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#1「告白」自分が教員を志望する理由

こんにちは。おにぎり先生です。

自分の自己紹介はこちらの記事にて!

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今回の投稿では、

なぜ自分が教員を志望するに至ったのか」について書こうと思います。

私、今はだいたいのことはポジティブに捉えますし、

某ドラマの好きなセリフ「絶望する暇があったらおいしいもの食べて寝る」をモットーに生きていますが、

昔は「死ぬ」ことばかりを考えている、自尊感情が風前の灯火人間でした。

ただ、20歳を過ぎ、自分の発言に責任をもてる年齢になったこと、

私の過去の「どん底」から10年近くが経つこと、

二度と自分のような人間を生み出してはいけないと思うこと、から

自分自身が踏ん切りをつけ、その過去を背負って考えていかなければいけないと強く思うようになり、「note」という媒体を使って発信させていただこうと思うようになりました。

かなり重たい内容ですので、ご覧になる際は自己判断でお願いします。


1.荒れ果てていた中学時代

どんな人にも、「荒れていた」「反抗していた」時期はあったと思います。しかし、自分のそれは少し…いや、かなり特殊であったと思っています。

まず、周りから見たらどんな人だったのか。スライドにまとめてみました(大学院の課題でつくったものを使用しています)

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ここでいうAくんとは私のことです。

中2のとき、いわゆる「登校しぶり」になりました。

今思えば、起立性調節障害だったのかなと思い返しますが、毎朝母に起こされて、起こされるけど「行きたくない」を繰り返していました。学校は徒歩通学だったのですが、行く気がなかったので母が出勤前に車で学校近くまで送ってくれていました。

なんとやる気のない生徒だったのでしょう(笑)(※実はこれは高校まで続きます(笑))

しかし、そうなってしまったことにも背景がありました。


小学生の頃は、勉強もしっかりできたし、友達ともそれほどトラブルなく過ごせていたし、頑張るいい子タイプでした。また、友達に勉強を教えることが好きだったので、親の職業ということもあって、将来の夢に「小学校の先生」があったのは自然なことでした。

ただ、そのころから、学校の先生からは「葵くんは学校の先生の息子だから優秀だろう」という目で見られていたような気がしました。廊下で他クラスの先生にすれ違っても、親の元同僚であるため、そのような目で見られていたように感じて(自意識過剰な性格でした)、「学校」という場所にどこか息苦しさを感じながら過ごしていました。

そんな自分にあったこと。いわゆる「中1ギャップ」です。

中学生に入ったら「縦の繋がり」を学びますが、自分の学区は元々ものすごく荒れていたので、荒れている同士の縦の繋がりが非常に怖く見えていました。たぶん自分たちの代が(自分含めて)一番問題アリな学年だったのでしょうけど。

また、部活動。私は運動が苦手でしたが、文化部が少ない学校ということもあって運動部に所属しました。今となっては部活動も縮小傾向ですが、当時はまだ移行期で、ふつうに土曜日曜も朝7時集合の1日練習があり、勉強も難しくなり、ついていけなくなりました。

また、学級ではちょっとした言い合いで某友人に火がついてしまい、なぜか某友人から毎日のように暴力を受ける対象になっていました。私はやりかえさないタイプだったのでただただその暴力を受けるだけでした。他の友人も後から駆け寄ってきて心配はしてくれましたが、今思えば彼らは「自分も暴力行為の対象になりたくない」から先生に報告するとかの行動ができず陰から心配してくれたのかなと思います。(それについては私自身しょうがないとも思っています。当時の自分も実際行動できなかったですし。)

あと、これは後付けかもしれませんが、中1のとき祖父が倒れて入院したのですね(翌年には車いす生活になりました)。そこから少しずつ家でも空気が重たくなっていったと言いますか…

学級も部活も家にも「心の休まる場所はない」常に緊張感があって、休み時間はストレスからか鼻血が出てしまう、そんな感じの中学デビューでした。


2.被害者から加害者に

そして中2。

事態は加速し、自分のストレスはさらに蓄積していきます。

中1の頃に暴力を受けていた某友人とは別のクラスになりました。しかし、部活で「言葉遣いがキツく、キレたらどうしようもない子」と同じクラスになりました(記憶ではクラス替えのタイミングで先生に「苦手な子」として相談していたんだけどなぁ…(笑))

