見出し画像

男のアルバイトへの動機。(GM全記録)

5629文字+有料


「あきれちゃうよ、この子は。ブツブツと呪文みたいにおんなじことばかり聞いてさ」

 男は黙った。

「リョーマ。もうさ、オザワさんにさ、洗い場に入ってもらってよ、いろいろと慣れるまで」

「はいよ」

「アンタも、言われる前にパッてみて。洗い場入ってよ。ほかの他人の仕事ばっかりのぞいて見てないでさ」

「はい」

 男は洗い場にもどった。

 そこから男はまた記憶はない。だれかになにかを言われた気はする。が、この時間帯の記憶は脳からすっぽりと欠落していた。

「ウチは覚えるところじゃないんだなよ」

「これは教えたよね」

「これもう覚えてるよね」

「これ教えたはずだよね」

「こんなんも、できないんかい! 」

「本当にケイオーかい」

「使えない、大学出だねえ」

「こんなんじゃ、ウチじゃなくどこ行ってもつかえないよ。洗い場にもどって皿でも洗ってくれないかね」


「お父さん、お客さんがね、ニラがすこし強(こわ)いって。ニラってもう時期じゃないんだよね」

 オクサンはマスターに言った。

「そうだいなあ、そろそろ終わりじゃねえかな、わかんねえけど」

 マスターは首をかしげた。

「韮の時期はもう終わります」

 男はいった。韮の時期。

 男はこの店のアルバイトに来た経緯をおもいだす。


 男は二月末に九州から実家に帰った。二、三日休むと男は裏のトシオの家に顔をだした。

 男はトシオとは元々はパチンコ仲間だ。三年前、祖父が生きていた頃よく祖父とトシオ夫婦と四人でパチンコに出かけた。祖父は生前、農家あがりの市議会議員だった。ひまがあると裏のトシオの家で茶を飲んだ。
 トシオは昭和四年生まれの祖父よりは十若かった。トシオの妻のフミもおなじ齢だった。

 母からはトシオの妻のフミは年末に脳梗塞で倒れて食肉卸売市場の仕事は辞めたと聞いた。その心配もあって男は裏ん家に顔をだした。

 男は敷石をあるいて敷地のなかへとすすむ。

 トシオは、母屋と村の目ぬき道路をへだてた、午前の陽が当たる庭の生垣に背をむけて、赤色に錆びた工具箱にこしかけて、背を傴僂(せむし)のように丸めて、盆栽鋏をにぎって、草の上に積みあげた細い枝木を一本ずつ手元に引いては、パチパチと切っていた。野良作業のときに脇にいつも置くポケットラジオはなかった。内股のはずだったが、トシオは大きく膝を開いて作業をしていた。

「こ骨折を、ししちまったんだあ」

 トシオは答えた。トシオは吃(ども)りだった。「おおらあ、な七百ぐれえの、み未熟児で生まれただ。ままわりはあきらめてや役場にととどけをだだしわすれた。そ、それでおらは、い一月によ、た誕生日がに二回あるんだ」四人でパチンコの帰りで寄るそば屋で、トシオはほうとうを食べてそれをかならずしゃべる。パチンコに勝っても負けてもトシオは自分の生まれの話をしゃべる。四人の習慣だった。

「どこを、骨折したの? 」

「こ腰だあ、だ大腿骨骨折だあ」

 大腿骨。やった場所は父とおなじ場所だ。男はトシオの腰まわりを見る。柿の老木のように痩せて灰色のズボンはブカブカでシワが目立つ。

「それでいまは大丈夫なの? どれくらい入院したの? 」

「そそうさ、なあ。さ三四ヶ月くらいだんべえ」

 父の退院日は来月だ。入院期間は七ヶ月間だ。父の入院期間は骨粗しょう症が長引かせているのか。男は思った。

「でも、良かった。母さんから聞いて心配してきたんだ」

 トシオは男の顔を見ずに、おうあんちゃん。といって笑って作業にもどった。トシオはひとの顔を見ないと、吃(ども)らない。

 男は柿の木の切り株に据(す)わりこんでトシオの目をみる。ぎょっとした。眼球は萎(しぼ)んでいた。死相だと思った。

 男はあるアニメーション映画を思いだす。宮崎駿の『ハウルの動く城』だ。その映画には、荒地の魔女がでてくる。荒地の魔女は最初、妖艶さと具えた豊満な姿で登場する。だが、ラストシーン近くで魔力をうしなってしまった魔女は、いまのトシオとおなじく、自立やプライドは記憶の彼方に忘却された純真な眼になる。命の活力はうばわれ、生命を終える眼。人間の尊厳が存立できなくなった眼だ。男は思った。

 トシオは火曜日と木曜日はデイサービスにかよっていた。男はデイサービスにかよっていた頃の祖母の眼とトシオの眼をかさねた。

 喜ちゃん飯店に食べに行った頃の祖母はまだ眼は生き生きと輝いていた。が、祖母のすっかり萎んだ眼球を見て男は、老人という生き物は、デイサービスに通いはじめると、老いはまたたく間に進行する。それに男は気がついた。皮肉なことだが、老人はヘルパーに命をうばわれるのだ。人間は他者に己の力のすべてを任せる生活をするようになると、自力でなにかを企てようとする体力も気力も思考力も反骨心もうばわれる。祖母は、萎みゆく眼球のなかに過去も現在も記憶もすべて閉じこめて死んでいった。

