ショートショート 熱帯夜

 一人がけのソファにそれぞれ腰を下ろすと、さっそく喉を潤す私の前で、彼女は長い睫毛を伏せ、いやに細い指で、ちまちましたプラスチックの容器と戯れを始めた。その様子すらどこか羨ましく、私はストローの首に手をかけたまま釘付けになった。ミルクとガムシロップが溶け込んだ淡い色のグラスに、ようやく口をつけたかと思うと、あっと呟く。
「これ、卒業旅行のお土産。莉緒にもどうぞって。」
 笑みとともに差し出されたのは、手のひらに収まる大きさの、赤いちりめん細工の巾着袋。
「ありがとう。よろしく言っておいて。」
「そんなの、直接言ってよ。」
「友達の彼氏と連絡取るのはね。」
 両の手でやわやわ揉むと、プラスチックの擦れる音がした。中にコツコツと低い響きがして、飴玉とわかる。食べられるものでよかった。ただこの袋はどうしたものか。
「莉緒なら気にしないのに。そういえば、あれ、聞いたよ。紹介できそうな人いるって。」
「え、本当?」
 うっかり手でも滑らすように、心臓がひとつ激しい鼓動を打った。そう、これは間違い。
 彼女とは1年生の頃からの付き合いで、学科もサークルも同じだったことから仲を深め、ゼミも同じところを選んだ。それほど相性がよかったのだ。無論かけがえない友人だが、四六時中行動を共にするようになった以上、彼女を失うということは、大学内に居場所を失くすことと、もはや同義である。
「お願いしようかな。彼氏ほしいし。」
 とはいえ女子大生の友情なんて、この一言で足りる。ツッコミを誘うようにおどけた口調で言えば、案の定食いついた。
「まずは好きな人を作って、それから付き合いたいって思うものでしょ。」
「そんなこと言ってられないよ。大学入ってから、誰とも付き合ってないんだもん。」
 極めつけに「あんたはいいよね。」と付け加えると、彼女はたちまち機嫌をよくする。「おかげさまで、順調です。」こうなればしめたものだ。後に続く惚気話をただ聞き流すだけで、私の地位は安泰ときている。こんなに有難いことはないのだから、大盤振舞で相槌くらいサービスしてやろう。
「ほんと、羨ましいよ。」
「そう? じゃあ呼ぼうか。」
「え?」
「授業もバイトもないし、私が連れ出さなきゃ、どうせ引きこもってるんだから。」と、彼女は慣れた手つきで電話をかける。私が会えない理由を必死に探している間に、いつだって会いたい理由しかない二人は、わずかなコールで繋がった。
「もしもし。今何してる? うん。」
 その口元には呆れたような笑みが浮かんでいる。見限る気なんかないくせに。
 彼女から目をそむけたくて、私は遠い記憶に思いを馳せた。


