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カウントアップが始まる

割引あり

カウントアップが始まる

 公園のベンチに座りスマホをいじっていると、こちらに近づいて来る足音が聞こえた。
 顔を上げると、白いレースのついたワンピースを着た、小学三年か四年ぐらいの女の子だった。両肩から三つ編みを前に垂らしている。その子は確かに俺に向かって歩いて来ていた。
「こんにちは」女の子は俺を見ながら少しだけ頭を下げた。
「あ」俺は一瞬、返事をしていいのかどうか迷ったが、まあ害はなさそうかと判断し「こんにちは」と少しだけ頭を下げた。
「あの」女の子はまじめな顔で俺に訊いてきた。「今まで何回『ありがとう』って言いましたか?」
「え?」俺は眉を吊り上げ目を見開いて訊き返した。「ありがとう?」
「あ、はい」女の子はこくりとうなずいた。
「――」俺の頭の中で思考が激しく転回しはじめた。この子は、いわゆる『やばい』部類に属する類の存在ではないのか? 質問の意図は? その意味は? どこの子だ? 親は? 学校は? 一人か? 何かの授業の一環で町の人々にインタビューをしているのか? 何のために? 教師は?
 女の子はその間じっと俺を見つめたまま、身じろぎもしなかった。
 俺がただ眼球を細かく動かしながら激しく考えを巡らせている中、女の子は再度口を開いた。「ありがとうの数だけ、あなたに星をあげます」
「――」星、という形に俺の口は動いたが、それは声にならなかった。
 女の子はそこからさらに何十秒か(俺には悠久の時が経過したように感じられたが)俺を見た後「大体の数で数えてみます」と宣言した。
 俺が返事もできないままで女の子をただ見ている中、その子は「えっと、一日平均一回『ありがとう』を言ったとして、三百六十五日かける……」と小首を傾げ「二十歳ですか?」と訊いてきた。
「え」俺はさすがに少し吹いた。「三十二だよ。そんな若く見える?」
「あ」女の子は初めて笑い、口元を手で押さえた。その仕草はただの普通の可愛い少女でしかなく、俺の心はつい和みかけた。「三十二」言い直す。「一万一千六百八十回だ」
「――」俺はまた絶句した。しまった、という思いが脳裡を走る。年をばらしてしまった――
「人生で初めて『ありがとう』を言ったのは、何歳のときですか?」女の子はまたまじめな顔になって質問してきた。
「――え」俺は、今にして思えばなぜか立ち上がりも駆け出しもせず、ただ茫然とその場に座ったまま少女の顔を見た。「いや、それは」知るわけがない。というか、覚えているわけがない。まあそれもだが、その時俺は、こんな幼い少女の口から「人生」という単語が出て来ることにいささか違和感を感じていた。この子……本当に、少女か?
「それがわからないと、正確な数の星を分けてあげられません……」女の子は困ったように少し俯いた。
「いや、別に」俺はいよいよ、立ち上がってその場を一刻も早く去ろうと決めた。「いらないんで星とか。ども」言いながら歩き出す。
「あ、でも」女の子は俺の背後からなおも声をかけてくる。「支配できなくなりますけど、いいんですか?」
「いや大丈夫です」俺はちらりと片手を上げて、女の子の顔が見えない程度にわずかだけ振り向きつつ口早に答えた。「さよなら」
「いいんですか?」女の子の声が、頭の真後ろから聞こえた。
 真後ろで、その子はそう言った。
「――っ」俺は大きく息を呑みながら振り向いた。
 女の子は、俺から一メートルほど後ろに、確かに俺を追って小走りについてきている格好だった。
 だがその位置で物を言っても、今みたいに頭の真後ろから声が聞こえるはずはなかった。
 俺はわけがわからなかったが、もはや恐怖をしか感じていなかった。
 だめだ! この子はだめだ! この子に関わっちゃだめだ! この子と話しちゃだめだ!
 俺はだっと走り出した。何も告げず、振り向きもせず一目散に走った。
 会社に戻り息を切らしながら席に着くと、同僚たちが笑いながら「どうした」と声をかけてきた。まあ俺の、その時の蒼白な顔を見れば訊かずにはいられないだろう。
 俺は正直に、変な女の子にからまれたと話した。
「変な女の子?」
「なに、どんな子だよ」
「可愛い子?」
「可愛い……っちゃ可愛かったけど」俺は口ごもった。
「何歳ぐらいの子?」
「小学、三年か四年ぐらいだったんだけど、でも」
「ロリか」
「ロリだな」同僚たちは無駄に盛り上がりはじめる。
「いやそれがさ、その子」俺は大急ぎで補足情報を告げた。「人生で今まで何回『ありがとう』って言ったか、って訊くんだよ。おかしいだろ。やばいだろ」
 皆はしん、と静まり返った。
 俺はてっきり二つ返事で「はあ?」「何それ?」「やべえな」「妙なのに引っ掛かったな」といった言葉が返ってくるものとばかり思っていたので「え?」と皆の顔を見回した。
 すると皆は、今度は互いに顔を見合わせ、それからやっと「あれ、それ普通知ってるだろ」と一人が言った。
「え」俺は目を見開いてそいつをまじまじと見た。
「うん、普通はー、知ってるよな」
「うん、俺は覚えてるよ」
「俺も。五万八千七百とんで四回」
「おーすげえ。俺三万と二百三回だけ」
「あらーそれはちょっと厳しいぞ。俺は四万八千」
「ちょちょちょ」俺は思わず両手を上げて皆を制した。「なに、皆、今までの人生で自分が何回『ありがとう』て言ったか、覚えてるの? なんで?」
「あれ」全員が目を見開いて俺を見た。「親に言われなかった?」
「――何を」
「だから『ありがとう』って言ったら、何回言ったかちゃんと覚えときなさいって」
「そうそう」
「言われたな」
「言われたわよね」
 俺は眩暈を起こしそうだった。
「爺ちゃん婆ちゃんにも言われたよな」
「うん。先生にも言う人いたよ」
「そうそう。校長先生が終業式とかで言ってた」
 こいつら、何を言ってるんだ?
 こいつら、あの女の子の仲間か?
 こいつら、何者なんだ?
 ここはどこなんだ?
 俺は異世界にいるのか?
 異常な世界に?
 
