負社員 第59話 帰りにくい職場には行きたくない

「え」結城が、洞窟内に出現した黒いものを指差して問う。「クーたん、さん?」

「違います」回答したのは黒いものではなく、本原だった。「クーたんじゃないです」

「“クーたんを連れて来た”と言ったのは誰なんだ」時中が疑問を口にする。

「何、あんたらだけなの?」黒いもの――鯰は問いかけてきた。「神はどこへ行ったの?」

「神は消えました」結城が神妙に答える。

「ふうん」鯰は相変わらず甲高い声で答え、それから右に左にと身をよじり、周囲の様子をうかがった。鯰が動くたび、みちゃ、みちゃ、と音がする。「スサノオは?」鯰はまた問いかけた。

 時中と本原は、結城を見た。結城は目を丸くして二人を交互に見返した。

「いや、あんたじゃなくて」鯰はみちゃっと結城を振り返り付け足した。「あの出現物の方の」

「え」結城がさらに目を丸くして鯰を見、

「出現物?」時中が眉をひそめて鯰を見、

「神さまではないのですか」本原が口を押えて鯰を見た。

「さあ」鯰は小さな池のほとりに身体を半分のぞかせた形で小首を捻った。「岩っちは、神も出現物なのかとかなんとか呟いてたけど」

「岩っちって、地球さん?」結城がさらに目を丸くして訊き返し、

「神も出現物なのか」時中がさらに眉をひそめて訊き返し、

「神さまではないのですか」本原が口を押える手を増やして訊き返した。

「でも、そんなこと言い出したらそもそも生物ぜんぶが出現物なのかも知れないし、とか。もしかしたら岩っち自身も出現物なのかも知れない、とか」

「うひー混乱する」結城が頭を抱え、

「哲学的命題だ」時中が首を振り、

「私たちは皆兄弟なのですか」本原が頬を押えた。

「てか、なんであたしこんなとこに来ちゃったんだろ、突然」鯰は出し抜けにひときわ甲高く叫んでぼちゃんと水中に潜った。

「あっ、クーた、鯰さん」結城が慌てて池に走り寄る。

「待て」時中が制止をかける。

「鯰さまは会社にいたのではないのですか」本原が問う。

 結城と時中は動きを止め、本原に振り向いた。

「そういや、そうだよね」結城が池を見下ろして答える。「てことは」

「鯰について行けば、社に戻れるのか」時中が推測を述べる。

「泳ぐのですか」本原が問う。

「ていうか、潜水」結城が回答し、三人ははたと目を見交わし合った。

「結城の趣味だな」時中が話を展開させる。

「俺?」結城が自分を指差す。

「結城さんが潜って会社まで行って下さるのですか」本原が問う。

「まあ、やってもいいけどでも、トキ君と本原ちゃんはどうすんの」結城が二人を交互に指差す。

「神をここに連れて来ればいい」時中が答え、

「その呼び方はやめて下さい」本原が拒否した。

「だめだ、戻れない」鯰が再び甲高く叫びながらぼちゃんと水から飛び上がり、池の傍にべちゃんと上半身を着地させた。

「あ」結城が目を丸くして鯰に振り返る。「お帰り、なさい」

「岩っちー」鯰は岩天井に鼻先を向け甲高く呼びかけた。「聞えるー?」

 特に何も変化はなかった。

「やっばいなこれ」鯰はべちゃっと池の傍に横たわりながら言った。「なんでこんなとこに来たんだろあたし」

「えと、水中どうなってんすか」結城が訊く。「行き止まりっすか」

「行き止まりではないんだけどね」鯰が説明する。「少し先に、メルトがある」

「メルト?」結城が訊き返す。

「うん」鯰が頷く。「融けた岩石」

「え」結城が目を丸くし、

「マグマのことか」時中が眉をひそめ、

「まあ、すごい」本原が頬を押える。

「ここ多分、あれだよ」鯰が推測を述べる。「熱水噴出孔のとこ」

「なんすか、それ」結城が訊き返す。

「地球上で最初に生命体が生まれたとこ」鯰が回答する。

「なんですと」結城が叫び、

「マリアナ海溝の底か」時中が呟き、

「まあ、そんな」本原が溜息混じりに囁く。

「確かスサノオが、あんたらを連れて行こうとしてた所」鯰が付け足す。

「スサノオってあの、天津さんの依代着てた」結城が確認し、

「出現物か」時中が確認し、

「神さまではない方ですか」本原が確認した。

「はー」鯰は大きく溜息をついた。「残業かあー」

「残業?」結城が聞き返し、新人たちは互いに目を見交わし合った。

「そうだよ、もう池でのんびりまったりしてていい時間だったのにまたこんなとこまでいきなり飛ばされてさー、ないわー」鯰は愚痴をこぼし始めた。

「え、そんな時間なんすかもう」結城が確認し、

「我々も残業扱いになるのか」時中が確認し、

「何時までの残業になるのですか」本原が確認した。

「あんたらの場合、死ぬまで残業ってことになるのかもね」鯰は甲高くそう言い、けらけらと笑った。

「なんすか、それ」結城が叫び、

「洒落にならん」時中が苦虫を噛み潰したような顔で言い、

「労災プラス残業代になるのですか」本原が確認した。

     ◇◆◇

「ん」鹿島が池の方を見る。

 恵比寿も顔を上げ、鹿島を見、その視線の先の池を見る。

「おかしい、な」鹿島は呟きながら立ち上がり、池に近づく。

「どうかしましたか」恵比寿は訊くが、鹿島の返答はない。

 だが恵比寿自身も、その“異変”には半ば気づいていた。瓢箪が、軽い。鹿島の要石(かなめいし)の力には及ばず、ほんのわずかの力添え程度ではあったが、池の中の鯰を抑えつけておく力が、空振りしている感がある。つまりそれはどういうことかというと、

「鯰が、いない」鹿島が独り言を言った。

「まじすか」恵比寿は半ば予測した事が的中したと知り椅子から立ち上がった。

 鹿島は振り向きもせず、池の傍に佇みじっと水中を見下ろしていた。

「社長」木之花がPC画面を見たまま大山に声をかける。

「ん」大山はPCからすぐに目を離し木之花を見る。

「新人さんたち、今回出張の扱いで処理していいんですよね」木之花は確認する。

「うん、もちろん」大山は頷く。

「じゃあ」木之花がキーボードを少し操作すると、プリンタから紙が刷り出された。席を立ちそれを取り出して、大山のデスクに置く。「残業代プラス出張費の見積もりは、これになります」

 大山はA4版書式を持ち上げ、その数字を見、一度ゆっくりと瞬きをし、またしばらく黙ってその数字を見つめ「――わかりました」と小さく答えた。

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