 大学1年の夏、私たちはサークルの合宿で軽井沢を訪れた。交流を深めること自体が目的だったようなもので、到着後、いきなりバーベキューが始まった。
 見知った顔はごくわずか。そんな彼らも、瞬く間に上級生に奪われてしまった。居心地の悪さは同じ1年生なら変わらぬものと思い、彼女について回ったが、こんな私とも親しくなるほど社交的な彼女は例外で、知り合ったときと同じようにして易易と、明るい輪の中に溶けていった。
 行く宛を失くしてひとり新緑の中を彷徨っていると、燦々と照りつける太陽の下、まるで焼けていない細い腕で、飯盒をつつく男を見つけた。夏の日差しも濃い森林もバーベキューも、すべて似つかわしくない彼の姿は、その場の景色からはっきりと浮き出て私の目に映った。目を離せずいると、やがて相手もこちらに気がつき、私たちは束の間、見つめ合う形になった。
「お米ならまだだよ。」
 そんなことは気にもしていなかったので、返す言葉に詰まった。すると、飯盒の蓋にちょっかいを出していた棒切れで折り畳み式のベンチを指す。
「座んな。まだだから。」
 先輩の指示ということもあってか、体は素直に従ったが、二人掛けといえど初対面の距離ではないそれに、腰を下ろしてから気後れした。
「1年生?」
「はい。」
「名前は?」
 淀みなく答えたはずが眉根を寄せられ、怯んだ私は身構える。しかし、次に告げられたのは、拍子抜けする一言だった。
「それ苗字でしょ。聞いたの名前。」
「えっ。ああ。莉緒です。」
「莉緒ちゃん。」
 ふふ、とはにかむ表情は涼しげだ。暑くないのだろうか。疑問に感じていたところへ、まさに同じ質問を投げかけられる。思わず面食らった隙に、彼の指が私の髪を一房攫っていった。
「暑そう。」
 何が避暑地だ、と思うほどに熱かった。
「そろそろ、切ろうかと思ってます。」
「そうなの? もったいない。」
 彼がぐっと身を寄せ、陽光を遮っても、体温は上昇し続ける。彼の指はするすると髪を伝って、自然の摂理であるかのように抵抗なく、私の頬に触れた。彼の体も、見た目に反して高い熱を帯びていた。
「おれは好きだけどな。長い髪。」


「久しぶり、莉緒ちゃん。」
 サークルを引退した彼とは数ヶ月ぶりの再会だ。会えない間に記憶が薄れていくことには肯定的でいたはずなのに、再び顔を合わせた途端、新鮮な喜びに塗り替えられてしまう。変わらない笑顔に対して抱く、私の気持ちも変わらない。
 相変わらず白い肌。何度も見かけたことのあるTシャツ。髪の長さもいつも代わり映えがしない。ひとつだけ違うのは、彼がもう、友人の恋人であるということ。
「わざわざ呼び出したってことは、コーヒーの1杯でもご馳走してくれるんだろうね?」
「あんた、コーヒー飲めないじゃん。」
「言葉の綾ってやつでしょーが。揚げ足取るんじゃないよ。ねえ? 莉緒ちゃん。」
 彼女の椅子の背に手をやり、ちらりとこちらを振り向く彼。私は細めた目の奥で、そっと視線を落とした。
「で、何の用よ。」
「だから、莉緒が男紹介してほしいって。」
「ああ。ふぅん。そんなに欲しいの?」
 彼氏。と、頬杖をついた彼は品定めするような目で私を見る。そんな謂れはないのに、罪悪感が込み上げた。頷き紛いに俯くと、呟く声がした。
「かわいいんだから、モテるだろうに。」
 すっかり言葉を失くした私の前で、二人は遠慮なく会話の応酬を繰り広げ、再びドリンクをねだられた彼女が文句を口にしながら立ち上がる。ああ、またその笑い方。
 遠ざかる後ろ姿に、彼の穏やかな視線が注がれている。つられて目をやると、短い髪の下から伸びた金のピアスが、光をこちらに照り返していた。
 その輝きが階段の下に沈んだ後、私たちは視線を絡め合う。口の中が乾いていくのを感じたけれど、グラスに手を伸ばすだけでも細やかな風が立って、この空間を壊すかと思うと、動けなかった。
「お土産、ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
「ご卒業、おめでとうございます。」
「ありがとう。」
「ご就職も……」
「莉緒ちゃん。」
 名前を呼ぶ声はすべてを遮って、私の思考を独占した。焦がれていた白い指が伸びてきて、胸元から髪を一房すくう。
「他にあるんじゃない、言いたいこと。」
 聞き返す以外では、何を言っても肯定になってしまう気がした。その場しのぎの一音を紡ぐと、焦れったいとでも言いたげに彼が身を乗り出す。その体は熱く、私も浮かされるような感覚を取り戻していった。
「髪、切ってないんだね。あれからずっと伸ばしてるの?」
「そういうわけじゃ。だって彼女は、髪……。」
 薄暗い電球の下で、彼がゆるく目を細める。この方が似合うなと思った。溶けた氷がかたんと音を立てて、私をあざ笑った。

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