絵が描けないなら文を書けばいいじゃない

絵心が行方不明な、フリーライターのaoikaraです。

美術や図画工作の授業は嫌いじゃなかった。模写とかデッサンとかは好きだったし、出来も悪くはなかったと思う。

でも色塗りは苦手。よく見ているキャラクターをさっと描く、みたいなのも苦手。苦手意識を募らせていたら何も描かなくなって、もう今は本当に絵心がない。何もない状態で何かを描いてと言われたら、奇妙なものができあがるだろう。


自分に絵心がないからこそ、絵がうまい人を見るとほれぼれとしてしまう。素直に尊敬してしまう。

SNSやnoteなどに載っているエッセイ漫画を見て、「私も絵が描けたら、こうやってわかりやすく面白く伝えられるのに」と思ったことが何度かある。

いや、ちょっと待て。

それはちょっと違う気がする。その人のエッセイ漫画がわかりやすく面白いのは、“絵”という手段だからではなく、“どうやって伝えるか”をきちんと考えて適格に伝えられているから、じゃないか。その人の努力がある。


私はライターだ。SNSでもnoteでも描かない。代わりに書いている。仕事として書くものも、プライベートで書くものも、良い反応が得られなかったり、自分でも手応えが感じられなかったりするときがある。どうしたらいいんだろう、どうしたら読まれるんだろうと、よく悩む。

そんなとき、自分が受け手として面白いものや良いものを見ると、圧倒されてしまう。絵心の話でいうところの、面白い作品や、素晴らしい絵、ためになるエッセイ漫画など。絵だけでなく、お笑いとか、音楽とかでもある。

そして、「私は絵心がないからな」と思うのは、面白いものや良いものを作れない自分に「私とは手段が違うから」と言い訳をしているんじゃないか。諦めるちょうどいい理由を見つけているんじゃないか。

絵を使えば、お笑いだから、音楽ならでは、とか。私はその手段を持っていないから、結果が出せなくても仕方ないと。

でも、文章でだって圧倒されることは多々ある。小説なんか、どんな作品を読んでいても、発想や言葉選び、ストーリーの展開、世界観への没入感に圧倒される。

雑誌だって、書き手目線になると、スマートな構成や文章に圧倒される。このnoteでも、ものすごく面白い人の文章がたくさんある。

みんな私と同じ“書く”手段だ。言い訳できないから、つい目をそらしたくなる。


ちゃんと認めてしまえばいい。そして、私には何が足りないのか、とことん考えてみればいい。自分の足りないものから目を背けることはやめて、もっと面白いものを、もっと良いものを、“書いて”表現したい。

圧倒されたその後に、諦めてもいいと甘えていたら、たぶんいつまでも同じところで同じ悩みに遭遇する。だから私は、どんな表現も目をそらさずに見て、圧倒されて、足りない自分を自覚しないと。

努力しないと、始まんないよね。

2021年8月22日(日)

No.972

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