【小説】グレープフルーツムーン#9
それからしばらくは穏やかな日々だった。とはいえ、彼女は仕事、オレは大学にバイトにバンド。ゆっくり会える時間はほとんど無かった。少しだけ変わったのはそれまでは週末の予定の合う日を選んで会っていたが、曜日は関係なしに、たとえ平日の夜遅い時間でも、どんなにわずかな時間しか無くても、オレが会いたいと言えば部屋に入れてくれた。出来ればこのまま居座ってやろうと思っていたが、さすがにそれは叶わず、合鍵も頑なに渡してはくれないので、彼女が翌朝仕事の日は彼女より先に部屋を出るのが絶対の条件だったが、それ以外はどう考えても、何も知らない赤の他人に話して聞かせたとしても、2人でいる時のこの関係はどこにでもいる恋人同士の関係ではないのか…。
彼女の部屋にはレコードとお酒以外、服や小物などは生活に必要な最低限の物しかない。ましてや男の痕跡など、はっきり言ってどこにも無かった。さすがにクローゼットを勝手に漁るような真似はしていないが、彼女が着替えている時なんかにちらっと見えた感じではクローゼットもすっきりと整頓されていて気になるようなものは何も無いように思えた。そもそもオレがこんな風にしょっちゅう部屋に上がり込んでいても大丈夫なのかと、さり気なく確認したところ、「彼はここには来ないから」とだけ返された。それで疑問や問題が全て解消されたわけでは無かったか、だからと言ってオレがここに来られなくなっても困るのでそれ以上は追求しなかった。鉢合わせする心配がないのなら、今はそれで良い。
深く考えなければオレは今とてつもなく幸せだった。彼女の部屋で、誰にも邪魔されない、2人だけの世界。彼女がオレの目の前で、好きな音楽の話をして、一緒にお酒を飲んで、時には怒ってくれて、オレの腕の中で眠って、目が醒めると優しく微笑んでくれて、それだけで良かった…。
例のイベントまでの間にはいつものハコでのライブもあり、バンドの状態はかなり良かった。新曲はやっぱり間に合わなかったが、カバー曲は彼女の部屋で聴いたジミヘンの『ファイア』で決まり、メンバーで何度か合わせてイイ感じに仕上がっている。懸念だったチケットも今回は各メンバー死ぬ気で捌いた。土曜日という好条件もあり、結構前売りを買ってもらえて助かった。もちろん英理奈さんも来てくれる約束だ。嫌でも気合が入る。
そして待ちに待ったイベント当日、出演は主催のバンドとオレたちのバンドを含めて全部で4バンド。いつもは6バンド以上で出る事が多く持ち時間はセッティングから撤収まで含めて30分もなかったが、今回は40分貰えている。その10分でいつもより1,2曲多めに出来る。たったそれだけの事が今のオレたちにはとても重要なことだった。オレたちの出番は1番目、トップバッターだ。
リハを終え、会場入りした時に姿を見かけなくて挨拶しそびれていたイベント主催のバンドのリーダーでオレ達の大学OBの浜野さんのもとへ向かった。こう見えて小中と野球をやっていたオレは何気に挨拶にうるさい。時間にはルーズだけど。
「浜野さん、今日よろしくお願いします」
「おぉ、よろしくー」
浜野さんが控室の椅子に座ったままオレたちを振り返る。他のメンバーと3番目のバンドのメンバーも勢揃いしていたので少々手狭な控室が人でいっぱいにはなるが、うちのバンドメンバーも全員揃って挨拶させてもらった。そういえば浜野さんを紹介してもらった時一緒にいたベースの有本さんがいない。聞けば何でも5日前にぎっくり腰をやってしまって今もまだ真っ直ぐ立てない程らしく、急遽ベースはサポートとの事だった。
スタートは午後6時、それまで各自自由に過ごす。近くの飲食店に腹ごしらえに行く者、ひっきりなしに誰かに電話をする者、ライブハウスの音響担当に事細かに指示をする者。うちのメンバーも基本的に自由な奴らでスタートまでずっと一緒にいるということはあまりない。小原は本屋かコンビニ、徒歩で行って帰れる圏内にあればアニメショップで時間を潰している。長田と斉藤はそろってラーメン屋に行くことが多く今日もすでに目星を付けていたラーメン屋にそそくさと出かけて行った。オレはひとりで適当に過ごす事が多いが、今日は湊がちょっと付き合えと言ってきたので、2人で適当にライブハウス近くの裏路地でたまたま目に付いた喫茶店に入った。
「なんだよ、なんか話あんの?」
『サイモン』という店名に惹かれて適当に入った喫茶店だったが所謂純喫茶といったところか、レトロな雰囲気がすごく良い。しかも店内で流れているのはイーグルスの『テイク・イット・イージー』それもレコードだ。当たりだな、今度英理奈さんを誘って改めて来てみようか…。
「本番前に言う事じゃないかもしれないけど…」
余計な事をつい考えてしまっていたけど、神妙な面持ちで放たれた湊の言葉にドキリとする。
「…なに、良くない話?」
「んー、お前にとっては良くはないかもな」
湊はさらに顔を顰める。
「なんだよ、いいから早く言えよ」
「うん、オレさ、…彼女出来た」
「はぁ⁉︎」
ビビらせておいてなんの話だ?ふざけんなよ。
「すまんすまん、けどお前にとって良い話ではないのは間違いないだろ?」と、笑いながら湊は言う。
「…つーかどーでもいいわ」
「そんな事言わずにちょっと聞いて、同じバイトの子で2つ下なんだけど…」
「いや興味ねーし」
よっぽど浮かれているのか勝手に喋り続けるのでしばらく放置する。そういえば少し前にデビューするまで彼女作らないとか何とかほざいてたの、こいつじゃなかったか?
「で、お前は?例のあの人今日来るの?あ、オレの彼女はもちろん友達連れて来てくれる」
「さぁ、どうだろうな」
急に英理奈さんの話を振られ内心動揺したが悟られないよう素っ気なく答える。
「ライブの事はメールで知らせてるし、何も予定無かったら来るんじゃない?ここ最近のライブはずっと来てくれてるし」
「行くって返事はなかったの?」
「…まぁね」
本当はメールどころか、事の後、抱き合った状態で〝絶対来て”と直接言葉で伝えている。その時の事をふいに思い出してにやけそうになるのを必死で堪えた。
「ふーん、まぁオレも別にそんな興味ないけど」
…なら聞くな。
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