ショートショート 十月の海

 連絡はいつも彼から。私ではない。ただ、そのことにどれくらい意味があるだろう。
 卒業式以来、すでに幾度かの逢瀬を重ねていた。


 体育館から教室へと引き返してきた私たちは、ひとしきりクラスメイトとの別れを惜しむと連れ立って職員室に向かった。周囲に悟られぬよう十分な深呼吸もできないままドアをノックする。顔を出したのは、別の教師だった。
「卒業おめでとう。」
「ありがとうございます。」
 拍子抜けしつつ彼の名を告げると、やはりすんなり取り次いでくれたけれど、瞬く間に再び息が詰まっていく。やがていつもの通り、見事なまでにスーツを着こなす、背筋の伸びた彼が軽快な足取りで現れ、私たちの姿をみとめて破顔した。
「おお。どうしたの。」
「お世話になりました。」
 頭を下げる流れのままに、私は顔をそむけてしまった。友人たちがごく自然に会話を引き取ってくれたが、そこにはまるで関係を強調するような言葉ばかりが飛び交った。
「私、先生のおかげで受験受かりました。」
「あなたの努力ですよ。」
 卒業おめでとう。なんて言わないでほしかった。この場なら泣いても許されるだろう。しかし私は彼の一挙手一投足を目に焼き付けるため、懸命に涙を堪えた。
「先生、一緒に写真撮ってください。」
 一人が事もなげにそう言い、彼も二つ返事で応じた。先程の教師が呼び戻され、廊下の端から友人のスマホを構える。隣でちらと見上げると、目敏く気がつき口角を上げて見せた彼のおかげで、私もどうにか笑って写ることができた。すぐに忘れることはできなくても、その日まではこの写真に縋っていようと、そう思った。
 ところが、写りを確認し終えた彼女がブレザーのポケットにそれをしまおうとしたとき、彼は言った。
「卒業したんだし、せっかくだから連絡先交換しよう。お祝いするよ。」
 歓声の中、皆続々と画面を差し出し、彼もスーツの裾から取り出した飾り気のないiPhoneを、骨張った指で操っていく。その姿が、最後でないとして。
 所詮、先延ばしでしかない。いずれ泣くことになる。ただそれが今日じゃないというだけで、途端に笑みになる私は、やっぱり若い。


 徐々に色褪せていくはずだった彼の姿は、二年経っても鮮やかなまま。そして今、「元気か?」の一言で、過ちはいとも簡単に繰り返されようとしていた。
 会っている時には頻繁に冗談も口にする愉快な彼が、メッセージになるといつもこのように簡潔で、その度に、この関係がどういうものか説かれているように感じた。体が離れているならせめて心で寄り添いたいと、つい願ってしまう私は、現実を突きつけられては切り傷のようなささやかな痛みを勝手に味わっている。
「元気です。」
「それは何より! ちゃんと食ってるか? 飯でもどう?」
 隣に立つ人の表情も読み取れないほど、暗い砂浜に立っているようだった。黒黒とした海のできるだけ深くに沈め、影すら見えないようにしていた思いが、気まぐれな波に攫われ、時々ぷかりと顔を出す。その時だけは心に光が差し、水面に浮かぶそれはきらきらと輝いて見せる。隣の彼は、笑顔だ。
 線路下に止まった青いはずの車は、くすみがかっている。歩道の端から手を伸ばし、ドアを開けて暗がりを覗き込むと、彼はやはり微笑んでいた。他愛もない会話に揺さぶられながら、心が少しずつ満ちていく。
 近くにいる彼は、誰よりも素敵な人に見える。遠くから振り返って見れば、どうだろう。だからといって、この手を振りほどく気にはなれない。
 街を彩る光の粒が、ガラスの上を流れていく。いくつもの景色を追い越し、車はやがて、海辺のホテルに停まった。



 エレベーターの扉が閉まると、あの頃憧れた指が伸びてきて、私の肩を引き寄せた。そのまま最上階のバーラウンジへと導かれ、窓際のテーブルにつく。光り輝く街並みの先に、真っ暗な海が果てしなく広がっていた。
「きれいですね。」
 彼もちらりと海を見る。その眼差しはもっと遠くの何かを捉えているようだったけれど、暗闇にいくら目をこらしても、同じものは見えそうになかった。私にとってこれほど特別な夜も、彼にとっては何千と越えてきた中の一夜にすぎない。今夜も家に帰れば、何の躊躇もなく彼を抱きしめることのできる人間が、変わらず出迎えるのだろう。
「先生」
「ん?」
 私の呼びかけを彼は決して聞き逃さないけれど、もう答えをくれることはないとわかっているから、昔のように素直に尋ねることはできない。ただ、私がこうして悩み俯くこともよしとしない彼は、あくまで優しく先を促す。
「どうしたの。」
 どこがわからないの、とでも言いたげに。
 この人のことを、悪く思ってもいいだろうか。ずっと尊敬していた。自らの意志で別れを選ぶようになるくらいなら、涙ながらに卒業していく方がよかった。
 顔を上げると、彼は私の回答を根気よく待っている。深い色の、穏やかで冷めた瞳。ねぇ先生。どうしたらいいですか。


 駅前のロータリーに停車すると、彼はシートに深く背を預けて腕を伸ばした。スーツの袖から腕時計を出して覗き込むその姿。教室で何度も見かけた。
「時間、大丈夫?」
「はい。ごちそうさまでした。」
 左足をぐっと伸ばすと、赤く腫れ上がった痕に靴の縁がまた強く食い込んだ。無理をしたなと自嘲する。靴底がコンクリートを擦る。私は意を決して、車の外に身を投げた。
 振り向いて腰を屈め、車内を覗き込むも、その姿は闇に滲んでいる。こんなにぼやけてちゃ、あとで思い出せないじゃない。彼は「またね。」と言ったが、返事はしなかった。ドアを閉め一歩引くと、立ち尽くす私を置いて、車は案外あっという間に遠ざかった。
 ホームに降りると電光掲示板に表示はひとつ。津田沼行き。彼にはああ言ったが、この列車では私の家まで届かない。火照った肌にはちょうどいいと思えた空気も、大きく吸い込むと胸が冷え冷えして悲しくなった。
 終点で降り、カラオケを探そう。エレファントカシマシがいい。そのうち朝が来て、再び水面も輝くだろう。

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