見出し画像

怒りAと怒りBの違い

Aには怒らなかったけど、Bには怒った、フリーライターのaoikaraです。

AもBも、どちらも、“怒る人が多い出来事”だけど、全く違う話。仮名とかではなく、事象A、事象Bとしている。自称ではない。

そして、どちらも私は当事者じゃない。そして、多くの人にとっても、AもBも当事者ではない。


Aについては、世間で多くの人がものすごく怒っていた。Aの新しい事実が出てくるたびに、世間で騒がれて、怒っている人がいた。私は怒りというより呆れていて、あまり感情的なものはなかった。関心がないわけではない。つまり、どうでもいいから感情が湧いてこなかったわけではない。

私は、「当事者で結論が出ているなら、その結論でいいのではないか」という感想を抱いていた。その結論には納得できないという点でも批判が出ていたように見える。

怒ってもいいし、批判してもいいけど、「そんなにもたたきのめされてしまうのかな」と私は思っていた。でも、たぶん私の感覚が違うのだろう、と考えていた。


Bについては、世間を騒がせてはいない。一部の人の間で「問題ではないか」と疑問を持たれて、否定的な意見が多い印象だった。

なぜだか私はすごく感情的になっていて、怒りが湧いていた。それを表に出すわけではないけど、心の「え、なんで?大問題でしょ?」と感じていた。

同時に、当事者でもない自分が、怒りに満ちているのが不思議だった。そして、私がAの出来事で感じていた、「どうしてそんなに怒っているのだろう」という感情が、自分自身の中にもあるのだと気づいた。


なぜ私がBに怒ったのか、考えてみることにした。Bについては、意図的ではなく、“とある存在をぞんざいに扱っている”状態だったので、批判があった。そして、私は“とある存在”と同じ部分があったので(完全に同じというわけではないけど)、自分自身を重ねて、「ぞんざいに扱われている」ことに憤慨したのかもしれない。

ってなると、私が怒っているのって、めちゃくちゃ“私”が理由というか、ものすごく主観なんだよね。まあ感情は主観なんだけど。

そして、当事者間では問題になっていないのもわかったから、怒りを表に出さなかった。私が怒るのって、私のためでしかない。関係のない私が何か言うのは、むしろぞんざいに扱われている存在を、傷つけに行くようなものだった。


私は怒ることも、怒りを表に出すことも、得意ではない。すごく自分自身にストレスがかかる。同時に、怒りを出さないことにもストレスがかかる。八方塞がり。

自分のために怒りを出すことは、決して悪いことではない。必要な感情で、感情は自分のためにあるものだから。わがままやエゴなんかではなく、自分を大切にするという意味で。

誰かの怒りを見ると、動悸のようにドキドキとしてしまうのだけど、「この人は、自分のために怒っているんだな」(もちろん誰かのために怒っていることもある)と考えれば、ビクビクせずに受け止められるかもしれないな。

2022年12月1日(木)

No.1427

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?