 対して祖父はデイサービスを頑強にこばんだ。まるで憎悪しているようだった。祖父は最後まで形ある手すりやステッキを自分の手でつかみ、自分の足であるこうとした。祖父は自分の肌を他者にふれさせようとしなかった。頑(かたく)なだった。老いさらばえても全身からつよい拒絶をみなぎらせた。祖父は脾臓がんにくるしめられ、腹に水を溜めて死んでいったが、最期まで自分の力で己の尊厳を守りぬいた。自分を他者へ依存させて自己を見失う安楽の沼に沈めるよりも他者を拒絶して死の恐怖と対峙して死んでいった。

 翌くる日、男は散歩にでて近くの川沿いを歩いていると、トシオの畑のビニールハウスの脇に、シルバーの軽が止まっているのを見た。

 ビニールハウスのなかに女性の影が見えた。まわってなかをのぞき挨拶をする。トシオの孫のユリだった。それから数日、男はユリのニラ栽培の手伝いをした。次第に男は、これを機にニラ栽培を始めてみようか。心はゆれ始めた。

 トシオは橋の北の端にもうひとつ畑をもつ。それはビニール栽培ではなく露路栽培の畑だった。男はネットで調べてその畑を借りて黄ニラ栽培をやろうかと思い始めた。黄ニラは完全遮光での栽培だ。単価は高い。むずかしそうだがやりがいがありそうだった。日々畑に出勤する。人間恐怖症である男はニラ栽培ならできる気がした。トシオのようにポケットラジオを置いて好きな落語をかけて黙々と作業をする。性に合っている。昼はニラ栽培をやって夜に執筆をすればいい。日々なにもしないでいるほうが男は、情緒は不安定だった。

 午前は、納屋でニラの包装作業を手伝って、昼休みだった。納屋に紙が落ちていた。拾った。書類だった。書類の登記上では畑はトシオ名義の畑になっていた。

 男は、ユリの旦那であるヨシノブはやり手の男だと思った。彼はトラクターからビニール張りからトシオの家の雨漏りの修繕、廊下やトイレの取っ手の備え付け、玄関のバリアフリーの日曜大工までマメに見ていた。

「わが家のことはぜんぶヨッチャンがやってくれるのよ」

「ユリの家の夕飯の料理もぜんぶヨッチャンが作るのよ、いもの煮っころがしも作るとウチにもってきてくれるんだわ」

「ほらそこの障子貼りも、家の修繕もぜんぶヨッチャンがやってくれるんだわ」

 男は露路の畑の草刈りをやってみたいと思っていた。男はネットで刈り払い機や管理機(ミニトラクター)や耕運機などの機械についてしらべた。

 作業のかえり際に、男はユリに言葉をかけた。

「ウチの旦那に聞かないと」

 ユリは男にこう答えた。男は黙ってうなずいた。

 男は一度だけヨシノブに会ったことがある。

 休日だった。ユリとヨシノブはふたりで離れた納屋でそれぞれ作業をしていた。作業はそれで足りていた。男の手は余ってしまい、結局トシオとフミを連れてパチンコに出かけることになった。パチンコ屋へ出る矢先だった。

 ヨシノブはトラクターが置いてある大きな納屋でエアー作業をしていた。

 彼は狩りとってきたニラの根元の白い方をトランプのようにひろげて、プシュー、プシューと機械からいきおいよくでるエアーで、根元の土やささくれを取っていた。母屋ちかくの小さい納屋の中ではユリがガチャン、ガチャンと大きなホッチキスのような形の器械でニラの束に紫色のテープを巻く。この包装作業でも少しでも枯れた所を指で摘んだりしないと、出荷時の値段が下がる。それでもニラは一束五十円の出荷値だ。農家は手間賃だ。

 ヨシノブは黙々とエアー作業をする。男は挨拶をした。彼は無口にうなずいた。ヨシノブは好青年だ。男はかんじた。

 表向き、つまり体裁上、男はニラ栽培のことは「トシオさん」「フミさん」「ユリさん」に聞かねばいけない。だがトシオの家のニラ栽培(をふくめた諸事)の実権は「ヨッチャン」がにぎっている。男はそれに気づいた。

 今日の手伝いをしおに、裏のトシオの家に出入りするのはやめる。と男はきめたその帰りだった。

 タイヤに白く乾ききった土がへばりついた赤色のトラクターが眠る大きな納屋では、ユリが椅子にこしかけてエアー作業をしていた。男は戸口に手をかけて挨拶をする。男が立つところからフミが窓越しにこたつに座っているのが見えた。フミが、まってましたあ、というふうな顔でニヤリと笑って、