 突然、辺りが暗くなった。
「あ?」改めて驚き、俺はぐるりと周囲を見回した。
 暗闇。まっくら。
 右も左も、天井も床も、すべてが闇と化していた。
「な、なんだ――これ――おい。おーい」つい今しがたまで手を伸ばせば触れるほどの近くにいた同僚たちを呼ぶ。「皆、どこ行った? おーい。お――い」歩き出す。闇の上を、俺は歩き、そして走った。
 だが闇の景色は一切変化しないので、激しい虚無感に襲われすぐに立ち止まり、俺は闇の中うずくまった。
「これから裁判を行います」突然、女の子の声が聞こえた。
 はっと顔を上げる。
 さっきまで闇だったそこには、ドラマなんかでよく見る法廷のような風景が一瞬にして現れていた。裁判官、検事、弁護士――ご丁寧にというのか傍聴者までいる――たちが、それぞれの席に着座している。
 そして裁判長の席には、あのお下げの少女が座っている。彼女はまっすぐ俺を見下ろしていた。
「被告人は『ありがとう』の数を数えることを、これまでの人生においてことごとく怠ってきました」検事が声高に主張する。「これは人生に対するこの上なき冒涜であり、死罪に相当するものと思われます」
「――」俺は自分でも知らない内に木の台の上に立っており、両手両足にもいつの間にか枷をはめられていた。あんぐりと口を開けながら、目の前の光景を眺める。
「被告人は『ありがとう』を数えなくても星を支配できると勘違いしていたのです」今度は弁護人が話しだした。「情状酌量のもと減刑を要求します」
「死罪だ」「赦すな」傍聴席から怒りの声が飛ぶ。
 カツンッ、と木槌の音が高らかに響いた。
「判決を下します」お下げの少女は厳かに宣言した。「『ありがとう』を数えなかった罪により、被告人を死罪とします」
 早く醒めねえかな。
 俺の脳裏にはただその文句が存在していた。
 早く醒めねえかな、この夢――
 
