ショートショート ストライク

 流されて付き合った2軒目の居酒屋を出ると、終電の時刻をとうに過ぎていた。大学生だし、こんな夜があってもしかたない。
「自転車ない人は誰かに乗っけてもらって!」
 夜の道端で大声を張り上げるその人が他人でないことが切ない。電信柱の脇から自転車を引っ張ってきた男が、私の隣でサドルに跨った。荷台に腰を下ろし上着の裾を掴むと、男の手によって彼の心臓の前に引き出される。とことん嫌な夜だ。背中に頬を寄せると、ふっと息を吐いたのが振動となり伝わってきた。笑ったのか。
 男同士、女同士、そんな自転車とも並んで、私たちは走った。


 最初の店で、男はたまたま向かいの席に座っていた。
 彼らとともに活動したのはわずか数ヶ月。何を思うことも思われることもないのではと、居た堪れなかった。2,3年生との別れを中心に惜しんでもらい、その隙に会費分の飲み食いができれば十分と、早々に割り切った私は、最低限の責務を果たすため率先して声をかけた。
「ご卒業、おめでとうございます。」
「ありがとう。」
 達成感とともに、女に産んでもらったことへの感謝が湧き上がる。あとは適度にグラスに口をつけ、そこそこの笑みを浮かべて頷いていれば、誰も文句はないはずだ。
 しかし、彼は続けた。
「何飲んでるの?」
「ジンジャーハイです。」
「ハイボール飲むんだ。」
「ウイスキーが好きなので。」と口走ってから、しまったと思った。女がウイスキーなんか好きと言っちゃいけない。女がウイスキーなんかちびちびやりながら、曖昧な笑みを浮かべて黙りこくってちゃいけないのだ。お母さんごめんなさい。せっかく産んでもらったのにまだ女を上手く使えない。女は黙ってカシオレでした。
 言葉に詰まった私を見かねてか、彼が言う。
「すごいね。おれ、酒は好きだけどすぐ酔っちゃうから。見て、カシオレ。ダサいでしょ。」
「そんなことないです。かわいいですよ。」
「本当?」
 改心して口にした社交辞令に、あからさまに機嫌をよくした彼は、テーブルの縁にあったグラスを不自然に中央へ運び、ぐっとこちらへ身を乗り出した。
「おれ、ずっと山野さんと話してみたかったんだよね。」


 笑って頷き続けた結果、気がつくとここはボウリング場。飛び交う会話からして御用達のようで、皆馴染みのシューズやボールを手に取り、流れるようにレーンへと向かっていく。
 戸惑い立ち尽くす私の肩を、彼はいとも簡単に抱いた。大人しく従うと、大小様々な青色の靴が、乱雑に詰め込まれた棚へと導かれる。
「足、いくつ?」
「21です。」
 ちっちゃ、と呟く声はどこか弾んでいた。やがて差し出された手の中に私が目をやると、それは笑いに変わった。
「ふふ。子供用。」
 小気味いい音があちこちから響き出す。私は一人、赤色の靴でレーンに下り立った。
 続いて彼が選んだボールは、もちろん一番軽いものだったけれど、それすら上手く扱えずガーターを連発する私を見て、先輩方は大いに笑いなさった。両手で投げろとヤジが飛んだのでその通りにすると、玉は思いの外弾んだが、その後は回転もないままちんたら進み、ようやく最奥に辿り着くと、ピンを2本だけ巻き込んで静かなる最後を迎えた。恥ずかしながらこれが私の、ボウリングにおける生涯唯一の得点である。振り返ると、誰も彼も腹を抱えて笑いながら手招きしており、無数の腕は、引き返してきた私の頭をめちゃくちゃに撫で回した。輪の中にいた彼も、遠慮なく私の髪に触れた。
 そんな調子でワンゲームを終える頃には、私の神経はすっかりすり減ってしまっていた。ベンチ脇の階段をそそくさと上がり逃げ込んだ観戦席からは、会場全体を見渡すことができる。何となく彼を探すと、既に別のレーンでゲームを始めていた。背が高いせいか細身に見えるが、服の下には逞しい筋肉があることを、私は自転車の上で知っていた。その通り、見事なプレーを見せている。でも格好つけたような助走と、投げた後の伸び切った手足が、なんだかすごく気持ち悪かった。


 歓声が聞こえてそちらを見ると、またひとつゲームが終わったらしい。ばらばらに散っていく人の中で、彼だけが立ち止まっている。意図をわかりかねて観察していると、目が合った。その瞬間、顔が綻ぶのを見てしまい、私はぞっとした。今さら逃げられるわけもなく、彼がやって来るのを観念して待つ。走らなくていいのに。
「疲れちゃった?」
「いえ。ちょっと眠たいだけです。」
 嘘ではないが、気怠いという方が正しかった。
「もう3時だもんね。みんな元気だなぁ。」
「せっかくなんですし、先輩も楽しんでください。」
 かすかにトゲを含ませたが効果はなく、言葉ですらない適当な音を返しながら、彼は肩が触れる距離に腰を下ろした。
「おれも眠いなぁ。」
 めんどくさいな、と思った。しかしこの晴れの日に無礼講は許されない。黙って机に伏せ、目を閉じると、頭に重みがのしかかる。振り払うように首をひねって仰ぎ見たところ、彼もこちらを覗き込んでいて、見つめ合う形になった。髪を撫でていた手が、絡みつくように輪郭を這って私の顎に触れる。諦めるように瞼を伏せると、唇に柔らかい感触があった。


 私は大学生だから、こんな夜があってもいいけれど、彼は今日、大学生じゃなくなった。こんな無責任なキスは許されない。ただ、怒るのは面倒なので目をつむっておく。遠くでピンが激しく倒れ込む音がした。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?