正直、某友人とは比べられないレベルで苦手なタイプ。一生分かり合えないと思った子でした。

その子は自分の気に入らないことがあると、激高してものすごく言葉遣いが悪くなる子でした。なんていいましょうか。沸点がとても低くて、「怒り」につながるエネルギーがものすごく早く蓄積されて行動に移るタイプ。その子が怒らないように、一つ一つの発言に気を配っていたような記憶があります。

今、私は大学院やボランティアを通して、教育相談、カウンセリング、アンガーマネジメントを勉強しているので、今思えばその子の「背景」を客観的に着目してその子のために何ができるか考えることができるのですが(個人情報になるのであまり詳しく書けませんが、その子の背景には家庭環境が影響していました。)、

当時その子から暴力・いじめを受けていた自分に、それについて考えられる余裕はあるわけがなく…ただただ日々暴言を吐かれ続け、時には暴力を受けていました。この時点で、マズローの欲求階層説の「安全欲求」はほぼ皆無に等しかったのではないでしょうか。何が安全か分からず、人生どうでもいいと思っていたころでした。

また、私は一人っ子で、誰よりも親のことが好きでした。だから、「親に心配をかけたくない」という思いから、相談できずにいました。先生に言っても、「どうせ先生に言ったら教師つながりで親に話が行く。絶対言えない」とふさぎ込んでしまいました。信用できる人間は周りにいませんでした。(正確にはTwitterで繋がっていたフォロワーさんがいますが、それはまた別の話で)

また、学校をしぶりはするけど休むまでの力がなかった。心配をさせてしまうのは勿論だけど、自分はそこまで行動に移せるまでの強さをもっていなかった。不登校がうらやましいと思っていました。

正直毎日限界の日々だったのですが、当時学校運営の役割などがあって自分がそれに関わっていたのでさらにストレスは溜まります。

そしてあるとき、部活中、その子をけなすような発言をしてしまいました。

周りからの同意を得たかったのだと思います。

私はその子に聞こえていないように言うという細心の注意を払っていました。しかし、その発言はその子に聞こえていました。

ものすごい形相でその子がこちらを睨んで走って向かってきました。そして飛び蹴りをくらい、運動の道具で頭をたたかれ、首を絞められました。


誰か、助けてほしい。

と思いました。自分から悪口を言っておいて、なんて都合のいい人間なんでしょうか。まわりは誰も助けてくれず、ただただ練習に打ち込んでいました。(顧問はそのときいなかった、笑)


殺されるかもしれない

そんな思いもよぎりました。あ、自分、一線を越えたと思いました。


それから私は、「被害者から加害者」という立場に変わっていきます。すべては自分を守るためと「自分の行為を正当化するために」。

そのあとはただただその子に「何かしらの形で復讐」をするためだけに学校に行っていた記憶があります。生きた心地がしませんでした。例えるならば生ける屍のような感じです。

ここには書けませんが、その子のいないところで、それ相応の「ワル」なことをしてきました。その内容についてあえて触れないのは、自分のプライバシーを守りたいとかそんな身勝手な理由ではございません。ここで書けない、簡単には言えないと思うほど、人間として許されない行為をしてきたと自覚しているからです。


しかし、悪いことをしていたらいつかはバレるもので、1カ月ほどたち、私は同級生によってその行為を先生に報告されてしまいます。いろんなことがバレました。しかもその同級生は数少ない友人であったため、「裏切られた」と思い一種の人間不信の状態に陥りました。

生徒指導室に呼び出されて、学年主任から尋問(いい言葉づかいではありませんが、当時の自分の感覚として使わせていただいています)を受けました。

どちらかというか、自分が「いじめられていた」ことについてよりかは自分が「卑劣な行為をして復讐していた」ことについて聞かれたような記憶があります。でも、自分がいじめられていたことについて聞かれなくても正直どうでもよかった。

