「世界の中にありながら世界に属さない」 吉福伸逸さん
吉福伸逸さんを知ったのは、「仏教のコスモロジーを探して―深くて新しい仏教のいま―」という仏教をめぐる田口ランディさんの7名の対談集でした。
―菩薩が「一切衆生救済」のために戻ってくる、「人を救う」という発想が入ってきた途端に、僕は仏教は堕落したと思う
―「人を」としたところで、自己と衆生という分裂を起こしている
この吉福伸逸さんの発言は、衝撃的で強烈な印象を与えました。他の対談の方よりも鮮烈に!
「菩薩の請願」の発想は人を癒すことができない――
わたしは何度読み返しても、この真意を掴み切れず疑問や違和感が残る、しかし彼のいう大きな「自己変容の道」はとても重要なことを伝えているのではないか?と感じて、吉福さんの著書やトランスパーソナル心理学を読むようになりました。
そして、田口ランディさんの吉福さんについて記事を発見。
さすがです!ランディさんがこの時の吉福さんとの対談で感じた疑問について、吉福さんの在り方、生き様から受け取れることも含めて見事に話を展開されておられます。
もちろん結局は、わたしが読み取れる範囲でしか掴めないのですが―――
書籍としてまとめる目的で4日間の講義を開催されたという「世界の中にありながら世界に属さない」を取り上げて、吉福さんが投げかけてくれた自分のこころの震動と余波を書き綴りたいと思います。
まずは、大まかにざっくり主旨をまとめてみました。
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個人の語る「社会」とは、すべてその個人に属するもの
「こころの4つの力」 強さ:①<②<③<④
①思考の力(エネルギー源:情報、知識)
②感情の力(エネルギー源:印象)
③存在の力(エネルギー源:アイデンティティの放棄・破綻)
④関係性の力(エネルギー源:別れ)
①②③の3つの力をバランスよく発達することが大切であり、この3つの背景となるのは④関係性の力であり根幹部分。
「社会」とは、個人が成育環境で経験してきた④関係性を通じて、自分で作り上げているもの、その人が語る「社会」「世間」とは、あくまでもその個人に属するものであり、個人の関係性から培われてきた信念体系を投影して認知、解釈している、内在化された概念ということ。
自分の妄想から作られた「社会」に適応しようとして、自分で自分自身を抑制、抑圧し、アクティング・アウト(行動表出)させている。
また、関係性において、幼少期の健全な関係性は存在しない、つまり、何らかの執着や傷を与えられない関係性など存在しないということ。
故に、固定した関係性を断ち切る、別れることはエネルギー源になる。
自覚的にアイデンティティを破綻させること
ある特定の段階で、人は自分の成長を止める作業を始めていき、現状維持に腐心することになる。
自己防衛機能の強い自我を後退させるためには、自覚的にアイデンティティを破綻させること。
「自覚的」とは、アイデンティティの破綻に際して、自我の反応は他の責任にし自分を被害者としてメロドラマを作り出す、その投影反応を見破り、認めるということ。
「世界の中にありながら世界に属さない」
セラピーを行う上での望みは、「社会的な規範を身につけた上で、その規範に縛られることを徹底的によしとしない生き方をしてほしい」ということ。
わたしたちの基本は、どんなことをしていても世界内存在である、自己超越は妄想にすぎない。
だから、スーフィーの言葉「世界の中にありながら世界に属さない」―属さないとは縛られないこと、この意識変容のところにまで行ってほしい。
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吉福さんのセラピーの現場では、まさに熾烈の存在感で、「本格的な出会い」―その人の自己イメージやアイデンティティ、社会的な地位など関係なく、一人の人間、生命体として出会うことを目的としていた、
そのため彼は、相手に嫌われること、怒らせることを厭わず、編者あとがきにあるように、彼は「目の前にいるその人に向けて、その存在を最も奥深いところから揺るがすことに賭けていた」のでしょう。
やはり、彼のセラピーでは、その本格的な出会い―その本質に直面することは、決して外すことのできない中核だったと思われます。
アイデンティティの破綻の場として、安心・安全な場を提供すること、これは言葉で言うほど簡単なことではないだろう――特にセラピスト側は。
プロセスは流動的で、刻々と進んでいく――トラウマを抱えた相手の激しい衝動やアクティング・アウトをも受けとめ、かつ、のみ込まれることなく、現場の安全性を担保しながら行えるかどうか。。。どうだろう――?
読んでいて、吉福さんだからこそ、できるセラピーなのではないかと思わざるを得ません。
このようなセラピーをずっと続けてきたのは、自分のために、自分が必要だからしてきた、そして、セラピーで望むことは、社会的な規範を身につけた上で、その規範に縛られることを徹底的によしとしない生き方をしてほしいこと――しかし、そこを求めてセラピーに来る人はいない、だから充足感が持てないという。
これも、自己の投影という自覚の上で、セラピーを続けている=ご自身のアイデンティティを放棄し続けているのだろう、と感じました。
彼には人の「社会化されてない面」が魅力的であり、なぜなら、人類の未来はそこにしかないからだ――と言い切っています。
吉福さんご自身は、非常に頭が良く鋭敏であり、自我の防衛機能も使いこなしながら、社会に適応する方法などは熟知しているからこそ、
その限界――自分の妄想の域から抜けることができないことも知っているのでしょう。
だからこそ、彼の言葉は、心の奥に沈静したものを揺り動かすように、鋭く刺さってくる、世界に、社会に縛られないように。自覚的であるように。
最後に、吉福さんの強く印象に残った言葉です。
一つだけ明確に言えるのは、自分の存在意義のようなものを模索しようとは思っていないんです。
ぼくは、こういう命をもって、生き切っているということが大切なんですね。生き切って、できるだけあらゆる瞬間に何らかの充実感を感じていたいと思っているんです。
存在意義を探してしまわないだろうか?
――わたしは、まだ自分の選択する行為に対して、何らかの意義や価値を探してしまうだろう。
そこで、指針となる意義・価値を得られたなら、その意義に合うアイデンティティを作り上げていくのだろう――そして、次第に柔軟性、流動性を失い、自分で自分を追い詰め、破綻していくのだろうか?
それとも、吉福さんの言葉を思い出し、自覚的に破綻するのだろうか。
この著書との出会いに、感謝しています。
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