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マクガフィンの解釈について。

パニック小説を書いている。

昨日、1章を書き終えた。

が、いま筆が止まった。

プロットは頭のなかには筋はある。
(レジュメを書きだした。地図も書いた)

原稿用紙500枚。

新潟の浜に10名の共和国工作員が上陸する。背に小型原子爆弾を背負っている。彼らの任務は首相官邸と国会議事堂の爆破だ。日本の立法と行政を消滅させることだ。だが、彼らが上陸する前に、なんと日本の首都は消えてしまっていた! 皇居から半径100kmが、まるでブラックホールに包まれているようだ。本当に東京が消失したのか? 作戦をさきに越された工作員はそれが真実かを確認するために、二班(群馬経由と長野経由)に別れて首都を目指すのだった。
本編(1〜10章)では「法治国家である日本政府が消滅して破綻国家になったら日本に住む人々はどんな行為に出るのか? 」をテーマにさまざまなパニックが起きる。警察機関は機能しなくなった。列島の至る所で強盗や殺人や強姦が横行する。町や村はそれぞれ自警団をつくる。善意あるボランティアたちと悪人らのつば競りあい。生き残った右翼議員はアメリカに働きかけ、臨時政府(アメリカ傀儡政府)の樹立を宣言をする。自衛隊の一部の若手幕僚が東千歳駐屯地で武装蜂起をして真・日本国の樹立宣言をする。アメリカ軍と真・日本国軍の列島内戦争状態になる。
北朝鮮工作員は東京までの道中にて、野獣の列島と化したさまざまな悲惨な光景を目の当たりにするのだった。
共和国兵士が山の頂から見た東京の風景とは…

ぼくが読者に読んでもらいたい(筆者が書いたい)部分は「破綻国家に陥った日本国民が無法地帯でパニックに陥ったら? どうなるか? 」だ。

だから、ぼくは下記の問題は物語にはさほど重要な要素ではないと思っていた。

⑴ 新潟の浜に北の十名の北朝鮮工作員が上陸する。
⑵ 彼らは背にそれぞれ超小型原子爆弾を背負っている。
⑶ 彼らの目的は日本の国会の常会が召集されている国会議事堂を爆破することだ。
⑷ 爆破の威力は爆心地から半径100kmは灰になる。

だが下記は重要だ。

❶物理的に首都が消えたと同時に国権の最高機関が消失する。
❷コンビニ強盗が横行する。村や町では殺し合いが始まる
❸物資がなくなる。物価が高騰する。
❹日本列島がパニックになる。
❺世界(国連)の目は冷ややかだ。
などだ。

なぜそうなるのか?

たしかに物語のすべての細部を丁寧に描くことは重要な作業のひとつだ。

「神は細部に宿る」。

なぜその細部を書かねばいけないのか。

と思ってしまい、筆が進まないのだ。

たとえば、

「なぜこの物語に登場する超小型原子爆弾についての構造やその破壊力を数値で厳密に(調べあげて)書かねばいけないのか?」

やはり書かねばいけないのだろうか? 

わからなかった。だが、いま気づいた。

これは単なる「マクガフィン」だ。

作劇術はそのマクガフィンについての作家(書き手)の解釈によって大きく変わる。ちなみに、マクガフィンとは下記:Wikiより

マクガフィン (英: MacGuffin, McGuffin) とは、小説や映画などのフィクション作品におけるプロット・デバイスの一つであり、登場人物への動機付け付けや話を進めるために用いられる作劇上の概念のこと。作中人物にとって重要でありドラマもそれをキーアイテムとして進行するが、物語の成立を目的とするならそれ自体が何であるかは重要ではなく代替可能ですらあるものを指す。
特にスリラー映画で多用され、泥棒が狙う宝石やスパイが狙う重要書類などがマクガフィンの典型例である。しかし物に限定されず、出来事や人物などもマクガフィンに含まれる。
マクガフィンは通常、物語の序盤で言及され、その重要性が徐々に低下していく。物語のクライマックスで再登場することもあるが、その存在が忘れられる場合もある。

アルフレッド・ヒッチコックはこう語る。

ラディヤード・キプリングという小説家はインドやアフガニスタンの国境で現地人とたたかうイギリス軍人の話ばかり書いていた。この種の冒険小説では、いつもきまってスパイが砦の地図を盗むことが話のポイントとなる。この砦の地図を盗むことを<マクガフィン>といったんだよ。つまり、冒険小説や活劇の用語で、密書とか重要書類を盗み出すことを言うんだ。それ以上の意味は無い。

つまり、マクガフィンとは単なる「入れ物」のようなものであり、別のものに置き換えても構わないようなものである。たとえばヒッチコックは『汚名』(Notorious、1946年)を企画していたとき、ストーリー展開の鍵となる「ウラニウムの入ったワインの瓶」に難色を示したプロデューサーに対して、「ウラニウムがいやなら、ダイヤモンドにしましょう」と提案している。ヒッチコックにとって重要なのは、ウラニウムという原子爆弾の材料ではなくてそれをきっかけにして展開されるサスペンスだったのである。物語にリアリティを与えようとシナリオライターやプロデューサーはそうした小道具についても掘り下げようとするのだが、ヒッチコックはそれは単なるマクガフィンだからそんな必要は無いという態度をとった。ヒッチコックによれば、マクガフィンに過ぎないものに観客が気を取られすぎるとそれに続くサスペンスに集中ができない。だから、マクガフィンについては軽く触れるだけで良いというのがヒッチコックの作劇術であった。

話はもどるが、作劇術としては、ぼくの小説のマクガフィンも原爆でなくても国会議事堂の爆破でなくとも、他のものでもなんでもいいのだ。

僕の小説のアイデア(梗概)を読んでピンときた人がいると思う。

そうだ。アイデアは二つの小説をミックスしただけだ。ひとつは小松左京の「首都消失」もうひとつは非常に分かりやすいのだがナイショだ。

小松左京の「首都消失」では、ある日突然、東京は原因不明の“雲”に覆われる。”雲”はゴムのように伸びて、弾丸を跳ね返す。(以後、ネタバラシになるので要注意!)それは結局、宇宙からの高度な知的生命体が地球に送りこんだ自動観測装置ではないだろうか、という人類の推測に達する。翌る日、"雲"は消えていた。(大ベストセラーにしてシンプルなアイデア(筋、マクガフィン)に圧巻。さすが小松左京だ)

だがよく考えれば、小松左京は「首都が消失した」日本のパニック(その状態)を描きたかったわけでマクガフィンは”雲“でも別のものでもなんでも構わないはずだ。ヒッチコックのいう”マクガフィン”そのものだ。

巧みな書き手は、そんなところでは悩まないんだ。

そう思った。


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