なぜなら、自分が一番恐れていた「親に心配をかけたくない」ということをしてしまっているから。先生に伝わったので、それは当該生徒である私の保護者にも伝わりますよね。

そして学年主任の尋問中に親があらわれて、すべてを悟った親の顔をみて泣き崩れました。あんなに泣いたのは人生で初めてだったんじゃないかな…死んでいた心が徐々に、人間らしさを取り戻したような感覚でした。

尋問が終わり、親の車で私は学校から帰りました。そして、被害者(自分からしたら当時は加害者と思ってた)であるその子の家庭に謝罪に行く準備をしました。

現場が壮絶すぎて、うまく言葉にまとめられませんが…

謝罪の準備をする母、仕事を途中で切り上げて家に戻ってくる父の姿をみて、自分がしてしまったことの事の重大さに気付きました。

テレビで取り上げられる犯罪者になった気分でした。


謝罪に行き、その子とその子の保護者の方々に謝罪を何度もして、求められたわけではなかったけれど、土下座をしました。その場では穏便に済みそうだったけれど、家に帰るとその子の保護者の方から電話がかかってきて…

自分たちが帰った後に、その子の保護者の方が「いや、やっぱりおかしいだろう」と思われたようで、再度クレームを入れたかったんでしょうね…逆ギレ状態の相手の電話を受け答えしている両親の姿を扉の陰からこっそり覗いていましたが、何も言えませんでした。

もう一度その方の家に行き土下座をしました。その後、学校に行き校長先生や先生方にも土下座をし、その日は終わりました。


日付も覚えています。201X年、7月X日。

私が人生で「一度死を迎えた」と言ってもいい日でした。


3.相手を傷つけられないのならば。

家に帰ってきて、その後の記憶はあんまりありません。

その日は金曜日であったため、次の日は土曜・日曜でした。

土曜日は、自室がモノで荒れていたので家族総出で片付けをしました。

また、たぶん自分の事件のせいで土曜日の部活が中止になり、日曜日に変更になったのです。

母は、自分が「精神的に部活や学校に行けなくなる」ことを防止するためかはわかりませんが、「1時間だけ部活に行っておいで。そしてその子に会ったら、元気に『おはよう!』って言っておいで。それで、十分だから。」と言ってくれました。正直行く気は全くありませんでしたが、言われるがまま、日曜日は1時間だけ部活に行ったのを覚えています。

その後、夏休みを迎えますが、その間にもいろいろと心労はありました(どんだけあるねん笑)。個人が特定されるのでここは伏せさせてください。

夏休み中は、今思えば家族からの温かいサポートを受けていたと思います。

しかし、当時の自分はそんな思いをくみ取れるほどの優しさも、心遣いも完全に消え失せてしまっていて、夏休み中もいろいろと問題を起こしました。

自分のボランティア先の子どもたちを見てきた経験を踏まえて、やっぱり実感するのですが、

相手に対して怒りを向けて、怒りの行動(殴る、蹴る)をしようとして何らかの要因でその行動が抑止されると(人から止められる、自身の罪悪感)、自分の怒りの感情をどこかにぶつけることがかなわないため、今度は自分を傷つける(壁や手で頭を殴ろうとする、自分の体を噛む)ようになるんですよね。

それがリストカットなどの自傷行為なのだと思います。

私も傷つける欲求が満たされないので、自分を傷つける行為に走りました。しかし、私は暴力行為を受けてきてか、「痛み」にはものすごく敏感なので、自分からカッター等を使って自分の体を傷つける行為に走ることは、怖くてできませんでした。

でも、「自分の精神を傷つける行為」はよく行っていて(ここは自分の自尊心で内容を伏せさせてください。)、それを母に目撃されるたびに止められ、泣かれ、時には失望されたこともあったと思います。

年末には再び祖父が入院もして、それも要因の一つというのは正直嫌なのですが、中学生という多感で不安定な時期に、環境も不安定なことが多く、今思えば「よく生き延びたなぁ」と思います(笑)

本当に、どうしていいかわからず、どうしようもないことをする1年だったと思います。

中3になってからも、高校に進学してからもまぁいろいろとありましたが、中2のインパクトがでかすぎるので、かすんで見えます(笑)