 そして周囲はまた宇宙空間のような暗闇となった。
 もうきょろきょろしたり歩いたりする気力も失せた俺は、次は何が出てくるのか半ば待ち構えてさえいた。
 すると次に出て来たのは、処刑場だった。
 砂埃の舞う屋外の寂寞とした景色で、俺は地面に膝を突き左右に立つ男たちに両脇から腕を掴まれ肩を押さえられ前のめりにかがまされていた。
 両手足は、今度は縄で固く縛られている。
 ぎらり、と巨大な剣が視界の隅に映る。
 斬首刑かよ。野蛮だな。
 俺は目を閉じた。
 何故だかわからないが、ふっと微弱な笑みがこぼれた。
「『ごめんなさい』だったら一億回ぐらいは言ったんだけどな」呟く。
 息を呑む音が頭上で聞こえた。
 俺は視線を上げた。
 肩を抑えていた力がふっと緩んだかと思うと、その手は俺の体から離れた。
 俺は体を起こした。
 周囲の、刑執行係の者たちが目をまん丸く見開いて俺を凝視し、それから互いにひそひそと早口で何か話し出した。
 俺は両手を後ろ手に縛られたまま、きょろきょろと見回した。
 なんだ?
 何が起こった?
 執行人たちは次第にそわそわしはじめ、そのうち一人がだっと駆け出してどこかへ去って行った。
 それから一、二分後くらいに突然辺りの景色が、執行人もろとも消え失せた。
 俺はまた、暗い宇宙空間のようなところに独り浮かんでいた。
「あれ」俺は独り呟いた。「赦免? てこと?」
「冥王様」その時、あの女の子の声が聞こえてきた。「大変失礼をいたしました。これまでの無礼をどうかお許し下さい」
「なに?」俺はわけがわからずただきょろきょろするだけだった。いつの間にか手足は自由になっている。縛られていた手首を互いにこする。
「『ごめんなさい』を一億回も言ったあなた様は、冥王として認定されました」
「――」俺はきょろきょろするのをやめたが、相変わらずわけがわかってはいなかった。
 冥王……って、悪魔的なやつ?
「さあ、今いるこの暗黒界があなた様の支配域となります。ここを自由に作り変え、あなた様独自の冥界を築いて下さい。それでは」
「あの」俺はいろいろと質問したかった。
 だが女の子の声はそれきり聞こえず、俺の呼びかけにもその後一切答えてくれなかった。
 俺は暗闇の中、ただ独り浮かんでいるだけだった。
 どうすればいい――
 ここを自由に作り変えて、と言っていたな――
「椅子」俺は声にしてみた。
 するとなにもなかった空間に、木製のダイニングチェアのようなものが現れた。
 俺は思わず笑いながら、それに座った。すわり心地も普通のダイニングチェアだ。
「テーブル」と言ってみる。
 すると目の前に、ダイニングテーブルが現れた。
「めし」と言ってみる。
 ちょん、とテーブルの上に、茶碗に盛られた白米が湯気を立てて現れた。
 おかずは何にしよう……今俺が食いたいものは……
「あの、母ちゃんの卵焼きと芋の味噌汁」
 それが、出てきた。
 俺はしばしの間言葉もなくそれらを見つめた。
 母ちゃんの、卵焼きだ……芋の味噌汁だ……なんで? いやつまり、俺の望み通りにこの闇の世界が作り変えられるんだろうから、俺が望む物はその通り、現れるのだろう。
 俺の望む物そのものが。
 気づくと俺の頬は涙で濡れていた。あわてて袖で拭う。やべえ独りでよかった。
 母ちゃんの卵焼きと芋の味噌汁を目の当たりにして泣きべそかくとか、一生の恥だ。
 よし、じゃあ俺は冥王として、ここを望み通りの世界に変貌させてやろうじゃないか。
 どんな世界にする?
 皆が俺をちやほやと崇め奉り、あり余るほどの金銀財宝を手にし、絶世の美女たちに取り囲まれ、世界中の超贅沢な食材を集め一流シェフが腕によりをかけた料理を毎日喰らい、目玉が飛び出るほど高い酒を浴びるほど飲み、高級車をとっかえひっかえ乗り回して――
「うー」俺はテーブルの上に突っ伏した。なんちゅう貧相な望みか。冥王のレベルには程遠い。
 でも、それもそうだ。つい昨日まで――というかついさっきまで、しがないサラリーマンだった俺が、なんでいきなり冥王だの星の支配者だのになれるものか。キャパシティ不在にもほどがある。
 俺になれるのは、せいぜい……せいぜいがとこ……普通の世界に生きる普通の人間だよ……
 俺はしばし俯いたままじっと座っていた。
「あんた早く食べないと冷めちゃうよ」
 突然母親のそんな声が聞こえた気がして、はっと顔を挙げる。
 俺が命じて出現させた白飯と卵焼きと味噌汁が、まだそこにあった。
 しばしの間それをじっと見て、俺は言った。「箸」
 するとちょん、と目の前に黒い塗り箸が横向きに置かれたので、俺は手に取って食事を始めた。確かに、母ちゃんの作ってくれていた甘じょっぱい卵焼きと、大き目に切ったじゃが芋のごろごろ入った味噌汁だ。
 食べながら、いや食べる前から、いやもしかしたら最初から、俺はここをどんな世界にしたいのかはっきり心に思い描いた。
 そして食後、俺は命じた。「元の世界」
 
