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名月記-狭い恋路に添える唄- (短編小説)

 中秋の名月には、ススキという白く、今にも月に溶け混みそうな、お月見のお供えものが似合いますが、私はあの時から、月といえば真っ先に、あの彼岸花を思い浮かべるのです。
 
 ―若くして亡くなったある小説家の遺書から―
 
 この世をばわが世とぞ思ふ望月の虧たることもなしと思へば。私の、―貴方に会うまでの―人生というものはこの短歌一つで言いあらわすことのできるものだったと言っても過言ではないでしょう。しかし、今になってようやくその事実が、虚無で、淡白な、面白みの無いものだったということに気付いたのです。ええ、貴方がいなければ、私はそのこと気付かなかったでしょうが。
 
 ―――
 
 羞恥を知らぬという風に書きます。
 完璧というのは私のことでした。天才というのは私のことでした。これは自負です。私は私に泥酔していたのです。
 もっともそれは他者から見ても事実でありまして、私は様々な女から言い寄られたのです。が、この私に相応する様な、私自身のプライドが安全に守られる様な、完璧な女のみを受け付けるために、そういう話は尽く断りました。断った女には女達にはなにかが、足りないのです。私はうつろうつろ最近の女は。と、意味ありげなことを呟いて、一生欠けた満月を綺麗だと眺めていたのです。潔癖症という病気は難病で厄介で悲惨であります。
 
 ある日のことです。それは完璧であるはずの私が崩れ始めた日でもあります。私はある女性を、高層ビルに見下ろされた交差点で見ました。その女性は薄紅のワンピースを着ていました。整った顔立ちで、色の白い女性でした。そうです。貴方のことです。それこそ時期でいえば、九月に入り、晩夏が煩わしく思えたころで、もうあと一日もあれば中秋の名月が見える頃合いでもありました。そして、私は貴方に一目惚れしたのです。さて、なにを話しましょうかと満ちた名月に問う。色白ですが、雰囲気でいえば都会人とは言い難いから、こうしよう、とかああしようとか私は思索に思索を練っていました。というところで、思い出した様に貴方から話しかけてくれたのには驚きました。
 
 「お久しぶりです」
 私はさらに驚きました。勿論、私と貴方はこの時初めて会った訳ですから、この様な不可思議なことを言われるはずがないのです。
 「人違いじゃ、ありませんか」
 そう私が確信めいたことを言うと、貴方は白い頬を薄紅色に染めて言いました。
 「あ、すみません。あまりに顔が似ていてつい」
 「そうですか。なら良いですが」
 なんとかして会話を続けようと、私は無茶をしました。ひょっとすると私の言うことの方が貴方にとって不可思議でしたかもしれません。
 「最近は夜が肌寒くなりましたね」
 貴方は驚きました。そして自分の薄い、いかにも夏用のワンピースを見ました。また貴方の頬は薄紅に染まりました。
 「そ、うですね。私の服、やっぱりおかしいでしょうか」
 と、ここで私はひとつ気付いたことがありました。私は鈍感ではないと良く言われるので、大丈夫だと思いますが。不思議なことです、貴方とはその時から妙に話しやすかったのです。私達はその調子で、色々な話をしました。ことに、三十年前の私が産まれた頃合に流行ったウィルスがどうとかばかりを貴方は話しました。それについては私も中学の歴史で習いましたから、ある程度の話の内容は分かっていたのですが、貴方はその教科書よりも詳しく話していましたので、私はその時から、ああ、貴方は勤勉でさぞ聡明なのだろうと思っていました。私は何を思ったのか、明くる日もその交差点へ行き、貴方に会いました。その日は中秋の名月とよばれる日で、煌々とした月夜がうかぶ日でもありました。その日も貴方はいました。私達は昨日のことをまた繰り返す様に、けれども川が流れゆく様に、新しい貴方との時間を繰り返していました。そしてこの様な話が持ち上がりました。
 「彼岸花っていうものは、今際の際の向こう側にも咲いているものらしいですよ」
 「なるほど名前通りですな」
 「とても美しいのですよ」
 「へえ。どこかの書物で見たのですか?」
 この時、ふつり、と会話が途切れました。広い頭上を見上げると、中秋の名月がありましたから。私はそればかりを見つめていました。そしてふと、貴方を見てみますと、貴方はすぐ傍に咲いている彼岸花ばかりを見つめていました。悲しそうに、悲しそうに。貴方が、彼岸花に見えました。仄暗い月夜の下で私は、貴方に恋をしたのです。まともな恋です。純粋な、恋です。それは、初恋です。私は初恋の瞬間を忘れる様な野暮ではありません。
 
 それから六日後のことです。私は久しぶりに貴方にお会いしました。
 「お久しぶりです」
 「ええ、仕事が忙しくてですね」
 「そうですか。お疲れ様です」
 私はその時、夫婦上の家庭の安心感と言いましょうか。純粋な愛と言いましょうか。その様な心を受け止めました。私達はまた、色々な話をしました。私はそれを言おうか言わまいか、ぐるぐる考えながら話していましたので、やはり話が所々途切れる時がありました。その時々に私は絶望するのです。悲しくなるのです。自分を責め出すのです。私は自尊の激しい完璧主義であったのです。
 そして私は遂に決心をしました。ぽつり、と呟きました。貴方の目を見て。貴方は一寸驚いた様で、そして内容を把握した時、なにを言ってるんですかと笑いました。貴方のその笑顔を見ていますと、やっと貴方が泣いていることに気付きました。
 「何故、泣いているのですか」
 「諦めて下さい。お願いします」
 私は負けじと食らいつきました。
 「何故ですか」
 貴方は泣きながら笑いました。
 「以前、貴方は私に、その彼岸花をどこの書物で見たのですと言いました。私はその返答について迷いました。私はそれを書物で見ていないのです。ですから私は―」
 私は、はっとなった。どちらにせよ、両想いだとしても、貴方とは結ばれない関係であることに気付きました。諦め、が初恋の神経に走りました。貴方は彼岸の人だったのです。ええ、その時は丁度お彼岸でしたから、ここへ帰ってきたのでしょう。私は、その事実で、その衝撃で、突き放された様な心持ちになりました。どちらをとるか。悩みました。けれども、馬鹿な私は、ええ、私は馬鹿なのです。
 えい、死ぬ。死んでやる。貴方を諦めたくは、ないのです。なにが完璧だ。これくらい出来なければ、凡人だ。愛の強さに、驚いている様じゃあ、非人間だ。ですから、私の死因は病気でも事故でもありません。
 
 「今日で、お帰りですか」
 「そうです。ですから、すみません」
 私は笑いました。
 「貴方が好きですから、神も許してくれるでしょう」
 「どういうことです?」
 と貴方は呟いた途端、ふわりと消えました。それと同時に彼岸花は月夜に輝かされて、飛んで、飛んで、いきました。
 
 
 
 
 
 
 

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