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夢で見たとおりに

サーカ・Aより
「幼少の頃の私にとって、書物(読み物)とは、絵本めいた絵本でなく、マンガめいたマンガでなく、また、小説めいた小説でもなく、洋楽のCDに付属されていた一枚の『歌詞カード』でした。丁寧に折り畳まれた薄っぺらい、光沢のある(または、ない)一枚の紙に記された数行の文章を、ウンコをする朝、勉強をサボる午後、友達と話せない暇な真夜中、取り憑かれたように読み漁り、ビリビリにしてしまい、兄に怒られるのを恐れ、引き出しに隠したり、または見つかったり。私にとって、『詩』とは、いや、『文学』とは、一枚のペラペラの紙に綴られた洋楽の『歌詞』なのです。そこでは、様々な詩情が、出来事が、卑猥な言葉が、放課後のセックスが、麻薬の売人とのやり取りが、息子を捨てた母親のことが、無政府主義者のことが、(今は使ってはいけない名称かも知れませんが)『ホモ』や『オカマ』のことが、男を惑わせるファム・ファタールのことが、聖書のことが、見知らぬ土地である『メンフィス』や『カンザス・シティー』、『アシュタビューラ』のことが、一人称で、三人称で、時々二人称で、切実に、横暴に、優しく、厳しく、雄弁に、そして情けなく、語られます。加えて、『歌詞カード』なので、言葉だけでなく、そこには、音楽(旋律)もあったからでしょう、文章を読むような感覚ではなく、何かリズム、テンポに乗せて、物語が進行してゆく感覚がありました。それは、どこか、『映画鑑賞』に近い、感覚だったのだと思います。オーティス・レディングというソウルシンガーに、『ドリームズ・トゥ・リメンバー』という曲があります。その歌詞の世界は、とても悲しくて、やりきれなくて、人生に希望など全く持てないような気持ちにさせられますが、その曲を、私は何度聴いたでしょう。聴き終わるたび、『もう終わってしまうの』と何度嘆いたでしょう。名曲とは矛盾です。詩人の悲しい体験を、聴き手も、うんざりするくらい、体験しなければならないのですから。しかし、私にとって、それが『詩』なのです。オーティスの見た、『悪夢』と呼んでいい夢、または、そのメロディ、歌唱、世界に、引き込まれ、とんでもない影響を受け、私自身、詩と呼んでいいのかわからない、つたない文章を書くのです。私は世代的に、それほどラジオを聴いてきたわけではないのですが、前振りが長くなってしまった手前、ラジオのDJ風に、自身の『曲』を紹介させてください……では、次の曲です、東京都、サーカ・Aさんのリクエスト、『夢で見たとおりに』……」

私が「聖なる館」で振り返ったとき、
君は「カシミール」に立ち、2人して、
ギターで刷られた「オーシャン」を泳いだ、
ちょうど私が夢で見たとおりに。

ヘンドリックスの奏でる讃美歌が聴こえる。
「小さな翼」で私たちを空に運ぶ。
家は赤く、煙は紫、
ちょうど私が夢で見たとおりに。

 「ストロベリー・フィールズ」に触れたとき、
 眼鏡をかけた孤児はとある神秘を知ったーー
 「愛こそが」、個と個を繋ぐ。
 そしてそれは私と君の間にもある。

「ダウン・バウンド・トレイン」に乗り、
キース・リチャーズがダイスを転がす。
ブルースが蒸気に消えてゆく、
ちょうど私が夢で見たとおりに。

 愛しのキャンディーよ、私には、
 君の「言ったこと」がわかる。
 何故なら私たちは近くにいて
 (I’ll be your mirror)、
 鏡越しに見つめ合っているのだから
 (Refrects what you are)。

モリソンのモーテルにたどり着いた。
ヒアシンスの家の、ソウル・キッチン。
ムーンライト・ドライブを走り、星条旗を探そう、
ちょうど私が夢で見たとおりに。

 兄の油絵が溶け出し、
 母のキルトで紡がれる。
 詩を書くとは思い出すこと、
 未来の新聞紙に予告された過去を。
 (ああ、父よ。)

夜明けが訪れたーー私と君は、
ジョージ・ハリソンの「豚」たちと、
詩的イメージをそれぞれの場面に片づけた、
ちょうど私が夢で見たとおりに。

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