 五年が過ぎた。
 俺はサラリーマンとして真面目に勤め続け、順調に昇給し、課長というポストにも昇進した。
 結婚もし、娘はもうすぐ二歳、今二人目の子が妻のお腹にいる。
 娘は絵本が好きで、そのためか言葉も早くから喋り出し、見聞きした単語をすぐに口にするのが面白くもあり可愛くもある。
 今日仕事から帰った時、いつものように娘が俺の脚にしがみついてきて「パパおかえり!」と叫んだ。
「ただいまー」俺もいつものように小さな娘を抱き上げ、高い高いをする。
 キャハハハ、と娘はいつものように大喜びし、俺が床に下ろすとまっすぐに見上げ「ありがとう」と言った。
「うん」俺は頷いた。
「うふふふ」妻がそんな俺たちを見て笑う。「さあ愛果ちゃん、今のは何回め?」
「え」俺はさっと真顔になり妻を見た。
「ごかいめー」娘は右手をいっぱいに広げて母親に向かい差し出した。
「はいよくできましたー」妻は大きくうなずく。
「――」俺は娘と妻とをきょろきょろ見回した。
 なんで?
 どうして?
 なにそれ?
 どういうこと?
 いや、まさか、いや、そんな、あれ、ばかな、一体――
「どうしたの?」妻がきょとんとした顔で俺を見る。
「――いや……」俺は何も言えなかった。
 訊けなかった。
 そうか、それはそうだ。
 そんな思いが脳裏の片隅から染み出てくる。
 だってここは『元の世界』なんだから。
 俺が、そう命じたのだから。
 俺が、元いた世界なんだよな。
 ああ。なんであの時「普通の世界」と命じなかったんだろう?
 今からでも、そうするか?
 この異常な異世界じゃなく。
「ありがとう」も「ごめんなさい」も特にカウント不要な世界を――
 けどそうすると、今俺の傍にいる家族とは別れてしまうことになるのか?
 誰か教えてくれ。
 だが誰も、女の子も弁護士も執行人も、答えてくれなかった。
「ほら早くお風呂入っちゃってよ」妻が俺のネクタイを解き始める。「愛果が待ってるわよ。今日はトンカツにするから。揚げたて食べられるようにしとくからさ」
「お」俺は好物の料理名に思わず顔をほころばせた。
 妻も笑う。
 ああ。
 もう、いいや。
 この世界でいい。いや。
 この世界が、いい。
 ありがとうの数か。
 わかったよ。
 数えりゃいいんだろ、数えりゃ。
 俺はふう、と息をつきつつ娘の待つ風呂場へ向かった。


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