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タイピング日記010 / 姑獲鳥の夏(冒頭とエピローグ) / 京極夏彦


 どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いている坂道を登りつめたところが、目指す京極堂である。

 梅雨も明けようかという夏の陽射しは、あまり清清しいとはいい難い。坂の途中に樹木など日除けになる類のものはひとつとしてない。ただただ白茶けた油土塀らしきものが延延と続いている。この塀の中にあるのが民家なのか、寺院や療養所のようなものなのか、建物を囲うにしては面積が広すぎるから、やはり庭園か何かなのだとも思う。

 坂道に名前はなかった。

 いや、あるのだろうが知らない、というのが正確なところである。月に一度、いや、ときには二度、三度とこの坂道を登り、京極堂に通うようになって、もう二年が過ぎようとしている。幾度この道を通ったか知れない。

 しかしおかしなことに、私の家からその坂道に至るまでの町並みも、途中にあるあらゆるものの様相の記憶も私には曖昧である。坂道の名前はおろか、このあたりの地名住所の類までも私ははっきりとは知らない。いわんや塀の中に何があろうと私には興味がなかった。

 急に陽が陰った。気温は変わらない。

 坂の七分目あたりで私は息を吐いた。

 坂をおおかた登り詰めると、左右に脇道が現れる。油土塀はそこで左右に折れ、脇道を挟んで竹藪と古い民家が数軒続く。更に進むと、雑貨屋だの金物屋だのがちらほら目につき始める。そしてそのまま暫く直進すると、隣町の繁華街へと出る。

 そうすると京極堂は町と町の境界辺りに位置していることになるのだろうか。住所の上では隣町になるのかもしれない。随分と町外れにあるので客は来るのかと心配したこともあったが、こうしてみると案外隣町の人間は来易いのかもしれぬ。

 京極堂は古本屋だ。

 京極堂の主人は古い友人である。商売する気があるのかないのか、およそ売れそうもない本ばかり置いてある。前述の通り立地条件とてお世辞にも良いとはいえない。常連客が多いから全然経営に心配ないと主人はいうが、怪しいものだと私は思う。

(冒頭部)

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(以下、エピローグ)


 妻の斜め後ろには京極堂の細君が立っていた。

 何だか大層懐かしい気がした。

「ここは危ないんですよ。ほら、この坂は何もないから、一瞬真っ直ぐ下っているように見えるでしょう。でもその実、右に傾き左に傾きして、ちょうどその辺りには逆勾配になっているんです。でもたったひとつの目印の塀は、そんなことお構いなしに真っ直ぐに続いているでしょう。道幅も狭いからどうしても目は塀の瓦の方に行くんです。すると、丁度船酔いしたような具合になって、そのあたりで眩暈がするらしいんです」

 中禅寺千鶴子はそう説明してから軽く会釈をして、涼しげににっこりと笑った。

 何だ、理由を聞けば何てことはない。不思議でも何でもないじゃないか。

 妻も笑っている。

 涼子もここにいれば笑っただろうか。

 振り向くと坂の上で京極堂も笑っている。何だ。あいつだって同じじゃないか。

 何のことはない。

 私はそうして、女達の後に従い、優しい日常にゆるゆると戻る決心をした。しかし、それは涼子との決別ではなかった。涼子も一緒に、私は産着のような日常に包まれて行く。

 見上げると雲ひとつない抜けるような青空である。もう梅雨はすっかり開けたのだ。

そして私は、坂のたぶん七分目あたりで、大きく溜め息を吐いた。

(了)


京極夏彦

wikiより下記

京極 夏彦(きょうごく なつひこ、1963年3月26日 - )は、日本小説家妖怪研究家グラフィックデザイナーアートディレクター日本推理作家協会代表理事[1]世界妖怪協会世界妖怪会議評議員(肝煎)、関東水木会会員、東アジア恠異学会会員。「怪談之怪」発起人の一人。

北海道小樽市出身。北海道倶知安高等学校卒業、専修学校桑沢デザイン研究所中退。代表作に『百鬼夜行シリーズ』、『巷説百物語シリーズ』など。株式会社ラクーンエージェンシー所属。公式サイト「大極宮」も参照。



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