだったのだとアインシュタインに怒りをぶちまけたい感覚。まあ彼の言うところでは、もっともっと、光をぶち抜くぐらいの速さで移動しないといけないのだろうけれども。それでも100キロの距離を2時間でというのだからとんでもなく速いではないの。あ、今、私が100キロを2時間なんて速いではないのと思っているのならば、その思考の中に既に相対性理論はひそんでいて、実は物理とかなんだとかは関係なく、私たちの中に実はずっと存在しているこの変な感覚のことを例のべろ出しおじさんは指さしていたのではないだろうか。さすがにそれは違うか。でもまあ、そんなことだっていいじゃないか。だって時間はきっと誰にとっても共通して大切で、だからこそ今を、この今を、きっといつかの今にも思い出せるように、その時の今をこの今と縒り合わせて溶かしこんで一緒くたにして死んでしまいたい気持ちを感じているいつかの今、の私を慰めることができるように、さっきの今、私は今をどうにかこうにか文字にして食い止めようとしたのだった。


この文を書いている私の今は、もうすでに今ではなくなっています。ひと月前の今の私は、長崎の離島から市内に向かっている船の上で高速移動と今について考えていました。今の、あの時の今からひと月経った今の私には、文章のみが残っているだけです。あの今の私の中のことは思い出せません。

私はその頃、川上未映子の詩やらエッセイやらを沢山読んでいて、彼女の言葉の中に流れる怒涛で流麗なリズムに感染してしまっていたためにこんな文体だったのだと思います。後遺症はまだ残っています。

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