「ニイちゃんよ。ウチんなかにへえって茶でも飲まねえかい! 」

 男はこたつで茶を飲むことにして玄関をあけた。

 せまい三和土から足をかけた框(かまち)に、プラスチック製の手すりがつけてあった。

「それ、月々四百円だあ。補助金でよ。安いもんだんべえ」

「月四百円か。それじゃあ安いね」

「だんべえ」

 男は、布団の角にへばりつく、こちこちに固まった米粒を引っ張ったがとれずに、あぐらですわった。男は顔をあげる。すると目に入ったトシオの家の仏壇は男の家にある祖父母が眠る仏壇とまったくおなじ型のものであるのに気がついた。こげ茶色の具合も安手のプラスチックでできた引き戸でひらく黄色い格子戸もまったくおなじだった。昔、大八車に仏壇を山と積みあげた行商人がこの村の一軒一軒をまわってあるいたにちがいないと男はおもった。

 フミと昔話や世間話をするが男は内心では人間がこわい。自分のカガミに映る自分のそういう異常をフミに悟られぬように、男はわざと大声で笑ったりする。外で作業をするユリやトシオに聞こえるような大声で男は、昼前の陽が当たる居間で大きく笑ってみせる。

 フミとの話のながれで、昨日のブログに書いた、田植えでトシオを指さして「アイツは自動車の運転免許の学科試験でおちた」と笑った老婆はいまは肺がんのステージ四だということがわかった。それからしばらくのあいだ男はフミとの世間話をどう切りあげていいかわからないでいた。男は座布団の角にへばりつく小石のように硬くなった米粒を親指の爪が白くなるまで強くつまんで、だまりこんだ。

「昨日、喜ちゃん飯店に行ったんよ」

 フミは言った。

「喜ちゃん飯店って、たしか…」

「あそこだ。駒形のセキチューがある十字路があるんべ。そこの高駒線から上がった、ほら」

 男は仏壇をしばらく眺めた。それから小さく喉を鳴らした。

「あんちゃん、おもいだしたか?」

「ああ、前橋七中の向こう側だね。県道の高駒線からこっち側の田んぼの真んなかにある、いっつもランチに行列ができるあの中国料理屋か」
「そうだ。あそこは昔っからうめえんだ。にいちゃんも行ったことあるんべえ!」

 男は思いだした。結婚して娘が生まれて帰国して、それから妻に頭を下げて中国でもう一度、再就職をするために上海に経つ前だった。娘はよちよち歩きの一歳だった。尾沢一家が総出で、喜ちゃん飯店に行ったのだった。空いている日を見計らっての平日の夜だった。前妻も娘も祖父も日頃外食にでない祖母も両親もみんなそろって出かけた。あの喜ちゃん飯店の外食は、尾沢家三代(男の娘を入れたら四代)でそろって出かけた最初で最後の外食になった。

「そうだ。行ったことあった。たしか炒飯がうまいね。ぼくはレバニラを食べた記憶があるな」

「昨日、上の子と行ってきたんだ。おらチャーハンとギョーザたべた。おらん家の娘も」

 トシオとフミには娘がふたりいる。上の娘がふっくらとしていてフミにそっくりだ。下の娘は華奢でトシオに似ていた。ユリは上の娘の長女だった。

「うめえんだけどな。待たされた。いつも待つんだよなあ。昨日は四十分待たされた」

「そうだね。あそこは、ランチは混むだろうね」

「にいちゃん、あそこで仕事やればいいんに」

 男は目を瞬かせた。虚をつかれてだまった。男は仏壇をながめ、喜ちゃん飯店で働くことについて考える。皿洗い、オーダーとり、レジ打ち、さげ、トイレ掃除、… ほかは思いつかない。男はイタリアンや居酒屋や学生食堂では働いたことはあった。が、中華料理屋で働いたことは、ない。男は時間をかけて黙考した。

 男は顔をあげる。フミは男の顔を見てニヤニヤと笑っている。男は察した。

「そうだなあ。ぼくがトシオさん家のニラの手伝いは手に余るだろうね。入る余地はないかあ」

 男は笑った。フミも笑った。

「明日にでも喜ちゃん飯店に電話をかけてみるよ」

「人は足りてねえからよ。すぐに働けるさ」

 フミは笑った。男は内心で腹が立った。が笑って返した。


 マスターは首をかしげていた。

「韮の時期はもう終わります」

 男は言った。

「この子は、こんどは、なにを言い出すんだい? 」

 オクサンはきょとんとした目で男を見た。

「ニラはもう終わります。秋植えで年に四回の刈り入れだとすると、最後のニラです。ニラは、伸びて刈る、をくりかえして収穫をしますから、四回目のニラは硬いんです。これからは畑をおこして、肥料をまいて種まきです。二年目からだであれば株分けとか苗植えですね」

 男は言ったが、そこにオクサンはいなかった。マスターも鍋をふっている。

 それから男は皿洗いをした。サンダルはキツいが皿洗いに集中すると痛みは消えた。

「オザワさん。今日はもう、あがっていいわ」

 男はふりむいた。

 時計は十四時をまわっていた。

ここから先は

62,823字 / 1画像

¥ 100 (数量限定:残り 10 / 10)

この記事が参加している募集

スキしてみて

よろしければサポートおねがいします サポーターにはnoteにて還元をいたします