こんな感じで、自分の過去の経験の話は終わろうと思います。


4.なぜ教員を志望するのか

暗い話になってしまいすみません。

それでは、なぜ教員を志望するのか、という話を最後話して終わろうと思います。

中2の事件の際の尋問の後、学年主任に何を思ってか「先生をめざしてるんですけど、先生みたいな先生になります」とかなんとか言った記憶があります。自分でも「その状況でバカだろ!!(笑)」と今でも思うのですが、その発言をしたところから、自分の心も少し良い方向に変わったのかなと思います。

この発言や冒頭(1.参照)にもわかるように、私は元々教員を志望していました。しかし、今では自分の根幹にこのような思いがあります。


生きにくさを抱える全ての子どもたちに寄り添い背中を押してあげられる存在になりたい

地獄のような経験をしてきた私にできることは、自分のような子どもを二度とうまないことです。それは、過去の許されない経験をしてきたことに対する贖罪でもあると思っています。私はずっと「教育」に縛られているし、むしろ縛られていたい、という感覚ですかね。

「自分を犠牲にし過ぎないでください」というご意見もあるかもしれません。

しかし、上記の考え方は「自分が生きていく」うえでのベースにもなっているのです。極論、子どもたちのためなら自分の命を捨てても構わないと思っていた時期もありました。大学2年くらいまでかな…

いまでは大学4年間の温かい経験もあって、「相手の命を守るためにはまずは自分の命を守ること」を学び、中2の根暗時代とは比べものにならないくらいのポジティブ人間へと変貌を遂げましたのでご安心ください(笑)また、心理学においてカウンセリングを学んでいるので、自分自身のストレスマネジメントは他の人と比べてうまくできていると思います。


話を教員の志望理由に戻しますが。正直私は集団が苦手なので、自分の性格上教員に向いていないのでは?と思うときがあります。スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーの仕事のほうが、自分自身合っているのかもしれません。(SCやSSWの方の専門性に自分が今から近づくのは程遠く、恐れ多いと自覚しています。)

しかし、私が「学級担任」にこだわる理由。それは、「学級担任は子どもたちにとって、保護者以外で一番近い大人」だからです。教室にいる子どもたちの異変や変化に一番に気付ける存在だと思うのです。そんな立場から、子どもたちを多面的にアセスメントして寄り添いたいし、集団生活の中で自分をよりよく高められる児童を育てたい。二度と自分みたいな子どもを生み出してはいけない。

これらは、私がいじめられ、自分を傷つけてきた過去があるから思うことです。でも、そういう考えをもてる人間になれた、という風に考えれば、中2の出来事も少しだけ、前向きに捉えられるような気がします。

ただ、単純な失敗経験はともかく、自分や相手を傷つけるほどの大きな失敗経験というのは、できれば避けたいものですし、大人が避けるための予防をすべきだと思います。実際、中2の経験が尾を引き、高校時代も苦しみましたし、大学時代の前半も自分や相手に素直になれないことが多かったのです。

そこで今私が大学院で研究している内容に落ち着くのです。

5.おわりに

ここまで、私が教員を志望する理由とその背景について述べさせていただきました。気が付けば7000字をこえそうです(笑)。(編集後記:こえました)

私としては、自分の頭の中で複雑に絡んでいるけどどこから手を付けていいのかが分からないくらい絡んだ糸のような事柄だったので、少しではありますが、どこか楽になったような気持ちでいます。

ただ、同時にこれを読まれた皆様に、様々な思いを抱えさせてしまったと思います。不快な気分にさせてしまうことがあったと思います。申し訳ございません。

ただ、私の「note」はこれがはじまりです。

これから、私の大学での研究事項についての話や、カウンセリングに関する話など、様々なことを綴ることができればと思っています。自分が綴った「note」を通して、少しでも生きにくさから解き放たれるようになっていただけることを祈って、記事を書く所存です。

また、私の心の支えになっているドラマの脚本を書かれている「坂元裕二さん」の作品についての感想や、自分のファン(推し)の人たちについての話など、番外的な話もたくさんできればと思います!

まだまだ経験も浅く未熟者ではありますが、教育についての話を様々な方とシェアできるのも楽しみにしております。


この度は、長文をここまで読んでいただきありがとうございました!

自分の記事を読んでいただいた方が、少しでも前を向いて生きていけますように。


失礼します。


おにぎり先生





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